2012年10月20日土曜日

水戸天狗党・下仁田戦争始末記 大塚政義講演会

満席の会場に話にも力がはいる

撮影は秋山局長
 清水市へ次郎長の生家を見に行った時から聞いていた藤岡市神流公民館での水戸天狗党の講演会へ秋山局長と二人で聴きに行ったが会場は満席。何人かの知り合いもいた。
大塚先生の話は相変わらず冴えていて、午後の眠い時間帯にも係わらず、聴く人を飽きさせない。
 藤岡から群馬県に入り吉井、富岡を通過するときの様子、そして下仁田での高崎藩との戦いを詳細に話し、戦争悲話や水戸本陣桜井家女将のはまさんが武田耕雲斎ら天狗党幹部を一括した話、処刑場で首を打つ現場で「そんなに畳を血で汚すなら畳代を上げろ」と要求し天狗党猛者を驚かせたお縫いばあさんのことなど見ていたように話すのはおかしかった。
「遠くで見ていました」とは大塚先生の弁。
 剣術の達人の多い高崎藩に比べ天狗党は銃を使い対抗した。
下仁田戦争に勝利した天狗党は長野県和田峠で諏訪・松本連合軍と戦い真冬の街道を徳川慶喜を頼りに西に進んだが、慶喜は「党派の争い」として冷たく突き放し天狗党の期待を打ち砕く。これは武田耕雲斎の見通しの甘さと指摘する。 
 豪雪の蠅帽子峠越えと新保での加賀藩の厚い待遇。
百万石の加賀藩で厚遇の中、正月を迎えたが、幕府への引き渡し後はニシン倉に押し込められ、結局353人が首をはねられる。     
 婦女子・子供を含め総勢925人の天狗勢は下級武士や神官、農民も混在した反乱軍で騎馬武者150人、歩兵700人、鉄砲隊を持ち大砲15門も引いていた。
 筑波、那珂湊で幕府軍を打ち破ったこの武装軍団が1000キロに及ぶ大行進をしたのだから、これ自体で幕府の面目丸つぶれ。
とにかく幕末の水戸藩は壮絶だった。
天狗党といい諸生党といい、水戸藩の英傑のほとんどは「維新の祭壇」に祭られ、新政府には誰の顔も見えない。
そこの徹底性に惹かれてしまう。
 最後に先生は言う。
「歴史を動かしたのは西郷隆盛、坂本龍馬らではなく農民や民衆だ」
 
 「玉村町でも講演しますよ」とは講演後の大塚先生、昭和13年生まれのとてもお元気な人だ。
 
 
 
 
 

0 件のコメント:

コメントを投稿