2011年3月19日土曜日

輪番停電の夜の満月は明るい、思い出すは「じんじろ橋」

日を追うごとに震災の被害の大きさと福島原発の大規模放射能漏れへの危機はつのる一方だ。そもそも原子力発電は安全だなどという発想自体が一から間違っている妄想にすぎない。自然界にないものを作りだし、その処理の方法も見いだせないまま、安全神話を人々に強制し、今、チェルノブイリ状況に至っても、「まだまだ大丈夫」と政府や御用学者はほざいている。「二酸化炭素を出さないという意味ではクリーンな原子力発電」などと原子力発電を賛美した民主党幹部(例えば前原)連中を忘れないぞ。危機的なこの時点でも原発の中で決死でたたかっているのは東電の下請け労働者を主体とした人たちだ。東電社長や原子力安全保安院の連中は東京から移動し、福島原発の敷地内で記者会見し、原発の安全とやらを身をもって証明したらいい。

地元自民党県議は「地震騒ぎ」などという言葉を連発し、ことの重大性を直視できないでいるし、困ったものだ。

輪番停電、計画停電などで1日に2回停電されたらたまったものではない。計画がたたないのだ。「戦時下の暮らし」を強制されていると言っていい。仕方ないなどと従順になってはいけない。ふざけるなという意気が必要だ。

ところで、昨夜は初めての夜の停電、停電地域を逃れ藤岡の千湯で電気がつくまでお風呂にでも、ということで行ってみたら大賑わい。新町に自衛隊駐屯地があるためこの界隈は停電なし、ということがもっぱらの認識。しかし5グループの例外地ということならば、それはそれでまた問題だ。

しかし、真っ暗闇の中の満月は有り難かった。電気のなかった時代、月夜は本当に嬉しかった。あたりがうっすらと見えるのだから。月の満ち引きの中でさまざまな夜を過ごしてきた、余り便利ではなかった時代を生きた人たちを思った。自然の摂理の中で生きることを復活させる必要がある。
 自然と浮かんだのは「じんじろ橋」、かぐや姫の歌だ。こうせつ自身は体制迎合的でなかなか好きにはなれないけれど、ジーンとする曲をつくるんだよね。そこに共感してしまう。

 村のはずれの じんじろ橋は 月の出る夜は ぬれるそうな
 花っ子18 山家の育ち 村の若衆 じんじろさに惚れて
 固い約束 したそうな 

 月が出たなら迎えに来ると  言いし別れた橋だそうな
 花っ子月見て 待ち待ち暮らす 2年3年
 じんじろさは来ずに 恋に命を捨てたそうな

 昔話のじんじろ橋で 今宵待つ人旅の人
 もしや私も 花っ子のように
 先んず月見て 別れたままで 泣いて散るのじゃないかしら 

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