みんな寿命を全うしようぜ

みんな寿命を全うしようぜ
西表島で会った昼の蝶

2009年12月30日水曜日

瞬悠庵で忘年会




 昨日、地元の仲間を中心に忘年会を開いた。20人ほど集まるのだが、最近は男性ばかりで女性の参加は皆無、どうしても男ばかりの中での女性は手伝いをしなくては、という雰囲気になってしまうのだろう。お互い乗り越えなければならない問題と思う。
 堀込清孝伊勢崎市議等の参加もあり、なごやかなうちにも、来年夏の参院選挙での民主党県連会長富岡由紀夫さんの再選と、そのためにも4月の伊勢崎市議会議員選挙での堀込清孝さんの三選を勝ち取ることを確認する意義ある忘年会だった。
 新年が、政権交代という歴史的な今年の成果をもう一歩進め、働く人達にとり本当の意味での政治参加をすすめる一年になることを期待したい。
 旅を語る人、肉を切る人、うどんをつくる人もいてなかなか多彩の参加者で楽しいひとときだった。

2009年12月27日日曜日

1日書類整理したはずだけど片づかす

明日は仕事納めということもあり、事務所で書類整理、来客3人とそれぞれ四方山話。「来年はどうなるのかなあ」と今年の景気の悪さを引き合いに話が進む。
 議会関係書類も膨大になり、仕分けが結構大変。明日の仕事の準備もし、今年観た映画を整理してみた。高崎映画祭で15作品ほど観たので、年間60作品ほどか。どれが一番よかったかは即答できないね。
 これから、消防の歳末特別警戒期間が始まるので、第7分団へ激励に行く。年末の寒い中、本当にご苦労さまです。

2009年12月25日金曜日

イブはホルモン屋で忘年会


今年一年の締めくくりとして、在日の友人たちと忘年会で盛り上がる。来年は国定忠治生誕200周年、また「韓国併合」から100年という節目の年。多くの日本人にとり「韓国併合」は過去のそのまた過去の話、「今更何を言ってるんだ」の声が聞こえてくるようだ。しかし、違うでしょう。我々は、この不景気の中、経済制裁の重圧下での厳しい生活を強いられている在日の人々の姿があることをどれだけ知っているのか。知ろうとしているのか。同じ社会の構成員に無関心でいいのかを問われている。
政府の施策はともあれ、人間同士はつながっていなければならないと。その力が政府を動かす原動力だ。
苦闘しつつも日本人を信頼しようとする友人たちに頭が下がるばかりだ。

この本を読んで欲しい。(誤字脱字はご容赦ください。)

         《閔妃暗殺 》
          角田房子著 新潮社600円
 
 「伊藤博文と安重根」とともに杜紅から借りた本。非常に興味深く読んだ。日本人の多くが知らない史実が描かれている。
 著者はあとがきの中で、「閔妃暗殺をお読み下さる方々の一人でも多くが、どうぞ隣国への『遺憾の念』を持ちそれを基とした友好関係、相互関係を深めて下さるようにと、私は切に願っている。」と述べている。ここに著者の気持ちが良く現れている。
 学校教科書ではほとんど書かれていない大事件を時代的背景から書きつづってある本書を読み目を醒まされた思いだ。

 李氏朝鮮王朝は1392年、李成桂(太祖)が高麗を滅ぼして王位についた時に始まる。1592年、秀吉の二度に及ぶ朝鮮侵略のあとしばらく国交は断絶したが1605年から回復交渉を始め、1607年朝鮮から呂祐吉を正使とする467人の大使節団が日本に到着した。そして江戸時代を通じて通算12回の大使節団が来日し、第4回からは名称は「通信使」と改められ、当時の一流の学者や文人が彼らと接し意見を交換しあい、両国の文化交流に大きな役割を果たした。鎖国下の日本にとって、朝鮮は正式な外交関係のある唯一の国だった。日本は中国、ポルトガル、オランダ、イギリスなどと通商関係はあったが、幕末にいたるまで正式の国交はなかった。(このことははじめて知った。)

 当時の朝鮮の政治は勢道政治という、権力を握った一族が国政を欲しいままにするという政治状況だった。その状況を打破しようとしたのが興宣君是応という男だった。彼は自分の子李命福が国王になるように工作し、それが見事に成功した。その後、勢道政治にならないよう慎重に国王の妃探しをし選んだのが閔妃(実名は不明)だった。その後大院君となった興宣君是応と閔妃はその人生を日本、中国(清)を巻き込んで闘いを続けた。閔妃はまさに閔一族を登用する勢道政治をあらゆる手だてを尽くして展開した。
 欧米による開国要求は朝鮮にとっても厳しいものだった。天主教や通商要求だけでなく、武力侵略にも乗り出してきた。それに対して朝鮮は強烈な鎖国攘夷策をとった。が欧米から何も学ぼうとしない大院君は武力ではとても勝てないことも、徹底的にたたかれるまでわからなかった。彼の強大な権力に伴う独裁ぶりは、逆に民衆の怒りを買い、その怒りが閔妃を担ぐかたちで「王の親政」と大院君の失脚という事態になった。
 夫である王が権力を握ったとたん、閔妃はそれまで表に出していなかった力を出し始め、閔一族のための政治を押し進め、大院君の力を削ぐため徹底した弾圧をしていった。世子問題で清国から自分の産んだ子供を世子として認められない、という情報を受けると、朝鮮と国交再開を求めている日本を利用しようと考えた。その後裏工作で清国からも閔妃の産んだ子が世子として認められるが、1880年一時清国から世子としてされた完和君は急死した。閔妃が毒殺したとの説が強い。

 一方日本では「征韓」の主張は在野に満ち、それをいつ、どのように実行するかについての意見対立が権力闘争の象徴としてあった。当時の権力者がおしなべて「脱亜入欧」路線をとっていたのに対し、勝海舟はアジア諸国との同盟を主張していた、と数行書かれている。勝という人に対して興味を抱かされてしまう。

 1882年7月、米の現物供与を巡り供与された米の半分くらいに砂が入っていたことが直接的なきっかけとなり、倉庫係と米の受領を拒否する兵士との間に乱闘が起こり、軍当局が数人の兵を逮捕し見せしめのため処刑すると発表した。それが逆効果を呼び、兵士達は「仲間を救え」と叫び人数を膨れ上がせ、ついには反閔、反日という共通点を持つ軍兵や都市貧民と大院君が結び着く形で政治的暴動と化して、日本公使館を襲い、王宮に突入し、閔妃一族の重臣を次々殺した。自分の命を狙われていることを悟った閔妃は宮女の服を身に付け命からがら何とか生き延びた。
 大院君の息子であり閔妃の夫である王・高宗は大院君に全権を委任した。壬午軍乱・ク-デターを成功させた大院君は、生死のわからない閔妃の国葬の準備をし、重臣の多くが反対するなか国葬は完了した。
 日本政府は、この内乱を排日運動とみなし、花房公使を全権に、武力を背景とする強行な態度で望むことを決定した。花房は強引にソウルに入城し、軍事行動をとると脅しつけて王と謁見し、日本政府の7カ条の要求を突きつけた。どれも厳しいものだったが特に「日本公使館焼き討ちの賠償金50万円」は、財政逼迫の政府にはとても払えない金額だった。大院君は大兵力をソウルに駐屯させている清国を味方と信じていたが、逆に清国により天津に拉致されていまう。
 そして9月8日閔妃の生存が公表される。王宮に復帰した閔妃は報復を開始した。自分に逆らう者は皆殺し、彼女の貢献度だけで人々を登用した。
 贅沢の限りを尽くし、庶民の生活に目もくれない閔妃とそれに対抗する保守的な大院君との権力闘争が国民不在のなかで、清国、日本を巻き込む形で繰り広げられていた。
 1884年金玉均を中心とする開化派は日本軍を呼び込む形でクーデターを起こし閔妃の取り巻きの重臣達を殺した。一応クーデターは成功したが、閔妃の策略にはまり、王宮を日本兵150人だけでは守りきれず、「朝鮮政府の出兵依頼」を受けた清国軍の攻撃に敗れ撤退し、この甲申事変は文字通り3日天下で終わった。失敗の背景には、改革運動を下から支える社会的経済的基盤の弱さ、開化思想に対する民衆の関心や理解の不足があり、上流階級出身のわずか40余人の革新的少数派による宮廷内部のクーデターに終わった。
 1893年全羅道に東学教徒多数が集まって、教徒弾圧の中止を訴えその報が全国を騒がせていた。東学とは西学と呼ばれた天主教に反対する立場をとり、19世紀半ばすぎに、教祖崔済愚がおこした新興宗教で「敬天順天」を根本理念とした。当時の勢道政治下で貧困にあえぎ、異様船の出没により外国の侵略があるのではないかと危機感を抱く大衆にとり、東学は唯一の心の拠り所だった。政府はその東学を邪教と断じその教祖を処刑した。これは大院君がはじめて執政についたばかりの頃だった。教祖は死亡したが第二世教主崔時亨によりさらに勢いを増し、各地で悪政に対する反乱の主導権を握るまでになっていた。1894年2月「甲午農民戦争」が起こり農民達は一斉蜂起し、政府は各地で農民主体の東学軍に連敗した。そして5月東学軍は全羅道の首都全州を占領するに至った。これに対し朝鮮政府は宗主国である清国に援助を要請した。
 このような情勢にたいし、日本政府は、清国と一戦を交えて朝鮮における日本の勢力を確率しようと企んだ。当時の日本人のほとんどすべてが、日清戦争を、長年にわたり弱い朝鮮をいじめてきた横暴な清国をこらし、朝鮮の独立を助けるための「義戦」と考えていた。しかしこの本の中(p297)で数行だけ書かれていたことに気を惹かれた。それは当時の「脱亜入欧」路線に勝海舟が一人反対し「アジア諸国との同盟」を主張し、日清戦争を「不義の戦争」と呼んでいたということ。
 8月1日、日清両国は宣戦布告、そして日本の勝利は世界列強にも衝撃を与えた。95年3月下関で日清講話会議が開催され、20日日清休戦条約が調印された。条約の内容の一つに、遼東半島の割譲という文言があった。これに対し、ロシア、フランス、ドイツの三国が強く干渉し、遼東半島の割譲の放棄を要求し、日本は嫌々飲まされる結果となった。「兵力の後援のない外交は、いかに正当な理によっていても失敗は免れない。」という教訓につながり、すさまじい軍拡を開始し、10年後の日露戦争へとたどり着く。
 この「三国干渉」による日本の権威失墜を喜んだのが閔妃だった。日本による内政改革が始まって以来、王は何ひとつ自分の意志で行うことが出来ず、さすが温和な王も日本に対し怒りをあらわにしていた頃だった。「三国干渉」後、朝鮮での数々の利権が日本以外の諸国に許可されていった。

 5月、大院君の25才の孫が突然逮捕され、親日家である金鶴羽殺害事件の首謀者として証拠もないまま、死刑を宣告された。結局10年の流配に減刑されたが、大院君派は壊滅状態となった。内政干渉の張本人井上馨の立場は次第に弱くなり、朝鮮情勢の報告に井上が日本に帰国したときを境に閔妃の周辺は活気づき、閔妃は大院君により流刑にされたり、地方に隠れ住んでいた閔氏一族を中央に呼び戻した。政府内に日本の内政干渉で締め付けられることに不平、不満がつもっていたので、反日派が勢力を延ばす結果となった。
「日本の弾圧下で行われた昨年来の内政改革は、全て取り消すつもり」という王の発言まででたことにより、あわてた日本側は秘密会議を開いた。そこで親日派への支援強化をすることなどを決めた。しかし,逆に親日派の人々は追放され、親露派、親欧米派の人々が登用されるに至った。
 9月1日井上の後任公使三浦梧楼がソウルに着任した。彼は長州出身の軍人だった。前任の井上が300万円を朝鮮政府に寄贈するという約束が空手形に終わったことがわかると、ロシア、アメリカなどの日本攻撃は激化し、閔妃はいっそう勢力を強めた。

 一方、ソウルで三浦は朝鮮の現状に対する在留邦人の憤激の激しさを改めて知った。三浦は閔妃暗殺こそが日本の勢力挽回の突破口になると確信していった。ここでも閔妃に対し憤懣やるかたない大院君に決起をうながす形で暗殺計画は練られた。
 10月8日早朝、200人をこえる朝鮮訓練隊第二大隊、日本第一中隊約140人および日本人警察、民間人が参加した暗殺計画は、大胆に光化門から王宮に日本兵と民間人が突入し、王宮内の防衛隊を武装解除させつつ遂に、閔妃を殺害した。殺害後遺体を庭で焼却した日本兵等が抜刀したまま王宮をでてくる様子を多くのソウル市民が目撃した。その後も親日政権の樹立を目指し露骨なまでの干渉は続き、朝鮮侵略の糸口がこの事件をきっかけに、朝鮮の人々の圧倒的反発の中いよいよ開始されてゆくのだった。
 なお事件に関係した全員が軍法会議で無罪となり、広島地裁の予審でも全員が免訴となった。三浦梧楼は凱旋将軍のような扱いを受けた。その後例えば三浦悟郎は崇密顧問官として晩年まで政界に地位を保ち、安達謙蔵はいくつかの大臣を歴任し政党の総裁となり、といったように、閔妃殺害に関係したことはその後の彼らに何らの影響も与えず、かえって「箔」をつけて出世街道を走らせたようだ。。日本の国家を代表する朝鮮駐在公使が首謀者となり、日本の警察、軍隊、暴徒としかいいようのない民間日本人達を朝鮮の王宮に乱入させ、公然とその国の王妃を殺害したという、およそ近代世界外交史上に例をみない暴虐を働いた事件は、いまだ韓国人の胸に深い傷跡を残しているが、日本人の大部分はこの事件について知識をもたないという。教科書にもその記述は少ない。
 日本政府がこの事件の犯人達を処罰しなかったことが、のちに1928年の張作霖爆殺事件につながり満州事変、日中戦争、アジア・太平洋戦争へと拡大する戦争の起点となった。
 これより30数年前、大老井伊直弼を桜田門外で雪の朝倒した水戸脱藩浪士達18人のような緊張感が全く感じられない。桜田門事件にかかわった彼らのほとんどがその場で斃れた者、後捉えられて処刑された者を含め死地に追いやられている。外国で尊大に振る舞い国王の妃を殺害した犯人がのうのうと生きられるような国に未来はないということが証明されるまでにその後50年の月日の経過を要した。


2009年12月23日水曜日

富岡民主党副幹事長へ初めての陳情


富岡由紀夫民主党副幹事長に初めて陳情
21日午前、私の事務所で玉村町下茂木の新井宏美さんから富岡由紀夫さんに伝えて欲しいとの依頼を受け、その話を伺った。私自身気になっていたことでもあり、身近にそういう関係者がいるとなると、一層、この問題を改善の方向に進めて行かなければと考え、その足で、高崎市内にある民主党群馬県連会長であり参議院議員の富岡由紀夫事務所に行き陳情してきた。議員本人は不在のため、佐瀬秘書に内容を説明し文書を手渡した。

陳情内容は「次世代を担う若手研究者支援の充実を望む」要望への支援を求めるもの。
「東京大学理学部・理学系研究科教員・職員一同は前途有望な若者達を教育し、将来、日本、世界で大いに活躍する人材に育てる努力をしてきた。しかし、行政刷新会議の事業仕分けにより、大学院生、ポストドクへの様々な事業を縮減すべしとの結論に至った。これでは、新たな世界を切り開く可能性の高い若者達を切り捨てるだけでなく、彼らの研究意欲をそぐ暴挙と考える。
 学生や父母の皆様とも連帯し、学生支援縮減を止めさせたいと言う考え、この文書を送付するので、文科省、身近な民主党議員に働きかけて欲しい」というもの。

 私自身、かねてから、大学の民営化や政府の事業仕分けのやり方に疑問を感じていた。なお、新井さんの息子さんは私も面識があるが、まだ20代のバリバリのイケメン研究者、東京大学で、「地震の研究」をしている。地震の研究に短期的な成果主義はないでしょう。これも新自由主義の薄っぺらな一面だ。何とか見直しの方向性を見いだしたいもの。

2009年12月20日日曜日

[いのちの山河」上映会のお知らせ

「いのちの山河」上映会のお知らせ
1月9日(土)玉村町文化センター小ホール
1回目 午前10時30分
2回目 午後1時30分
「長く無医村だった岩手県の山あいの沢内村が「生命尊重」の理念のもと老人と乳幼児の医療費無料化を実現し、乳幼児死亡率を全国初のゼロにした実話を映画化したもの」
( チケットは文化センターでお買い求め下さい。私の事務所にもあります)


「パイレーツ・ロック」をシネマテーク高崎で観た。時代は、まだ民放ラジオ局が認可されていなかった1966年のイギリス。ローリング・ストーンズやビートルズ、キングスなどロックの絶頂期だったが、BBCラジオはクラシックやジャズが主でポップミュージックの放送時間は一日45分に制限されていた。
そこで、法律の適用外の北海に船舶で出て、そこから海賊放送でロックを流す放送局が現れ国民の支持を得ていた。それを潰そうとする政府側との闘いを描く映画だが、最終局面で、エンジンの爆発により船は沈没してしまう。「未来に希望を持つ若者は続々に新しい曲を作り、それを多くの人々が受け継ぎ、やがて奇跡は起きる。」と信じる海賊放送局スタッフは、最後までマイクを離さず、音楽を流し続ける。
 政府は彼らの救出を拒否するが、沈没寸前、彼らの闘いを支持する数え切れない人々を乗せた船団が大海原を救出に駆けつける。

2009年12月17日木曜日

days japan 1月号を読んで

days japan 「一枚の写真が国家を動かすこともある」の1月号が届いた。小さな町に住んでいても世界の大雑把な状況は摑んでいたい。そんな思いから継続購読している。図書館にも購入をお願いした。
今月号は、氷山に取り残されたホッキョクグマの親子の写真だ。1枚のきれいな写真ではすまない。温暖化で氷山が溶け出し、活動場所が次第に追いつめられていることを端的に示す写真だ。
 普天間基地問題、パキスタンでの爆弾攻撃事件、ミンダナオ島での大虐殺事件、そして、インドでのピンクギャングの闘士たちの活動報告など。封建主義の名残りを色濃く残す辺境で、権利獲得と女性の地位向上に向け団結して闘う女性達だ。メンバーはピンクのサリーをまとい、こん棒を持ち、男性からの暴力や不正に立ち向かう。
 世界は動いている。人々が生きるために動いている。人々が生きやすい世界を作り出すため、お互いは意識していなくても、何らかの形で絡み合っているのではないだろうか。意外に世界は狭いのかもしれない。だから、何の力もないくせに、戦争や貧困を放っておけないんだ。

2009年12月16日水曜日

大泉にて



15日、インドネシア人を連れ合いに持つ友人に誘われ、大泉町のアジアン・カフェまで、インドネシア料理を食べに行った。途中、境町を通過するとき、思い出したように声掛けした岩崎君も快く参加、6名さまの食事会となった。料理もおいしく、政治、文化から自然環境まで話しは弾む。再度行きたくなる店だ。来年の高校同窓会の幹事会の準備会のその又準備会でもあった。同窓会の開催までにはかくも多くの会合を重ねなければならない。自然と世界が広くなるようだ。

議会にて「八ッ場ダム推進決議」に対して反対討論実施

10日議会最終日、「八ッ場ダム建設推進の意見書」の採択を求める議案が議員提案されました。玉村町議会で八ッ場ダムが議論されるとは、3ヶ月ほど前は考えられなかったこと。これも政権交代の威力と言えるでしょう。ならば、との思いで反対討論しましたが、結果は、賛成13.反対2であえなく可決となりました。これが議会の現実。しかし、ダムの本体工事はできないと確信しています。 


玉村町議会 12月10日
八ツ場ダム推進決議に対する反対討論 (要約)

昭和27年から始まったダム計画からすでに57年、本当に必要なダムならすでに完成している。いくら税金を投入しても完成することのない巨大なブラックホールといえる。

半世紀という途方もない時間は、激しい反対運動を繰り広げた住民たちに疲労感とあきらめ感を与えた。例えば、温泉旅館を改築しようとしても「ダムに沈む所に建築許可は出せない」とか「ダムを受け入れないとカネはビタ一文出さない」との自民党政府の強引な圧力は、「国策には逆らえない。」という感情を住民にもたらし、多くの反対者は国に屈し、「ダム建設と一体の生活再建」を飲まされた。一度折れた心はなかなか立ち直れない。
それら過去の全てを飲み込もうとしていた地元に、政権交代後の民主党政府がいきなり「マニフェストに書いてあるからダム建設中止」の方針を出したから、地元は驚きと怒りで大騒ぎになった。自民党政府のやりかたもひどかったが、民主党政府のやり方も悪い。どちらも「国が決めたことだから国民は従え」という点では同じだ。主権者を無視している。
もっと八ツ場ダム建設の歴史を検証するところから始めなければいけない。
それでも最近は「ダムができないならそれで構わないが、ここまで犠牲を払ってきた以上、生活再建をしっかりしてほしい」という声が相当上がってきている。これが大方の住民の本心のところではないか。

この辺で冷静にダム問題を考えてみたい。
まず第一に、「工事の7割はすんでいて、あと3割の予算を投入すればダムができる。ここで中断するのはかえって税金の無駄だ」ということがまことしやかに言われているが、7割というのは事業予算に対する「進捗率」で、単に予算の7割を使っただけにすぎない。

総工費4600億円の7割は3220億円だが、あと1380億円でダムが完成する保証などない。当初、総工費は2110億円だったが、2004年に現在の4600億円に変更された経緯がある。
浅間山から20㎞ほどの吾妻渓谷は、バームクーヘンのように浅間山噴火の堆積物が重なり合う地層で、地滑りが頻繁に起きている。危険箇所として22ケ所が指定され未だ3ヶ所しか防止策は取られていない。今後この「4600億円」という数字すら増額されることも充分考えられる。
まして、完成後のダム維持費は、それこそ計り知れない程、膨大になることは自明だ。なぜなら、ダムが貯めるは水だけではなく、土砂も貯めてしまうということ。土砂の取り除く巨額の経費が毎年、加算され、ダム自体の寿命もせいぜい80年程度だ。

第二に、吾妻川流域の水質が問題だ。1937年には、下流の作物に被害が出て、県が「毒水」調査委員会を設置したことがある。首都圏の水がめの利根川に流れ込む吾妻川はかつて、「魚もすまぬ死の川」呼ばれた。1952年から55年にかけて、国はダム予定地で鋼板やコンクリートを川水に400日さらす実験をした。すると、鋼板は8割、コンクリートは1割程度が溶けた。結果、1959年にいったん、ダム計画は凍結された。
 その後、強酸性の川にアルカリ性の石灰を投入し、水質を中和させる「草津中和工場」を造り、そこから山を数十分走ったところに日本初の石灰生成物をためる品木ダムを建設した。

時は経済成長の時代。首都圏の水需要の拡大が予測され、治水、利水も目的にしたダム計画が1965年再浮上したという経緯がある。

 しかし、品木ダムの沈殿物は想定を大きく上回るペースで増え続け、ダム自体の寿命が危ぶまれている。当初、国はダムが50年ほど持つと想定していたが、88年からは沈殿物や土砂をすくって近くの山中に廃棄している。年に26000トンを捨てているが、ダム湖にはその倍のペースで沈殿物がたまり、貯水量の8割以上を占めている。水に含まれる高濃度のヒ素などの有害物質も含まれ、新たな廃棄場所を確保し続ける必要があり、年間、約10億円の維持管理費が必要。これだけ、手間と金をかけても品木ダムで中和できているのは、吾妻水系の4割の流量にとどまっている。国は、総事業費850億円かけて処理範囲を広げようとしているが、今も工事のめどは立っていない。

昨年、国会議員の質問趣意書に対する政府答弁で「カスリーン台風と同規模の台風が到来した場合、下流の観測ポイントで計測される流量は、八ツ場ダムの有無によって違いはない」と国交省自らが認めている。治水には役立たないということ。人口減少の中、利水の用もなくなっている。

今後、いくらかかるかわからない無用のダムの本体工事を止め、耶馬渓谷をしのぐといわれる自然環境を保全し、そこに生きる生物や植物、温泉とともにある人々の暮らしを再建することが環境の世紀といわれる今を生きる我々の役目で、その方が、未来展望がはっきり見えてくることは確か。
「国民の生活が第一」というなら、政府はこれまでの経緯を地元民にたいし謝罪し、補償し、天然の景勝地吾妻渓谷と川原湯温泉地区が一体となった生活再建に責任を持つことが求められている。
今、求められるのは、ダムの本体工事を止める勇気、止める決断。それこそ未来への正しい責任の取り方と考える。

2009年12月13日日曜日

今日は映画鑑賞と議会だよりの原稿書き

 今日は午前中は11時より「シネマテーク高崎」にて是枝裕和監督の
「空気人形」を観てきました。監督とも久しぶりにお会いしました。相変わらず
繊細な映画を作成しているようです。
 午後は12月議会の一般質問に関しての議会だより原稿作成に費やしました。

2009年12月12日土曜日

連合議員懇談会の総会に参加してきました

 今日は連合群馬の議員懇談会総会に出席してきました。
会員および連合群馬の役員を始めとする来賓の出席者の
参加も多数あり、政権交代が起こったことを実感しました。
総会の終わりには新会員の紹介があり、6名の新会員と共に
あいさつをさせてもらいました。
 懇親会終了後に、開館したばかりの「シネマまえばし」で
「鶴八鶴次郎」(出演:長谷川一夫、山田五十鈴、1938年制作)
を鑑賞してきました。

2009年12月11日金曜日

ブログ始めました

みなさん、始めまして。群馬県玉村町の町議を務めている石川まさおと申します。
町議3期目の開始に伴いブログを開設しました。今後どんどん情報を発信していくのでよろしくお願いします。