2010年1月30日土曜日

喧嘩両成敗といきますか。

毎日新聞の記事によれば、1910年の「大逆事件」により処刑された菅野スガの書簡が発見されたという。

 菅野スガに関しては、私が20代の時読んだ本で、明治以降最初に処刑された女性ということで特に強い印象をもっていた。
 検閲を逃れるため、何も書いていない白い和紙に針で細かい穴を開け、光にかざすと文字が見えるように工夫されていて、この事件に全く関与していない幸徳秋水に弁護士をつけるよう依頼している。

 1910年という年は国内では「大逆事件」、国外では「日韓併合」という歴史を画する事件が起きた年だった。「大逆事件」はそのでっち上げが後世で明らかになった。海外への侵略政策を推し進めようとしたとき、国内の反対勢力をつぶしておかなければならない。「外へは侵略、内へは弾圧」は侵略国家の常道で、その暗黒の歴史に学ばなければならない。

あれから100年後の2010年まで日本はどんな歩みをしてきたか、そして今何が起きているか冷静に見る目を養っておく必要がある。

 しばらく、山口一郎北大教授の政治批評から抜粋する。
【小沢一郎民主党幹事長を巡る資金疑惑の捜査は、本来の犯罪捜査ではなく、検察と小沢の権力闘争である。はっきりした贈収賄、脱税などの重大犯罪があれば、昨年、西松建設からの不正献金に関連しての調査でわかっていたことだ。
 検察が信用できない理由は他にもある。水谷建設からの資金提供に関連し、2006年に佐藤栄佐久前福島県知事が収賄で逮捕・起訴された。東京高裁では、執行猶予付き有罪は維持されたものの賄賂の金額はゼロと認定され、検察の主張は根本から否定された。この検察の捜査の杜撰さ、悪辣さは佐藤氏自身の著書「知事抹殺」に詳しく記されている。佐藤氏だけではない。日歯連の1億円小切手事件をめぐる村岡兼造氏の起訴など、同様の政治家捜査はほかにもある。検察のこのような犯罪的行為について一切検証することもなく、「疑惑」を書き立てるメデイアにも、私は大きな不信を持っている。ほとんどの国民は依然として検察を正義と考えている。検察が逮捕・起訴すれば被疑者は悪いやつだと思いこむものである。今の政治家やメデイアがなすべきことは何か。事実に即して検察の捜査の妥当性を検証し、人権を守るための制度を作る事である。取り調べの可視化もそのひとつの手段である。同時に小沢に対しても政治資金の集め方と使い方について、より徹底した情報公開を求めていくしかない。】

 鈴木宗男氏や佐藤優氏の裁判もほとんど茶番と言っていい。「足利事件」のえん罪は事実として突きつけられたが、しかし、検察は謝罪をしない。
 平成14年には当時の三井環大阪高等検察庁公安部長が、検察庁内の不正資金流用について内部告発するため鳥越俊太郎氏とインタビューする予定の数時間前に逮捕された事件を知っている人は多いと思う。彼の罪は逮捕するほどの事もない微罪で、社会的公正に反する検察の行動といえた。メデイアに暴露される前に閉じこめてしまえというわけ。その彼が出所したのがこの1月だ(参照・三井環著「検察の裏金作り」)。まさに好き放題の検察庁を洗いざらい検証する必要がある。

 また、薬事法違反、税理士法違反容疑で朝鮮総連が機動隊を動員して家宅捜査される様子をメデイアは何度も重大事件であるかのように大々的にテレビ放映した。しかし、両事件とも不起訴になったことは伝えていない。あまりに極端な落差ではないか。メデイアの予断で世論が形成されているのが実態だ。「草薙さん報道」のこともあった。ジャーナリズムはその批判を権力の行使に対し向けなければならない。小沢一郎だけでなく検察権力に対してもだ。

 戦前からの教訓は、検察の暴走は歴史を過てることにつながることを銘記したい。今はその岐路にいるという認識が必要だろう。「偉いサンのやることには疑ってかかれ」ということだ。小沢一郎幹事長と検察のバトル、これが深刻なのは、政権内の権力闘争であり、統治者側の分裂の危機ということ。

 喧嘩両成敗といきますか。

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