2013年8月31日土曜日

関東大震災朝鮮人犠牲者90周年慰霊祭/藤岡市成道寺

朝鮮人犠牲者慰霊碑

 1923年9月1日の関東大震災から90年の今年、日朝友好連帯群馬県民会議、連合群馬藤岡地域協議会の主催で行われた朝鮮人犠牲者の慰霊祭は例年になく多い100人規模の参加となった。
 震災後の混乱の中、官憲によるデマの流布により民間自警団などが6000人とも7000人いわれる多くの朝鮮人を虐殺した痛ましい事件は、我々にとりつらい申し開きできない歴史的事実としてこの時期になると迫ってくる。
 
 〈特に藤岡では、警察署に逃げ込んだ朝鮮人17人を、「国賊朝鮮人を撲滅すべし」と警察に談判すること数日、夜8時頃、民衆数千人が警察門前に集まり、留置所を破壊し、16人を引きずり出し、門前にて撲殺し、警察に並べて死体の山となした。
7日夜、激昂した民衆、残り1人の朝鮮人を留置所より出し、殺し、警察を破壊し、8時から11時まで全くの無法状態となった。
 18日、町役場より命を受けた岡住豊吉(朝鮮人の日本名)らが虐殺された17名の死体を集め大葬する。以来、成道寺で毎年供養する。〉
 これが慰霊碑に刻まれている、先代の住職が書いたおおよその内容だ。
 このような許されざる過ちを二度と繰り返さないためにもこの慰霊祭を毎年開いている。
 角田義一さん、桑原功さん、猪上さん、大野安中市議も毎年参加している。
 「関東大震災から90年」をマスコミはしきりに流すが、その中で起きた朝鮮人大虐殺のことには一切触れない。
 政府には真相解明の動きなど全くない。
昨年も書いたが、自らの加害には全く目を向けようとせず、拉致問題ばかり声高に叫んでも、しらけるだけだろうことが理解できないようだ。
 人間と人間の信頼は力ずくでは生まれない。
1979年制作のドキュメンタリー映画「受難の歴史」は歴史資料としても価値ある作品なのでどこかで見つけて観て欲しい。

 



 
 
 

2013年8月26日月曜日

町政報告会から選挙戦へ


center;"> 箱石公民館での町政報告

 酷暑続きの夏だが、昨日は暑さも少し落ち着いていた。
そんななか50人ほどの参加を得て、町政報告会を地元で開催した。 議員になった当初からお世話になっている塚越紀一県議の心強いあいさつ、中沢経吉さんの町政をよく知っていればこその発言、教育現場の状況を語った眞下元県教組委員長の激励などを受け、気持ちよく現在の町の状況、これからの展望を30分ほど話した。予定より長くなっていたが、気の知れた仲間という感覚もあり自然と話が弾んでいた。
 来年開通予定の広幹道について言えば、当初は平面道路だったが、玉村部分だけが、突然、高盛り土方式に変更されたことに対し、広幹道を考える会を結成して、8000名以上の署名を背景に、当時の小寺知事に面会、平面化を要請したことや伊勢崎土木事務所長と町で5回ほど「話合い交渉」をし、平面化への流れをつくっていったこと、その糸口をつけてくれたのが塚越県議であり、伊藤基隆、角田義一両参議院議員だった。
 これは私が議員になった原点のことでもあり、その仲間達が今も後援会の基軸に座っているから心強い。
 他にも色んな話をしたが、初心に戻り、いざというときにはたたかう後援会がいよいよ動き出す。
 

気分はインドネシア


 昨日は朝から集会の準備で気ぜわしかったが、早朝、友人の川田からメールが入り、「玉村町内でインドネシア人が集まって食事会をするから昼頃来い」とのこと。
 よくもまあこんな忙しい時にこんなことを企画しよって、と無視していたが、はやり昼頃になると、せっかくの友からの誘いを断っては今後のつきあいに差し障りがでるなどと勝手に思い、短時間なら、という気分になり、現場へ急行。
 食事の準備中だったが在日インドネシア人の勢いに押され、特に元気のいいイスラム女性にせがまれれば、男・石川イヤなどとは言いません。イスラムの帽子をかぶり記念の一枚。
しかし、川田はすっかりハマってるねえ。
 その川田、4時からの報告集会にも顔を出してくれた。友情はありがたい。
 
 安倍首相、韓国、中国に行けず、またまた中東訪問、ついにはパンギムン国連事務総長から歴史認識問題でお叱りを受ける事態、何をこだわっているのか悲しいピエロのようだ。
 人間同士の交流に国境などいらない。
 
 


2013年8月25日日曜日

保坂展人世田谷区長は行動する人だ。




 



デンマークのロラン島に着きました。7月2日のレオ・クリステンセンさんをお招きして講演会の様子を今日の「太陽のまちから」最新版にアップしましたので、ご覧下さい。さて、このデンマーク・ロラン島であちこちを見てまわる際のポイントは「自然エネルギー活用のための都市と地方の連携」コペンハーゲン市の自治体でも同様の取り組みをしているところがあるようです。8月上旬にひらかれた「ふるさと区民まつり首長会議」の報告を今回はお届けします。

自然エネルギー、自治体間連携で一歩を

7月下旬は大雨と不安定な天候が続きましたが、8月に入って本格的な暑さが戻ってきました。8日からは、甲子園で夏の全国高校野球大会が始まります。

 電力使用量のピークは、夏の午後1時から3時ごろにかけてとされています。法人や事業所の消費量が大きく影響するのでしょうが、「猛暑にクーラーをかけてテレビで高校野球を観戦する」といったイメージが強いのも確かです。

 2年前の春、大震災と原発事故を受けて、政府による「電力使用制限令」が出され、節電が大きくクローズアップされたことは記憶に新しいところです。当時、私は世田谷区のリアルタイム電力使用データを公開するよう、東京電力に重ねて求めました。紆余曲折をへて公表されるようになったのは、「23区内」の「前日分」のデータでした。

 震災前年となる2010年のピークは、7月23日の1336.1万キロワット。一方、7月から8月にかけての電力使用量は平均すると800万から900万キロワットということがわかりました。一般に「電力需要」とされていたものが可視化できるようになり、電力供給が逼迫(ひっぱく)するピーク時間帯には、グラフを見て、電力使用を抑制するように呼びかけることができるようになったのです。現在も、情報開示は続けています。

 さらに昨年、世田谷区では200カ所の「お休み処」を指定しました。公共施設や高齢者施設、集会室、薬局、銭湯などに人が集まれば、結果的に節電につながり、涼みながら水分を補給することで熱中症対策にもなると考え、「お休み処」を記した「涼風(すずかぜ)マップ」配りました。

 ピーク時を避けた効果的な電力使用やクールシェアによる地域内の使用量抑制に取り組んできただけでなく、自然エネルギーを活用して、交流自治体との地域間連携を強めようとも考えています。

 この3日と4日に「せたがやふるさと区民まつり」が開かれ、34万人が来場しました。世田谷区最大のイベントです。そのなかで、交流のある36自治体のうち、15人の市町村長などが顔をそろえてくださいました。

 北から順番に、青森県西目屋村長、岩手県八幡平市長、岩泉副町長、秋田県横手市副市長、山形県舟形町総務課長、福島県本宮市長、西会津町長、群馬県川場村長、埼玉県熊谷市長、新潟県十日町市長、長野県豊丘村副村長、島根県隠岐の島町副町長、香川県土庄町長、熊本県熊本市副市長、沖縄県宮古島市長の皆さんです。

 この「首長懇談会」では、私がまず、神奈川県三浦市の区有地に太陽光発電所を建設していることを紹介しました。そのうえで、「交流自治体のエネルギー事業で生まれた電気を、PPS(新電力=特定規模電気事業者)を通じて、88万の人口を抱える世田谷区が購入すことができれば」と語りかけました。小さくとも確実な一歩を刻んでいきたいとの思いを伝えたのです。

 すると、さまざまなエネルギー事業の取り組みが報告されました。

「太陽のまちから」(2013年8月6日)

「日本初の商業用の地熱発電所が運転をはじめて40年目を迎えている。さらに事業化に向けた努力をしているが、東北電力は受電する能力がなく、逆に市が多額の設備投資を求められている。国の政策で進めているのに、事業者が壁となっている」(八幡平市)

「間伐材を使った木質バイオマス発電や、川を使った小水力発電を2年後には開始したい」(川場村)

「温泉の熱を利用するバイナリー発電に取り組み、キノコを栽培した後の廃菌床の木材を使ったペレットも生産している。こうして削減した二酸化炭素の排出権をソニーに売却している」(十日町市)

「公共施設の屋根貸し事業で、市は使用料収入を得ている。また、調整池の土地を太陽光発電用地としても貸し出している」(熊谷市)

「来間島で88世帯の屋根を一軒2万円で借り、太陽光発電で島の電力をまかなう事業で年間2千万円の収益をあげている。4千世帯分の電力をまかなうメガソーラも設置。2人乗りソーラーカーを開発していてレンタカーとして使いたい」(宮古島市)

 世田谷区ではふたたび10月に会合を呼びかけ、本格的な交流から実際のプロジェクトへとつなげていく予定です。
 
 

2013年8月21日水曜日

藤沢周平本を読む

 1月に行った還暦同窓会の席での話だったらしい。
新井淳ちゃんが藤沢周平の本に入れ込み、その深みを話していると、内田典子も意気投合、後日、藤沢本を16冊、淳ちゃんは典子ちゃんに持って行った。 
 彼女は勢いで3冊を数日で読み切り、偶然会った私に「淳ちゃんに返して」と3冊を渡された。2月頃のことだっただろうか。
 藤沢本は私とて好んで読んでいたが、この3冊はまだだったので、そのまま、借り、今日に至っていた。
 その「玄鳥」「雪あかり」「はしり雨」の3冊を昨夜読み切った。
寝り込むために本をひろげるようなもので、どうしても時間がかかってしまう。
 また、読み切ったなどと偉そうにいっても内容はほとんど覚えていない。
 しかし、藤沢周平作品はじっとくる。今は昔の時代に生きた人々が、活き活きと目の前に現れてくるようだ。とても親近感あふれる人たちが登場し、今と変わらない感覚で生活している。
生きている今が大事なんだ、と感じさせてくれる。
 雪の季節になったら、同級生に声をかけ、鶴岡市の藤沢周平記念館を訪ねたくなった。

 
 しかし、福島原発事故は底なしだ。第一原発の地上タンクから300トン以上の高濃度汚染水が漏れ出し、極めて危険な状況が起きている。いったいどう対処しようとするのか。
 集団的自衛権や憲法改正、誇りある国づくりどころではないだろう。
 原発事故にまともに対応できず、誇りある国などといえるのか。
藤沢周平が描いた時代の人々を想いながら生きていきたい。
 
 

2013年8月18日日曜日

玉村町町議選の旗揚げ準備と映画ロケ見学

ロケ地は玉村南中プール
吉田監督を真ん中になじみの面々

 いよいよ10月6日の玉村町町議選に向け動き出した。今回は全体に非常に遅い出足だが、少数激戦を想定しこれから激しい展開が予想される。
 我が陣営は25日に地元箱石公民館で町政報告集会を開催しもって旗揚げとする。
 まずは本人が動かなければ、ということで、地元を中心に朝からあいさつ回りをした。
 最近の昼の暑さは、身動きできないほどなので、朝のうちを選んでのことだ。
 気がつかなかったが10時過ぎに土田君からの着信があった。11時頃折り返しの電話をすると、映画撮影がもう始まっているというので、玉村南中へ行くとプールでの撮影真っ最中。
 青木さん、町田さんもいるではないか。まだ「漂泊」撮影の余韻が残っているようだ。
 今後、町内での映画ロケの時はこのメンバーが基本なるのだろうか。
 吉田康弘監督を土田君から紹介されたが、話を聞いていると、少なくとも2度は会っているのだが全く印象にない。
 聞けば、井筒和幸監督の第一期生で、すでに映画は4本ほど作っている。「キトキト」もそうだ。
 あの個性的な井筒監督といっしょでは、なかなか印象に残らなかったのかもしれない。
 しかし、そこは井筒監督の玉村現地マネージャー土田君の電話番号はちゃんと知っていて今回の玉村ロケとなった。
 この映画、どんな映画になるか分からないが、青春映画だそうだ。
 明日は栃木、夜は前橋に戻り撮影するという。映画づくりは観るほど楽じゃない。
 吉田康弘監督、まだ34才の今後に期待したい。
 
 

2013年8月16日金曜日

逆さ地図で見る日本と不戦を誓わない安倍首相

東アジアとつながる日本

 久しぶりに逆さ日本地図を見た。最初に見たのはもう10年以上前、新幹線に乗っているとき、座席に置いてあった旅行本の中の一枚の写真がそれだった。
こういう角度からみるとこうなんだ、と感心した覚えがある。
 昨日は新聞整理をしていると、「逆さ地図で日本が見えてくる」というJT生命誌研究館館長の中村桂子さんの記事を見つけた。
 富山県では「環日本海・東アジア諸国図」を作製し、環日本海諸国の交流の拠点づくりを国内にPRすること、対岸国に日本列島の重心が富山県沖の日本海にあることを示すためにこの地図をつくった。
 日本海が大きな湖にも見え、それを囲むひとつの生活圏が浮かび上がる。
 日本は本来、中国、韓国、北朝鮮、ロシアとゆったりつながる生活文化圏区域にあるという方が自然かもしれない。
 
 はるか遠くのアメリカとの軍事同盟にのめり込み、近隣諸国と軋轢を生み続ける安倍政権は、昨日の戦没者追悼式で、ついに「加害責任と謝罪・不戦の誓い」に触れなかった。

 韓国からは、「過去を直視する勇気と相手の痛みに配慮する姿勢がなければ未来への信頼を築けない」(朴韓国大統領)と諭され、中国からは、「歴史の正義と人類の良識に公然と挑戦しており、中国などアジアの被害国の国民の感情を著しく傷つけた」(洪中国外務省副報道官)と強烈な抗議を受けた。

 安倍政権はかつての朝鮮植民地政策、日中戦争でどのような残虐行為の数々を行ってきたかを認めたくないらしいが、それでは国際社会で孤立の道を歩むことになる。
 過去の明らかな非を認める勇気もなく、他国を軽んじ、「自国のみの全く一面的で独善的な誇り」しか語れない安倍に、この逆さ日本地図を見せてやりたい。
 日本という島国一国では足下がおぼつかないことくらい理解できるだろう。 
 周辺諸国との連携強化しか日本に進むべき未来はない。
安倍の余りのひどさに鳩山由紀夫が眩しく見えてくる。

 昨日は玉村八幡宮の梅林宮司といっしょに大塚政義先生の自宅を訪ね、短時間だが線香をたむけ、新盆見舞いをした。
 ご家族も元気なご様子で、このような家族の元だから、好きな歴史探訪をしてこれたのかなあ、とつくづく思う。
 誰もが少しずつ時間軸をづらしながら人生を生きている。これが社会だ。
 今は全うされたが、大塚政義先生の人生の佳境の時期に出会えたのは喜びとしか言うことはできない。
 家族のことはほとんど語らなかった先生だが、娘さんは北京で中国人と家庭を持ち生活を営んでいる。
 昨日、彼女の笑顔に会ったとき、大塚先生が日中友好・平和の一手を打ってくれていたような気さえする。
                《前事不忘,後事之師》

 

2013年8月13日火曜日

激暑のなか8月15日「敗戦記念日」が迫る。

 10日の土曜日、10月6日の玉村町議会選挙に向け、たたかう意志表明と支援のお願いのため、地元箱石地区を阿藤栄後援会長、金子修幹事長と3人であいさつ回りをした。
 自転車を使いながら、3時間ほど回ったが、暑くて暑くて頭がクラクラしてくるのがわかった。
 途中、休憩し、水分補給をしたが、その後も暑さは一層強まり、正午を少し回ったところで、あいさつ回りを何とか無事終了、事務所に帰り、冷たいビールを飲み、軽食を取り、昼休み、ということで何とか命拾い。
 熱中症とはこういう症状だろうと実感したが、戦争中、前線に送られ、戦いをになった兵士たち、とくに、中国戦線、南方戦線の暑い地域に送られた兵士たちは、もう生きているだけで精一杯、現実の戦いなど出来なかったのではないか。
 この時期になると、「語り継ぐ戦争」特集(朝日新聞)が組まれ、その悲惨を描く。
 今朝は、東部ニューギニア第18軍直轄通信隊の通信兵だった吉賀清人さん(92歳)が投稿した「夢にも忘れぬ戦場ニューギニア」。
〈ポートモレスビーを目指し東進するも米豪の制空権下、後退を余儀なくされ、海岸寄りのヤシ林、ジャングルの中を西へ400キロ以上転進を重ねた。この間、食料はない。全員飢えと周期的に発熱するマラリアに侵され、健康な兵士は皆無。
 翌1944年4月には西方アイタペに米軍が上陸。我々は完全に退路を断たれ、山間に逃げ込んだ。体力・気力は消耗し、力尽きる者が続出した。倒れた者はウジがわく死体となり、無間地獄だった。
---飢えた日本兵の中に現地住民の食料を強奪した者がおり、他の中隊の10人くらいが報復で白昼殺された。
 現地住民に期待した食料の供出は乏しく、我々はヘビ、ネズミ、木についた虫は何でも食べた

 戦争体験者は多くを語らない人が多い。その余りにむごい体験だけに口を開けないのだそうだ。しかし、数少ない体験者の話から、死体にわくウジを食べたり、すごいものになると人肉まで食べたという話を聞いた。
 戦争とは人間を人間でなくすることから始まる。まともな人間ならば、出来ないことを戦争という国策のもとで強制されるのだ。
戦争ははじめから非人間的、非人道的なものだ。

 戦争でその意に反し、死んでいった多くの兵士が望むことは、平和であり、後生の人たちを二度とこのような悲惨な目にあわせるな、という強い思いだろう。
 彼らの犠牲のもとに手にした、二度と戦争はしない、政府に戦争をさせないと誓う日本国憲法、これを改正しようとする動きが強まっている。
 戦争の実態を直視しようとしない右翼連中が政権に入ってしまった。
 人の世に仇なし、歴史に仇なし、未来に仇をなそうとする勢力との本格的なたたかいが始まる夏だ。
 
 
 
 

 

2013年8月8日木曜日

松井田町でブルーベリー狩り

ブルーベリーの分配、向こう側には線路
帰り際に全員集合
こういう植物もありました。

 今年のブルーベリー狩りは、勿論、真夏なので暑かったが、曇り空でもあり、炎天下での作業ではなかったので少しは楽といってもよかった。それにしても蒸し暑かった。
 群馬朝鮮学校も夏休み中だが、子供たちの課外授業という形を取ったのだろうか、わざわざ登校し、安重根校長先生をはじめ何人かの若い先生方の引率で、元気な子供たちが、畑の中を自在に動き回りながら、ブルーベリー狩りを楽しんでいた。
 
 
 群馬朝鮮学校には、小学1年生から中学3年生までの生徒がいるが全校でも50人足らず。学校経営も大変厳しい。
大きな家族のような学校なので、年上の生徒はまだまだ幼い小学生のしつけなどもする。
 日本に朝鮮学校があり民族教育をしている。そのことを理解できない日本人もいるようだ。
日本人が逆の立場だったら、全く同じことをするだろう。
 苦難のなかで生きざるを得なかった在日朝鮮・韓国人のこの100年の歴史をもう一度学び直そうかと思っている。
それは日本の歴史だからだ。
 現実には、朝鮮学校で学んでいる子供たちは朝鮮半島に一時的に行くことはあっても、日本で生き抜く人たちだ。
 彼らの帰る場所は朝鮮半島にはもうないのが現実、だから自らのアイデンテイテイーを確認するため民族教育が必要となる。
 また、北東アジアの今後を考えたとき、在日朝鮮・韓国人の果たす役割は相当重要となる。だから、しっかり学び、遊び、成長して欲しい。
 今の日本社会に朝鮮人に対する差別はあっても特権などはない。
 怒りや不安のなか、歯を食いしばり在日同胞達と生きているのが実態だろう。
 しかし、どの民族、どこの国籍に関係なく、未来は子どもたち、若者たちのものだ。このことさえ理解できれば、物事は前進する。
 
 昨日、酒井充子監督作品「台湾アイデンテイテイー」を観た。
子どもの頃から台湾、日本で日本語と日本文化のなかで育った台湾人のドキュメンタリー映画だ。
 1945年敗戦と共に日本軍は台湾から撤退、その後、中国共産党に追われた蒋介石軍が台湾に流れ込み、圧政を続ける。   その中で生きてきた台湾人の話を特集したものだが、高齢化した人たちは必死に自分の拠って立つアイデンテイテイーを求め続ける。
 日本語を違和感なく話す台湾人が自らのアイデンテイテイーを、それでもやはり台湾に求める姿は人を圧するものがある。

 戦争や植民地支配が対象の国々、人々に与える影響はその面的規模という意味でも時間軸の長さという意味でも甚大だという認識が必要だろう。
 現実の姿から歴史を学び、平和な未来への礎とする。
その姿勢こそが求められる。

 午後は、伊勢崎市内で開かれた友人石原仁税理士の群馬県総合表彰受賞祝賀会。
 伊勢崎税務署長、伊勢崎市長、玉村町長をはじめ200人くらいの人が集まっただろうか。
それはそれは派手にやってくれました。
 
 
 
 

2013年8月6日火曜日

「かがや富士子を励ます会」と映画「漂泊」撮影終了後の打上げ

真っ直ぐ語るかがや富士子
選挙戦を支えた伊勢崎選対事務局
食事をしながらの歓談にもキャストの成長がうかがわれる。
藤橋監督と主演キャスト
藤橋監督に花束を

 映画「漂泊」撮影と参院選挙が重なるという状況で悪戦苦闘したが、昨日も日程が重なった。
 
 夕方からの伊勢崎・佐波選対の打ち上げは「かがや富士子を励ます会」に変わり、選挙戦過程の苦労話や安倍政権の危険性と今後どう闘うかなど、話は相変わらず大きな方向に向かった。  しかし、かがや富士子の成長は誰もが認めるところで、今後も仕事をしながら政治活動を続けよ、との声に包まれた。
 角田義一さんの総括提起、中澤經吉さんのアベノミクス批判は的を得たもので、いつものことだが、選挙に負けてもへこたれない集団がここにいる。目先の勝ち負けではなく、人間の未来がかかっているだけに真剣なのだ。
「この勢いで次は10月の玉村町議会選挙だ」という結論に至り、町外で選対ができたような状況。
恐れ入ります。
 
 そして9時過ぎから、すべての撮影を終えた藤橋誠監督ほか現場にいた人たち全員が玉村町の中華料理「大家」に集まり、賑やかに打ち上げ、お互いの労をねぎらった。
 7月7日から始まった撮影は断続的に行われ、ついに昨夜終了した。
 春先に初めて会ったときは、恥ずかしそうな表情をしていた20歳前後のキャストの全員が、今は自信にあふれ、共通の達成感を味わっているようだった。
 監督に言わせると、玉村町の映画製作過程は他のところとだいぶ雰囲気が違っていたようだ。
 確かに、シナリオを何度か書き直させた強者・映画ヤクザ土田文月がいる。
 映画の内容には関心はないが、「映画づくりは楽しいよ」と協賛金集めと宣伝に力を発揮する関口ケアセンター。
 自分の軽トラックを提供し、飲料水などの物資運搬や、県への補助金申請と緻密な会計処理など裏舞台を見事に仕切った青木さん。
 会長の突然の入院により、プロデユーサーに指名され、四苦八苦ながらも見事にやり抜いた町田プロデューサー。
 〈勇壮に舞う龍を見ながら、「ついに蘇ってしまったか。壊せ、潰せ、こんな腐りきったニッポンのなにもかも破壊してしまえ」・・・そして漂泊の題字が鮮やかに浮き上がる〉というシナリオ変更に「面白そうだねえ」と苦もなく、にこやかに笑う病気入院中の製作委員会会長の小林日出幸さん。
 他にもよくもこんなに個性的な曲者たちが集まり、喧嘩もせず無事に終わったと感心してしまう。
おかげでわたしゃ戦力外通告寸前。
 今後の編集・完成に大いに期待したい。
 
 
 
 
 
 

2013年8月5日月曜日

いよいよ「漂泊」撮影も5日に終了予定

藤橋監督と撮影の打ち合わせ
麦わら船と主演の3人

 5日はいよいよ撮影最終日、真夏の撮影は体力勝負ということが心底理解できた。
 勿論、冬は冬でこれまた厳しいものがあるだろうが、玉村町での映画製作の話が出たのが昨年4月のこと、オーデイションから始まり、ロケ対策、撮影支援等思い起こせば色んなことがあった。
 さまざまな人との出会いもあった。そしてキャストが決まり、キチンと演技練習をし(自分自身で)、撮影に臨む姿はなかなか凜々しいものを感じさせる。
 映画はこうしてみんなでつくるもの、ということを実感できたことも成果だ。
 「24の瞳」という訳にはいかないが、手作りの青春映画として誰もが持つ若い頃の「あるひと夏の出来事」を思い出させるものになればいいと思っている。
 多美江役の秋山絵里夏は20才、真世役の加藤愛美は高校3年生、康一役の田中幸城も学生だ。
 自由な発想での映画という芸術に若いとき係わることの意味は後年理解されることだろう。

 今、政治、経済が行き詰まり、極右政権ともいうべき安倍内閣を誕生させてしまった。
「侵略の意味は学問的に定まっていない」(安倍)と過去の侵略戦争を居直り、「憲法改正はナチスの手口を学べ」(麻生)などと公言する国家主義内閣が導くこの国の未来は、決して若者達にとり自由なものではない。

 だからこそ今、自由の持つ意味(力)を身体で味わっておくことが求められている。将来、その自由を制約されそうになったとき、多くの仲間と力を合わせて抵抗していく。
 芸術・文化はそういう時、力を発揮することは歴史が教えてくれている。
 

 

2013年8月4日日曜日

荻村伊智朗と「南北統一コリアチーム」を描いた映画・「ハナ 奇跡の46日間」

《ハナ 奇跡の46日間》
映画「ハナ 奇跡の46日間」では描かれなかった南北「統一コリア」チーム結成の経緯などが今野昇、磯部幸治、申淑玉、佐高信の対談で語られている(週刊金曜日、8月2日号)。
 1991年世界卓球選手権(開催地・千葉県幕張市)で結成された南北「統一コリア」チームを描いた映画だが、当時は韓国の軍事独裁政権の延長線上の時代なので南北間の緊張はものすごく厳しかった。
 87年、盧泰愚大統領が民主化宣言をしたが、まだまだ在日はよく捕まっていた頃、なぜ統一チームができたのか。
 荻村伊智朗が国際卓球連盟の会長になり、彼の努力により実現したのだが、その道は険しかった。
 荻村は選手時代を通じて、長い時間をかけてできた友人が南北にいた。そして中国の周恩来から絶大な信頼を得ていた。
 あの時代に韓国や北朝鮮に行って交渉しようなどという気持ちになること自体が希有な状況の時、彼は韓国に20回、北朝鮮に15回行って交渉した。あきらめないということ。

 しかし映画には統一チームになる経緯が描かれていない。
1980年生まれのムン・ヒョンソン監督がなぜ統一コリアチームができたかという経緯を全く知らなかったのだ。
 単純なエンターテイメントとして、シナリオを作っていた感じだったが、日本に来て卓球関係者に会う度に「なぜ荻村さんが描かれていないの?」と言われ、最終的にパンフレットを作るときに荻村の名前を入れた。

 
 今年の5月、パリでの世界選手権で史上初めてミックスダブルスで男女の北朝鮮と韓国が決勝で対決し、北朝鮮が勝った。
「今、北と南は大変でしょうけど、それに関してはどう考えているか」という記者の質問に対し、韓国卓球協会副会長は「スポーツをやりに来たので、そのような質問に対しては、今は答えられない。ただし韓国の代表として、北朝鮮の兄弟が優勝したことに対して祝福します」と述べ、優勝カップを北と南の人が持って一緒に記念撮影に収まっていた。

 北朝鮮は当時の選手が今は選手団の団長になり、韓国でもヒョン・ジョンファという選手がこの間のオリンピックまで専務理事だった。
 幕張の世界選手権「統一コリアチーム」の感動は息づいている。
国境を越えた「おせっかい」がいることが大事、「第二の荻村伊智朗よ、出でよ」と対談は結ぶ。

映画「ハナ」にはハ・ジウオン、ぺ・ドウナが主演する。
 日本の浅はかな政治により日韓、日中関係が不安定になっている時だけに、是非、観て欲しい映画作品だ。