2012年5月24日木曜日

たばこ1箱万引きの罪と罰 寛容さはどこへ

たばこ1箱を万引きしたとして消防署員が逮捕された。「犯罪は犯罪だ。まして社会に範を示す公務員なのに」との論調になるのだろうか。
 誰だってあるだろう。次の信号を曲がろうとしていながら、その直前、ふと違うことを考えてしまい、曲がり損ねてしまったことは。
 その一瞬、思もしないことをしてしまうことは、誰にもあること。「魔」が差したのだ。
 この事件、「故意」か「魔」が差したのかは分からない。
しかし、この程度の事件、数十年前の日本社会だったら、周囲の人々が「魔が差したのだから」と寛大に解釈し、許してくれた。
先人は「魔が差す」という寛容の知恵を授けてくれた。
その知恵を排除する非寛容の社会になろうとしている。
 この件は性犯罪や破廉恥事件とは違う性格のもの。
 社会の寛容さは、魔が差して罪を犯してしまった人を許し、教育する力を持っていた。許された人が今度は他の人を助ける。寛容は悪いことではない。
 微罪を許す寛容さを失った社会の行き着く先は、誰も信用することができない、友にも本当のことを言えない、建前だけの息詰まった社会になってしまう。社会は活気を失い衰退する。これでは暗黒ではないか。
こういう結果も新自由主義の特徴だ。
 この事件で厳罰となってしまったら、彼の人生、たばこ1箱で、全てを失うことになってしまう。
 罪と罰、それは罪に見合った「罰」こそが公平であり、それこそが本人に反省を促し、又、社会の健全性を示すものとなる。
決して見せしめにしてはいけない。許しあえることは社会生活上大切なことだ。

 はたまた、橋下大阪市長、今度は市職員の政治活動に制限を加え、罰則も盛り込んだ条例を準備しているという。
 政治活動は誰もが有する基本的権利であり、まして、お上の許しを得てするものではない。
 自分の意にそわない者を容赦なく排除するという橋下の手法に、ますます怒りがわいてくる。
 職員側もキチンと対応すべきだ。権利の上に眠る者は保護されない。長いの闘いの中で獲得した政治的権利を何の抵抗もなく放棄するなどということがあってはならない。
 先に維新の会が提出した家庭教育支援条例の差別的な内容が全社会的に批判され、取り下げたばかりではないか。
 全く懲りない橋下の権威主義的手法が破綻していることに多くの人は気づく時だ。

0 件のコメント:

コメントを投稿