みんな寿命を全うしようぜ

みんな寿命を全うしようぜ
西表島で会った昼の蝶

2010年12月30日木曜日

この1年を忘年会で締めくくる




恒例となった忘年会を昨夜おこなった。30人程の参加だが、そこは気心知れた仲間同士、激動の一年を締めくくった。中澤さん、貫井町長、そして後藤新県議の参加もあり、いつになく懇親も深まった。6時から始まり解散したのが11時だからその盛り上がりが想像できるだろう。岡田さんの打ったうどんが好評で3回も打ってもらった。女性がいないのが気になるが、どうしてもお手伝いに回ってしまうことになりかねないので、いつしか呼ばなくなってしまった。反動で女一人奮闘の連れ合いの私に対する反発は並みのものではない。後片付けは大仕事だから無理はないが。

 来年の知事選に向け決意を固めている後藤あらたさんを後援会の仲間として迎えじっくり話す機会を持てたのは良かった。無所属で通しきっているその極意を感じることができた。「後藤新報」の中で「正射必中」を言う。正しく法に適った射は発すれば必ずあたるという意味だ。中庸にも通じる。私は「不射の射」という故事を大切にしている。弓の道を究めた者は矢を射ることなく目標をとらえる、という意味だ。どちらも共通点がありそうだ。
 山あり平地ありの群馬を語るのは、深い哲学を持った人でないと務まらないだろう。張り子の虎に恐れをなすことはない。この道を歩めだ。
「政権がどう変わろうとワッハッハ われらは水よ低きに溜まる」と歌う人々の心を動かすのは哲学を持った人でなければできない。

 来年もまた騒がしい一年になるだろう。後藤あらた「新年の集い」が1月29日(土)午後2時からグリーンドーム前橋(サブイベント広場)で開かれる。思いのある人・後藤あらたに接するいい機会なのでおすすめしたい。

2010年12月28日火曜日

政権がどう変わろうとワッハッハ

歌人・門倉まさるさんからはがきが届いた。歌が5首書かれている。教師を定年退職して何年たつのだろうか。岩鼻町を拠点に娑婆を観ている人だ。町内上之手にあったプール・錦野アメリカンで数年間の夜を裸でのおつきあいさせていただいた自由人だ。ゆえあってこの数年は他のプールに通いながら、群馬の森あたりを散策し、思索にふけっているのだろう。

政権がどう変わろうがワッハッハ われらは水よ低きに溜まる 読売新聞 小池光先生 選

荒涼の河原にひとり棲む 鶏に会わんと急ぐ 霜の道なり   朝日新聞 馬場あき子先生 選

亡き兄と働きたるは烏川 護岸工事のこがらし荒ぶ   毎日新聞 篠 弘先生 選


死力尽くし紙飛行機の空中戦 滞空時間競うだけだが  毎日新聞 河野裕子先生 選

幼き日住みし坂道坂はなく 今住む岩鼻坂の道なり   NHK教育テレビ 今野 寿美先生 選


 門倉さんは一人で世界中を歩き回るスケールの大きな人物だ。南米、アフリカ、ヨーロッパは勿論、東南アジア、中国の北京経由で朝鮮民主主義人民共和国まで好奇心の向くところ、分け隔てなく足を伸ばしている自由人だ。
実は門倉さんの膨大な歌の一部を頂いているのでいつでも小出しに載せることができる。

国際色豊かな歌をいくつかピックアップする。

制服の白きアオサイ女子高生 それぞれ白の刺繍なり

オアシスの小さな店もうず高く ナンを重ねて客を待つなり

一日に五回の祈りウイグルのガイドの長寿の秘訣とぞ言う

若き日のサハラの旅は種赤きサボテンの実の甘き思い出

アラビア海ひとり泳げば禿鷹は 空に舞いつつ我をみており

ガンジスの流れのままに空仰ぎ浮きつつあればわが身愛しも

プラハなる路面電車の終点は レールが円となりて戻りく

「叫び」とのムンクの絵なる本物はうつろなる眼の奥ぞかなしき

中央アジアに青く小さく咲くという花の種買う君と別れて

いにしえの抗日映画ばかりなり 北朝鮮の宿のテレビは

神の使徒荒野に向い叫ぶとか 荒野とは我ら民衆

バルト海 透きたる水冷たくて 2㍍ほど泳ぎたるのみ

ガンジスで泳ぎたる後案内の少年我を友達と呼ぶ

 ということで際限なく続いてしまう門倉ワールド、果てしない宇宙の中の小さな星に生き、そのことを自覚している門倉さんだからこそ歌えるのかもしれない。
 「政権がどう変わろうとワッハッハ 我らは水よ低きに溜まる」と。しかし、本音は呆れかえって怒りまくっていると思う。しかしそこは人生の達人、このような歌になる。

2010年12月23日木曜日

小寺弘之前群馬県知事の死を悼む


 群馬県知事を4期務めた小寺弘之さんが亡くなった。最後の知事選は、私が議会議長をしていた時期でもあり、大方の議員仲間と一緒に小寺さんを応援した。小寺さんは穏やかな口調のなかにも弱者に対する思いやりや文化への造詣の深さを感じさせる人だった。良識派の政治家といえる人で群馬県にとりかけがえのない人だった。
 今年の参院選比例代表に出馬したが惜しくも敗れた。6月1日には玉村町で富岡由紀夫さんと一緒に集会を開き、その後、三和食堂で懇親会を行った。後藤あらたさんも出席し、その師弟関係の深さを印象付けられた。その時の1枚をアップする。
 小寺弘之さんのご冥福を祈る。

2010年12月21日火曜日

玉村町映画上映会で格差社会を吹っ飛ばせ


未来に希望を持てず、事件を起こしたり、自ら人生を閉じたりと、散々な状況の若者達だが、こんな状態をいつまで続けていていいはずがない。長い歴史の過程で見れば、現在は資本主義の最末期なのだ。新自由主義という怪物を退治できれば明らかに大空が開ける。新しい社会を見据える目と勇気こそが求められている。
 そこでこの2本の映画上映会を挙行する。
「川の底からこんにちは」 学校を卒業してから5年、5つめの会社に勤めている佐和子、つきあった男は5人目で子連れときた。最後は父親の経営するシジミ工場で「どうせ私は中の下の女ですから」と居直りながら格闘する毎日を描く。差別・格差社会に生きる大勢の人々に送る賛歌。石井裕也監督作品

「ヒーローショウー」 井筒和幸監督の力作だが、観客動員は弱い。しかし、内容は現代社会の矛盾のしわ寄せをもろに受けている若者達をストレートに描いている作品。なんとしても若者に向き合って欲しい現実を描くことにより、若者に対するエールと現代社会を痛烈に批判した傑作。

若い連中に観て欲しい2本だ。
2月13日(日)玉村町文化センター小ホール、
午前10時20分から 「川の底からこんにちは」
午後1時30分から「ヒーローショー」
上映後 井筒監督とのトークショー
チケット 「川の底からこんにちは」800円
     「ヒーローショー」とトークショー 1200円
      共通券 1700円

2010年12月19日日曜日

連合群馬議員懇談会第21回定期総会とその後

高崎市ビューホテルで「連合群馬議員懇談会」が開かれた。後藤かつみ県議が「公契約」の具体的事例を挙げて講義をした。委託先の労働者の最低賃金などをキチンと決めて指定管理者と契約をするなどが必要、さもないと委託先での勤務条件が悪化し、かえってサービスが落ちかねないことを懸念してのことだ。
 定期総会、懇親会で多くの議員仲間と交流した。連合群馬の北川会長とも話し、大澤群馬県知事が無所属で再選を目指しているが、連合群馬へも推薦依頼をしてきたことについて、「推薦をしたら足下を完全に見られる」という私の意見に同意してくれた。なにせ協調路線で頼りないところのある連合だけに、そのくらいの決断はして欲しい。自民党とたたかう連合推薦議員の力が抜けてしまう。
 懇親会の後、シネマテーク高崎で「ばかもの」を観た。糸山秋子原作を映画化したもので高崎市が主なロケ地、というのが売り物だが、内容は結構よかった。初めて知ったセックスに溺れるのは若者の常、「セックスを知り始めて大人になったと大喜びすること、ああそれが青春・吉田拓郎」なのだ。それらが素直に表現されて違和感がなかった。
 結婚が決まっていた額子は、ヒデをその気にさせながらも、決まっていた相手と結婚した。その後ヒデは何人かの女性とつきあうが、どうしても心の底に額子のことがあり、アルコール依存症になり周囲に迷惑をかけ続ける。
事故で片腕を失い片品村で一人暮らしの額子との再会にヒデはためらいながらも向き合う。酔ったヒデに結婚披露宴を無茶苦茶にされた姉は「あんな女、絶対駄目よ」と言うが、両親はヒデには額子しかいないと感じている。母親(浅田美代子)が反対する娘の肩にそっと手を置く場面がいい。
「一生忘れられない恋がある」初恋は周囲に反対されればされるほど二人の絆は熱くなるが、自分の経験からいってもあの時期の人は忘れられない。この映画秀作です。新年まで上映しているから観て欲しい。糸山秋子はいい作品を書いている。
 映画館を出たら、屋台ラーメンがあるではないか。久しぶりに醤油味の屋台ラーメンを食べながら見知らぬ親父さんと雑談した。

2010年12月16日木曜日

玉村町第5次総合計画の説明会

平成23年度から27年度までの前期基本計画の町側の説明会が昨日行われた。5年後の人口は今の水準38000人の維持を基本においている。各分野においてもそれなりの意欲は感じられる。しかし、日本社会の今後にこのどれほどの展望がもてるのだろうか、という思いを多くの人は持っている。
しかし、人間がつくった社会なのだから人間が変えられるのだということを肝に銘じたい。イギリス、ギリシャ、スペイン、韓国など世界中で学生、労働者が街頭に出て、政治を変えようとたたかっている。目先のことしか考えられないおとなしい子羊に飼い慣らされてしまった日本社会の若者たちもこのへんで牙を剥かないと、本当に未来を奪われてしまう。資本主義は残酷なものです。
 昨日もうつ病をもちサラ金から大金を借り困り果てている子どもを持った親の相談があったが、精神疾患を思わせる人が回りにも増えているようだ。どういう経緯ではあれ、彼らを自己責任として追いつめてばかりいたら、何も解決はしない。根底的な原因を考える事が必要だ。社会から寛容さをなくしてはならない。

2010年12月12日日曜日

今年の同窓会は焼津で



毎年行っている大学時代の仲間の同窓会兼忘年会を今年は静岡県焼津市で行った。長野市から参加の金子剛を秋山と高崎駅に迎え3人で5時間程かけて現地に行った。途中、富士吉田市内の「麺許皆伝」といううどん屋さんで昼食をとった。この店が人気の店らしく客の行列があるではないか。秋山が2年程前、商工会の視察で寄ったことがあり、30分ほど並んで食にありついた。わかめうどん350円、鳥うどん400円でこれがうまい、人気の秘密は麺とスープにあり、富士吉田市はうどんで売り出しているらしい。
 気持ちに余裕のできた3人はその後、忍野八海に立ち寄り、予期せぬ絶景を拝見した。金子はその名前さえ知らなかったらしい。中国人観光客が多かったようだ。
 そして、焼津グランドホテルでご学友総勢8人が結集し、忘年会とあいなる。金子治三郎が静岡在住なのでホテル等を手配、幹事の鷲巣は日曜日に葬式ができ土浦市まで行かなければならず落ちつかない様子。
 栃木県警の狐塚は睡眠不足で眠りにきたようなもの。持田はバイク参加で悠々自適。東武建設の飯野取締役のほら話は相も変わらず快調。飯塚は母親の介護、新宮は日程調整ができず不参加。
 そして今日は、金子治三郎の現地安内人先頭に御前崎灯台周辺をドライブ、彼はお薦めの店「磯亭」で金目鯛の煮魚定食を我々に食べさせようとした。「金目鯛定食がおすすめだ、それでいいか」治三郎の言葉に「現地の人間のお薦めが一番いい」と注文したのは石川だけ、他の連中は刺身定食、金子剛にいたってはカツ定食を注文。「俺はお前らに金目鯛を食べさせようとしてこの店を選んだんだ」「治三郎の気持ちも考えろよ」再度注文をとっても石川以外は「刺身定食」勝手にしろということで、食したが金目鯛は最高だった。刺身もいいけど、金目鯛のツマとして食べればいい程度のもの。「お前ら本当にバカだよ」と治三郎はオカンムリだが、それでも続くのがご学友の関係。
 それぞれ好きなことを言い合って750キロの旅を終えた。

2010年12月8日水曜日

文教福祉常任委員会開催

文教福祉常任委員会を開き、いじめ、就学援助制度についての議論をした。新里町小学校での小学生自殺事件を受けて、「いじめ」問題が焦点になってきたようだ。教師集団と子ども達の集団がある学校では、集団生活の中で起きたいじめは集団生活のなかで解決できる雰囲気、気風を育てることが大事だという事を主張しておいた。鋭角になりすぎてもいけない。全体の治癒力を高める方向での対応が重要だ。
 格差社会のなかで学用品すら買えない環境の子どもが増えていることを改めて思い知らされた。「援助金でパチンコをする親もいる」という枝葉末節な議論は止めて欲しい。本質はそのようなことではない。働こうとしても仕事にありつけない、ありつけても非正規雇用で収入の不安定という状況に多くの人が追い込まれている事を問題にすべきだ。さまざまな観点から議員同士で議論はできた。福祉は甘えだ、という感覚の議員がどうしてもいるんだね。社会構造が見えてないんだ。

2010年12月1日水曜日

「ヒーローショー」「川の底からこんにちは」上映は不敬罪にならないよねえ。

中井ひろし議員が国会開設120年を記念する式典に際し、秋篠宮夫妻に「早く座れよ」と言ったとか言わないとかで大騒ぎになっている。中井センセイに関しては、ろくでもない議員くらいの認識しかないが、「土下座してお詫びしろ、しなければ懲罰だ」と渡辺みんなの党代表、そうあの「アジェンダ」のおじさんがすごんでいる。
皇室に関しては、思考が止まってしまう連中が、皇室への忠誠心競争に熱を上げているようでは世もおしまい。この勢いでは戦前の「不敬罪」さえ復活しかねない。「四民平等」はどこへ行った。
 「真の文明は人を殺さない」とは明治政府とたたかった田中正造の言葉だ。田中の街頭演説を若い頃聴いていた布施辰治は弁護士となり、大日本帝国の圧政で苦しむ庶民や朝鮮人に加勢してたたかう人生を選択した。多くの人々を貧困や精神疾患、自殺へと追い込んでいる現文明は真の文明ではない、と私も思う。では、正していこう。
 そこで紹介したい。土田企画、「ヒーローショー」井筒和幸監督、「川の底からこんにちは」石井裕也監督の2作品を来年2月13日玉村町文化センターで上映することを企んでいる。只今料金設定を検討中。
先行きの見えない若者の現実をえぐり出し、そこから見えるささやかな希望に光を当てている必携の映画だ。「所詮、私なんて中の下ですから、中の下じゃない人生送っている人なんているんですか」
 格差社会の生きにくい現実を直視することから始めよう、井筒和幸監督も参加します。こんな事をしながら忍び寄る「不敬罪」におびえるのかなあ。

2010年11月29日月曜日

12月議会は2日から9日まで

12月議会が2日から始まる。私の一般質問は2日の午後3時半頃だろうか。
時間を取って傍聴に来てください。


   質  問  の  要  旨

1.情報管理は適正適切に行われているか。

公安情報や尖閣列島での漁船衝突映像の漏洩にはあきれたが,玉村町の情報管理は大丈夫か。漏洩は技術面からだけでなく、人により行われることが多い。根底に必要なのは信頼だ。民間委託している部門に対してはどのように情報管理を徹底させているか問う。

2.地方分権、地域主権の時代の町政について問う

ア.今後町づくりの自由度が増す訳だが、自律の道を選択した今こそ、きめ細かい町づくりが可能であり、求められる。高齢化社会の地域コミュニテイーを考えた時、歩いて日常の用を足せる地域づくりは重要と思う。大店舗では対応できない小さな店舗を地域につくり、医院、学校などと合わせてコミュニテイーの強化を模索する考えはないか。

イ.政策を自主的に決められる反面、バランス感覚が求められるが、今後極端な考え方の町長がでないとも言い切れない。勿論、議会は対応するが、乱暴な予算配分をしようとする町長に対し、それをいさめる説得力ある知識と力量を合わせ持つ職員の育成も必要だ。また協働社会の担い手の一方は職員と考えるが、その職員をどのように主体的な担い手として意識改革させていこうとしているか問う。(消防団に入っている職員の意識の変化をどのように捉えているかなどを例に)

ウ.この間の行財政改革で職員数の削減をしてきたが、時代の転換期にあたり、必要なところにはきちんと職員を配置すべきではないか。職員を「減らすことから活かすこと」に力を注ぐべきだ。特に、昨今の社会事象から考えると、経済不況を原因とする行政需要、精神的不安定を疑わせる人の増加に対応する部門や学校に適応できない子ども達への一層の対応は重要と思うが、来年度の採用職員をどの程度の規模と考えているか問う。

3.各種講演会の講師依頼は女子大に積極的に依頼すべき。

生涯学習など各種講演会の講師は、知識の宝庫としての女子大学の先生方に依頼することにより、女子大と玉村町が一層連携し深みのある独自性豊かな町になると考えるがどうか。

4.新里町の小学生の自殺事件に関連して問う。

「気づき、つなぎ、見守り」が自殺予防のキーワードだ。「友達が欲しい」と言って命を絶った少女を思うと余りに胸が痛い。職員室内でのさまざまな経験を持つ教員同士の支え合いが欠けていたのではないかと考えるが、玉村町の学校の職員室の雰囲気は活力にあふれ、助け合い補い合う気風に満ちているか問う。





























町長




教育長

2010年11月28日日曜日

鬼石の桜山でみかん狩り


 昨日、冬桜が咲いている鬼石町の桜山の中腹にあるみかん畑で群馬朝鮮初中級学校の子ども達とみかん狩りをした。この場所でのみかん狩りは2度目だ。毎年何回か会っていると、子ども達の成長もうかがわれお互いが身近に感じられる。この程度の交流でもありがたがっていただけるほど日本人との交流が少ないらしい。不幸なことだ。「異文化交流社会」などと建前は言うものの、在日朝鮮人はそこからも排除されている現実は余りにも無残だ。
 戦時中、あらゆる甘言や脅迫で日本に連れてきて、さまざまな重労働や戦役を「日本人として」朝鮮人に強いた歴史をよもや忘れた訳ではあるまいに。忘れたのなら、知らないのなら、「日韓併合100年」の節目の今年に学び直せ。「日本人の構えの狭さ」に恥じ入るばかりだ。
 安重根校長先生は、北朝鮮軍と韓国軍の交戦直後でもあり、その影響を心配していたようだ。人間同士の自然の交流に影響があってはいけないし、まして子ども達に責任はない。未来は子ども達のもの、若者達のものだ。彼らの未来に責任を持つのが大人の仕事でしょう。

夕方からは、母校・伊勢崎工業高校開校100年記念の祝宴会場まで井田県議の車で送ってもらった。県議も会場でお祝いのあいさつを頼まれていたそうだ。車中、「朝鮮高校への授業料無料化プロセスを停止すると言った菅首相は全くダメだが、群馬朝鮮学校への補助金を今後も続けると明言した大澤知事は正しい。自民党も見習え」と檄を飛ばしておいた。
 そして会場で、卒業以来、森村宏先生に40年ぶりにお会いした。ガラガラ声といい声の大きさといい84才には見えない若さだ。
 思えば開校60年記念の年の文化祭の最終日、「坊主頭の強制を廃し長髪を認めろ」と大勢の仲間とロックアウトをし、一晩で長髪を認めさせたあの記念すべきたたかいをしたのが高校2年生の時(17才)だった。あれから40年、いまだ思いは青いままだ。

2010年11月26日金曜日

上を向いてみかんがひとつだけ実をつけた



まだ植えて3年ほどの手入れもしないみかんの木が実をつけた。まだ1メートルの丈もない木だが一つには20個ほど実をつけ、木の大きさに比べ相当重いようだ。もう一本の木には一つだけだが、万有引力など何のその、というばかりに枝から上に向いて実をつけた。若いから起ちもいい。
いろんな実の付け方をみかんさえ教えてくれているようだ。人間もせっかくの命なんだから自由に生きた方がいいとつくづく思う。「愛してるかい」忌野清志郎の自由さが欲しい。

2010年11月25日木曜日

菅内閣、ダメですねえ。自民党とどこが違うの。

黄海で韓国領とされる島に北朝鮮軍が砲撃し、韓国軍も応戦、住民に犠牲者が出て大騒ぎになっている。どこかで抑制的にならないと戦争になりかねない事態だ。いつも北朝鮮は悪者だから今回も悪となることは分かっている。しかし、目の前で韓国軍が軍事訓練を繰り返していた。このような状態が続くなかで、北朝鮮は相当のストレスを抱え込んでいたことは事実。アメリカを後ろ盾にした韓国軍の挑発行為にまんまとひっかかったようなものだ。弱い者はいつも最悪の犯人に仕立てられる典型だ。日米韓の価値観の中で生きている我々には、その価値観の中での正義を基調とする判断報道の洪水に流されがちだが、これに疑いを持った方がいい。
対するは北朝鮮一国ではない。中露朝のタッグとなる構図が究極の姿だ。かなり複雑な国際関係のなかでしばらくは流動するだろう。
 それにしても日本外交の哀れさよ。尖閣問題ではアメリカ頼り、北朝鮮問題では中国頼りで北朝鮮のドアにノックすらできない菅首相、経済制裁はもうすでにやり切っているので思いついたのが、「朝鮮高校への授業料無料化」への動きの停止。これは恥ですよ。江戸の仇を長崎で討つようなもので、絶対に取ってはならない対応だ。これでは在日朝鮮人は日本にとり人質になってしまう。
 「政治と教育は別」として群馬朝鮮学校への補助金支給はこれからも続けると明言した自民党・大澤群馬県知事の方が立派だ。
 政権交代の幻想は見事に破られたようだ。概して島国根性で日本列島内にしか通用しない価値観の合唱で国内みんな気持ち良くなっても世界の笑われものにすぎない。そのうち総理大臣がまた交代して、「日本は余裕だねえ」と一瞥されるのが関の山でしょう。
理想を言えば、戦争の極限を体験した国として、「不射の射」としての憲法9条で暴れん坊を黙らすくらいの貫禄と座りを見せて欲しい。
 しかし、やはり軍隊は「暴力装置」だ。「武力」だの「実力」だの言っても本質は「暴力」です。その「暴力装置」発言をした仙谷官房長官、その発言故に「問責決議」だそうです。魔女狩りのような国会ですなあ。
 

2010年11月21日日曜日

玉村町産業祭


恒例の玉村町産業祭が開かれ、大勢の人々がイベント等に参加し、買い物客で役場周辺は大賑わいだった。午前中開かれた、表彰式では、TPPにより玉村町の農業は壊滅するのではないか、という声も聞かれた。
 生産と分配が世界中にスムースに行き渡ればこんな悩みはないのだが、国家の壁が流通を歪めている。情報や産業のグローバル化に対し国家が流通の阻害物となっている。産業の国際化と裏腹の新保守主義による狭い国家意識で国民を縛ろうとする矛盾に気づかなければならない。
 夕方、楽しみにしていた「パリ20区、僕たちのクラス」を観た。まるで授業をうけているような気分になった。子ども達と向き合う教師の大変さをつくづく思い知らされた映画だが、日本の教育現場での教師集団の劣化を想像するにつけ、必見の作品だと思う。

2010年11月18日木曜日

自衛隊は「暴力装置」じゃないの?

 国会審議の中で仙谷官房長官が「自衛隊は暴力装置」と発言し、野党から大きな批判を呼び、その発言を撤回、謝罪した。しかし、「暴力装置」じゃないのかなあ。戦闘機、戦車、軍艦、潜水艦、ミサイル、爆弾、地雷、数々の銃器。これらを国家が独占し、国民は寸鉄も帯びていない。国を守るためなら、他国と戦争し、国内では治安維持名目でそれらの武器でデモ隊を鎮圧する。ビルマの軍事政権の対応を見れば誰もが「暴力装置」と理解するだろうに。
 要は国家が支配する暴力は「正しい暴力=実力」と言い換え、国家に抵抗する暴力はそのまま「暴力」と言いなし、おぞましいものと印象づけているに過ぎない。ヤクザ集団を「実力団」とは言わず「暴力団」と呼ぶ事からも理解できる。自衛隊を「暴力集団」と表現したら印象悪いもんね。。抵抗する側も「実力闘争」とはいうが「暴力闘争」とは決して言わない。同じ「暴力」が権力側により行使されたときは「実力」と呼ばれ、また、反対者が行使するときはそのまま「暴力」と呼ばれる。国家が行う死刑執行は決して殺人とは言わない。しかし殺人ですよ。要は「暴力」なんです。「実力」という言葉を使える側が支配する側に当面はあることを示しているに過ぎない。しかし、「暴力装置」という言葉にものすごい反発があったと言うことは、その矛盾を実は、批判者達自身分かっているということの証。
 仙谷センセイには国会でこの際「暴力論」やクロウゼビッツの「戦争論」を満展開して欲しかったのに。

2010年11月16日火曜日

文教福祉常任委員会視察・昭和村から長野県山ノ内町へ



昨日は「子育て、食育プランについて」を視察項目として昭和村を訪問した。農業世帯が全世帯の3分の1を越え、しかも働き世代が中軸となっている人口構成をみても、野菜づくりに自信を持っている村ということが分かる。人口7700人規模だからできる地産地消という面も理解できた。
そして今日はリンゴ収穫最盛期の長野県山ノ内町を「子どもへの行政施策・地域性を活かした教育施策について」をテーマとしての行政視察、紅葉の終わり際だが、まだ真っ赤な葉を残している木々もあり目を楽しませてくれた。玉村町と姉妹提携していることもあり、人の交流も多くなってきているようだ。まだ手つかずだが玉村町のために貸してくれた「玉村町民の森」を見て、その後、名物「岩本そばや」の店主に(瞬悠庵)を書いて頂いた。
 還太平洋パートナーシップ(TPP)が締結されると、日本農業は相当の打撃を受けるといわれているが、まさに壊滅的といっていいほどの状況に山ノ内町のような山村農業は陥るのではないか。昭和村の農業だってどれだけ生き残れるか分からない。この間、地方や経済力なきものは隅に追いやられてきた結果、さまざまな問題が事件、事故となり吹き出している。一部産業のため第1次産業(農林漁業)を犠牲にして、食の安全と山村、地方環境の保全、とどのつまりは人間の生活・文化が保たれるのか、失うものの大きさを、失わないうちに考えなければならない。
 
今日から12月議会の一般質問の受付開始、この間進めてきた「小さな政府論」の限界を示し、「職員を減らすことから活かす方向」への転換、中心部での大店舗戦略から地域での小さな店舗づくりから始まる「歩いて暮らせる町づくり」の模索などを質し、自律する自治体への確かな歩みを促したい。

2010年11月15日月曜日

天理市、談山神社、長谷寺へ



 天理市から談山神社、長谷寺をまわり京都に3時頃到着。天理市には驚いた。天理教の建物の大きさに驚いたというか独特の雰囲気と規模は圧巻だ。天理市全市が天理教のうねりの中にあるのかと思わせる程だ。しかし、教義を強要するところがないらしく政治にも深く関わらない。それが戦争の教訓らしい。
 藤原鎌足をまつる談山神社は第一のおすすめの場所で13重の塔は見物。訪れたのは10年ぶりだろうか、紅葉の季節は特にいい、この辺が「大化の改新」の裏舞台といっていい所。明日香の里も近い。平城京以前の権力の所在地だ。奈良の歴史は深く歩きだせばきりがない。
 秋山君に土田君、そして栗原君にはお世話でした。旅は想いのままがいい。
 

2010年11月13日土曜日

京都から奈良へ過去から現代まで歩き回って味わいまくる



昨日、京都朝鮮初級学校まで行き、右翼がデマを言いふらしながらデモをしたという公園に行った。学校の庭はとても狭く、子供たちが運動することはとてもできない状態だ。道を隔てた公園を運動場として使うのは当然で、そのことなしには運動場のない学校ということになってしまう。先生が子供たちとマットを敷いて体育の授業をしていた。市も近所の住民も当然のこととして長年容認していることを「在日特会」を称する集団は攻撃している。それを言うなら「在日米軍の特権」こそ批判すべきだろうに、強いものには弱く、弱いものには攻撃をしかけるという「最も日本人らしくない」えげつないやり方で差別排外主義をあおる。在日の歴史的経緯を少しでも学ぶべきだ。
 伏見稲荷参拝の後、宇治の平等院に行き、その足で山本宣治の墓参りをした。レンタカーでの旅は効率がいい。
 今日は、奈良駅で自転車を借り、鹿にあいさつしながら東大寺、興福寺、唐招提寺、薬師寺とじっくり回った。仏像も時間をかけて見学することができた。興福寺の阿修羅像は少年というが、少女にも見える。表情があり今を生きているようだ。平安時代の息吹を感じさせる像の数々に圧倒される。
 夕方から大阪に行き、在日朝鮮人が多く住む鶴橋商店街の店「よあけ」で軽く一杯、いや二杯、話に勢いをつけ、場所を変え三ヶ所をはしご。飛田新地に足を踏み入れたときは、その艶やかな夜の世界にびっくりした。「こんなところがあるのかよう」という感じだ。秋山先生は「行こうぜ」と乗り気だが、栗原幹事長がストップ。
 栗原企画はスリリングで面白く気まぐれ部分もあり刺激的だ。ホテルに帰ったら11時、2万歩歩いた。こんな調子の旅だ。

2010年11月11日木曜日

「日本人のあり方」をテーマに近畿へ

栗原企画による秋の旅のテーマ

沖縄基地、尖閣列島、の問題などさまざまな事象の中で、そもそも「日本人」とは何かを近畿の地で考えたい。
順番として①同和、在日、天皇制を軸として京都を地政学的な観点から俯瞰する。②労農派は何故日本において迫害されるかを考える(少数派としての視点)③「仏教寺院」を何故「神」である天皇が援護するのか。また寺院の中に神社が存在するのは何故なのか(渡来してきた宗教としての仏教と在来宗教である古来神道との相克④天理教をモデルに新宗教は何故近畿圏で発生することが多いのかを考える。(天皇制に基づく聖賤思想の文化的圧迫が強いからなのか)⑤以上すべての構造を突き詰めたとき、我々に何が残るのか。日本人はどう規定されるのか。
 
とまあ言ってくれますねえ。テーマに不足はありません。応えきれない参加者に若干の不足があるが、鹿の頭をなでながら、鹿に歴史を尋ねてよう。

2010年11月9日火曜日

榛名山の紅葉

五十嵐さんから榛名山の紅葉の写真が送られてきました。ブログに貼り付ける技術がないので見ていただく事ができず残念です。すばらしい秋模様です。
12日からは仲間と奈良に行き歴史探索をする予定もあり、奈良の紅葉にも期待しているのだけどどんなものでしょう。
 桑原功衆院議員事務所から、来年4月の県議選に前橋市から立候補予定の「本郷たかあき」のポスターを大量に友人(関口)が持ち込んできたので、1枚だけ事務所に貼っておいた。何せ、玉村は選挙区が違うので、知り合いに声がけしながらの応援になるだろう。問題は玉村選挙区(定数1)で現職への対抗馬が見当たらないことだ。

2010年11月8日月曜日

玉村町と伊勢崎間の橋の工事が進んでいる


広幹道の難所と化していた玉村と伊勢崎の利根川に架かる橋は平成27年完成予定だ。朝の散歩コースの下之宮サイクリングロードを歩いていると、うっそうとした竹藪が切り取られ、利根川から伊勢崎方面を眺める事ができるようになった。すでに工事は進んでいる様子だ。道路部分の発掘調査も行われ、多くの人が働いている。発掘して何が出るのか知らないが、丁寧に作業しているようだ。
静かなサイクリングロードと竹藪、季節になると鳥の鳴き声がうるさいくらい賑やかな所だが、ついにその1部分が切り取られ橋へと化していく。開発とはこれまで無縁の地域だけに寂しい感もあるが、これからの変容を見守りたい。

2010年11月5日金曜日

国家機能がメルトダウンしている

私は決して国家主義者ではないが、この国本当に大丈夫かいな、と思ってしまう。公安情報が緻密な形でインターネット上にあふれ出したかと思うと今度は尖閣列島(釣魚島)での漁船との衝突ビデオが流出している。両方とも政府にとり、外交関係においてもあらゆる意味においても秘匿しておかねばならない1級の秘密のはずだ。いとも簡単に娑婆にあふれ出すなんて、検察の腐敗と合わせて国家の溶解が進んでいるとみるしかない。おそらく庶民の個人情報、自治体情報はほとんど当局に把握され、いいように覗かれているのではないか。
 これらの事件で愉快なのは、「もうお互い誰も守れない」ということ。権力者自身の秘密の保持が不可能になっているということだ。あきれるほどもろい情報社会の欠点が今現れている。
 何事も基底にあるべき事は「信頼」と言うことに尽きる。コンピューターが人間に代わることは決してできないことを思い知るべきであり、個人(人間)を大切にしない経済社会は行き詰まるということ、すでに行き詰まっているからこういった形で悲鳴があがっているのではないか。権力があざ笑われているのだ。
 資本が主体の社会から人間が主体の社会への転換こそ問題解決への道だろう。

2010年11月4日木曜日

「不射の射」を理解できない前原外相に外交はできない

最近、中国アニメ「不射の射」を観た。春秋の時代、弓の道を究めたいと思った若者が、名人を訪ね教えを請うたところ、弓を持たせず「瞬きをするな。目を開いて寝ることができるようになれ」という。若者は数年かけて目を開けて眠れるようになった。次は「字が見えるようになれ」といわれ、放浪者から虱を買い込み、糸につるし何年も眺め、字が見えるようになった。そして弓を射た若者は見事な腕前になっていた。しかし、1番の名人を目指した若者は、師に紹介された山の上に住む仙人のような老人の所に行った。老人は若者に山頂にある足場の悪い岩から鳥を射るように言うが、とても足場が悪くて矢は当たらない。老人は弓を持たず矢を射たような格好をしただけで鳥は落ちた。
やがて弓を極めた若者は年齢を重ね田舎に帰った。その顔の表情は村を出たときのがむしゃらな顔つきとはうって変わり穏やかな顔になっていた。村人はその腕前を見せて欲しいとせがむが彼は決して弓を取らない。その評判を疑った者が夜、彼の家に忍び込むが失敗した。誰が忍び込もうとしても必ず失敗する。そして村人の悩み事や争いごとは彼の仲介で何事も解決した。そして生涯、彼は弓を引くことがなかった。

このような話は中国にはたくさんある事は日本人も知っている。歴史が違うのだ。中国がどんな政治体制でもこの長い歴史感に裏打ちされた深い思いが行動原理としてある。それを理解しようとしない外交感覚では前へ進まない。
前原外相はじめ日本のメデイアはいう。「1895年1月14日の閣議決定で「無主の地」である尖閣列島を日本領に編入し,それ以来実効支配してきた」と。この時期は日清戦争の時期であり、それは明治政府が帝国主義列強に伍して、朝鮮と台湾の権益を手に入れるための侵略戦争だった。弱り切っていた清朝中国がその時点で異議を言わなかったから日本の領土と認めたといえる、という論調には異を唱えたい。
尖閣列島(釣魚島)は中国大陸の大陸棚に位置しそこから海へ突き出している。そこから沖縄トラフがあり沖縄諸島となる。沖縄トラフとは東シナ海で最も深い海底。地勢的に言えば、沖縄諸島と中国大陸を隔てているのが沖縄トラフ(深海)。過去において豊かな漁場として、台湾の漁民が漁業に従事し、島で休息などしていた。
さあ、尖閣列島(釣魚島)どうしたものでしょう。日本国内だけに通じる薄っぺらな観念論だけでものを語る前原外務大臣では、中国には到底通用しない。
「不射の射」の心を学んだ方がいいかも。
つっぱてるうちにロシア大統領が北方領土に足を踏み入れた。鼻っ柱だけで哲学のない政治家ばかりではこの有様だ。そして日米同盟の強化しか考えられない「鋳型思考」がまた悲しい。

2010年11月2日火曜日

上州・鬼石桜山公園の冬桜



藤岡市鬼石町の龍峰会の理事会に行くついでに、秋山鬼石商工会事務局長を訪ね、道の駅天神茶屋で昼食を食べた。ここにはお目当ての気立てのいい娘さんがいるし、そばもうまいのでつい行ってしまう。そばだけでいいと思っていても、秋山君の自信満々な定食の注文に、ついつられ同じものを食べてしまう。健康のことなどまるで意に介しないもう少しで90キロの秋山先生と同じものを食べていてダイエットなどできようはずがない。
話は町おこしから昨今の政治状況そして与太話までのいつのも流れだ。
「石川、桜山のライトアップを宣伝してくれ」
11月1日から12月12日まで桜山をライトアップし冬桜の美しさを味わっていただきたい、と言う趣旨だという。昨年の冬は試行だったが今年からいよいよ本番。事務局長も痩せる思いだそう。
11月14日(日)冬桜モデル撮影会
12月1日(水)湯原昌幸歌謡ショー
12月12日(日)桜山まつり俳句大会

2010年10月31日日曜日

桐生市新里小6年生の自殺に思う

実に悲惨と言うしかない。新聞報道でしか判断できないが、転校生としてなじめない中でのさまざまな出来事に彼女は耐えられなかったのだろう。子どもは可愛いが、一面実に怖い面も持ち合わせている。思ったことをそのまま言葉にしてしまうこともあり、他人が傷つくことも理解しない。それが子どもなのだと言うことを前提に教育現場はあるべきだろう。
この事件から教育現場は逃げてはいけない。担当教師の悩みを職員室での教員の総合力で対応、解決できなかったのだろうか。新米教員からベテラン教員までいるはずだから、その連携で問題に対する対応は十分できたはず、と思う。職員室機能が全く活かされていなかったと言うべきだろう。
 新自由主義政策の中で社会総体が荒み、みんながバラバラにされ、相互の信頼関係すら築き上げられていないのが現状なのだろう。子ども達こそ犠牲者だ。
 事件が起きると、マスコミも含めヒステリックになり、学校や教師に個人攻撃を仕掛ける。担任教員は、マスコミが自宅を取り巻いて、帰宅もままならないそうだ。そんなことでは何も解決しない。
 教職員組合への加入率低下が示すものは、教員同士の研修、さまざまな課題への取り組みなど横のつながり、仲間同士の団結・連携が極端に弱くなっている実態ではないか。教育委員会からの縦の関係ばかり優先し、上位の者には意見の言えない「物わかりのいい教員」がふえ、教室の実態に対応できない状況があるのではないか。
 昨日の連合群馬定期大会で会った群馬県教組書記長に、「教員を守れ、子ども達を守れ」と強く要請した。日教組の弱体化がこのような教育現場になってしまったことに一面つながっている。右翼が主張する「日教組解体」ではなく「日教組再生」こそが教育再生の道だ。
しかし、「友達が欲しい」という女性徒の切ない願いさえ叶えられない教育現場は日本中にあると考えなければいけないだろう。

奇しくも、「追い込まれた死をなくすために」という自殺予防のための冊子が群馬司法書士会から送られてきた。「気づき、つなぎ、見守り」をキーワードーとしている。年間自殺者3万人以上が12年連続している社会は根底から間違っている。倒錯の社会だ。

2010年10月29日金曜日

連合伊勢崎地協による町への政策提言、玉村町文化協会の総合芸術展



連合伊勢崎地協による町長への政策提言について、塚越紀一県議と一緒に立ち会った。内容は①雇用・労働問題の相談窓口の周知活動②子育て支援環境の強化③生涯学習の充実へ向けた取り組みの強化④ゴミの削減⑤防災訓練の実施⑥緊急警報情報の早期伝達への支援といったものだ。
懇談の中、政府の進めている公務員削減政策で本当にいいのか、日本を幾分割する形での道州制導入で日本社会は崩壊しないのか、検討して来年町に提言して欲しい、と私からお願いした。
終了後、塚越県議と三和食堂で会食、来年の県議選について対応を話し合った。「起つ」という。伊勢崎選挙区も世代交代の様相だが、ベテランがいなければやはり政治は進まない。

午後は、文化センターで開催中の作品展の見学。長寿会連合会、身体障害者連合会主催の作品展もあり、それは賑やかで、これほどの作品を町民が書いたり、作ったりしているのかと考えると、文化の力は想像を超えるものがあると実感した。思わぬ人の出品もあり、癒しの意味でも文化の香り豊かな町を感じた。

そして、歴史資料館、玉村町歴史Ⅲとして芝根地区編の展示が行われている。特に目に止まったのは木暮武申(弥市郎)、箱石生まれの和算家として18世紀に生まれた。蔵書には和算、測量、暦学の本もあった。コペルニクスの天体図もあり、写真を撮らせてもらった。オランダ医学等の流れが、18世紀の箱石にまで来ていたのかと、驚きの本も展示されている。(12月12日まで)

2010年10月28日木曜日

群馬町村議会議員研修会に議員全員参加

毎年この時期に開催される研修会だが、全県からの集合となると、吉岡町文化センターがその規模といい位置といい、最適なのでこの会場使用が通常化している。
 今年の講師は大森彌(わたる)東京大学名誉教授と西川孝純(さいかわ たかすみ)共同通信社特別編集委員のふたり。西川さんの話は、メデイアの世界にいたわりには保守的論調が多く、それほど刺激的な内容ではなかった。
 大森さんの話は、地方を理解し、理解しようとしている姿勢がうかがわれた。私が議長だった2年前、東京での研修でも講演を聴いたので2度目の聴講だった。当時から、地方分権推進委員会専門委員などをしていて、自民党の合併推進政策を厳しく批判していた。政権交代前の時期で自民党批判が世間にあふれていたが、「それでも自民党に投票します」と言っていたのが印象的だった。
そして今日は、阿久根市長、名古屋市長そして大阪府知事の3人の名前を挙げて批判していた。「この3人の手法はファシズムであり独裁だ。」農産物の自由化に関しても「アメリカは強行に出れば日本は折れると見ている。政府はなめられている。私の怒りは右翼ぎりぎりのところにある」「合併などしないほうがいい。単独でいてくれればまた講演に来たい」等々、大森さんの考え方に共感した参加者は多かったのではないか。

2010年10月24日日曜日

群馬朝鮮学校開校50周年記念



未来は子ども達のものだ。世界中の子ども達が例外なく、自由で平等で協調できる世界をつくる責任は大人達にある。日本社会で差別にあえぐ在日朝鮮人がつくった群馬朝鮮初中級学校の開設50周年が盛大に催された。桑原功衆院議員や多数の県議、市議が来賓として参加、市町村議員は私だけだった。卒業生など多数が参加し民族舞踊などが披露され、朝鮮料理の醍醐味を味わった。曇り空でもあり屋外開催には最適だった。私自身、思いもかけない感謝状をいただきとまどっている。
 日本と朝鮮の豊かな歴史交流を復活させる必要がある。差別と偏見だけで一方を排除する昨今の日本社会の流れを変えなければならない。
 校内では韓国併合100年を写真パネルなどで紹介していた。江華島事件から始まる朝鮮植民地政策の時代は本当につらいものがある。しかし加害者である日本人が見据えなければならない歴史であることを自ら確認したい。唐沢国労高崎書記長と雑談しながらパネルを見た。その中にも、当時朝鮮人に好意的な日本人の写真がいくつか飾られていた。勝海舟、柳宗悦、幸徳秋水、菅野スガ、布施辰治、石川啄木、金子文子等だ。
「最近、日本は朝鮮を差別するが、日本文化の種子はみんな朝鮮から来ていることを忘れている」との趣旨の勝海舟の言葉も載せられていた。

 地図の上 朝鮮国にくろぐろと 墨をぬりつつ秋風を聴く
(韓国併合に際し書いたうた)

 雄々しくも 死を恐れざる人のこと 巷にあしき噂する日よ
(伊藤博文を暗殺した安重根を思い書いたうた)

この2つは啄木のもの。これらの人々の当時の言動のおかげで、今の私達もほんの少し救われているのかと考えてしまう)

玉村町では4回目の国際交流会が行われた。来年は,朝鮮舞踊でも参加させようか。

2010年10月22日金曜日

アメリカンクラブ錦野の歴史に幕を閉じる



私が通っていた上之手にあるプール「アメリカンクラブ錦野」がこの28日で閉鎖する。経営上の問題でそうなるわけだが、なにせ20年間最初から通っていた自分としては、つらいものがある。何しろ色んな人と出会った。イラン人のアリーやモジとは帰国した今でもたまには連絡を取り合っている。会員が大勢いたときは、忘年会もした。夜、サウナ室に行けば、そこに集まった人たちの話で、その日の出来事がわかるほどの交流の場だった。
一日1000㍍くらい泳いだ日々もあった。今は30分程度歩き300㍍泳ぐ程度だが、極端に会員数が少ない状態がこの何年か続いていた。小・中学生の選手コースは今もなかなか盛況のようだが、一般会員の減少が響いたのかもしれない。若い選手コースの人たちの今後の活躍に期待したい。
 一つの歴史がこうした形で幕を下ろすのは実に寂しい。経営者の方にはこれまでの感謝の気持ちと今後の生活再建を願うのみだ。
 

2010年10月17日日曜日

伊勢崎「国際交流祭」から飯倉のバーベキューへ


昨日、伊勢崎市内にJAが開設した農産物物産館「からかーぜ」に寄り買い物をした。知り合いの職員も多くいろいろ話を聞かせてもらった。今後、広幹道が開通することを見越しての大きな試みだ。この場所なら上陽地区からも近いので、そこからの集客もあてにしている。芝根地区や上陽地区の生産者の出荷もあるという。
さて、玉村町で検討している物産館建設はどうしたものか。これといった特産物のないなかで無理して大金をかけて作る必要があるのかも含め、検討すべきだ。

その後、伊勢崎市絣の里で開かれた国際交流祭で出店している川田夫妻を訪ねた。駐車場は満杯で車を止めるのに苦労した。中に入ると本館2階のインドネシア展で忙しく立ち働いている川田一家を見つけた。隣は韓国のブース。ブラジルのブースでコーヒーを飲んでいると、定方伊勢崎市議会議長と鉢合わせ、雑談の後、川田を紹介し写真をパチリ。時間をとり、ゆっくり過ごせば面白い一日になること間違いなし。台湾のブースを歩き、館外にあるテントの中の特に南米の食事をゆっくり見ながら、帰った。

そして、秋のバーベキューを食べに町内飯倉に向かった。密照区長の決断により今年から夏祭りではなく秋祭りに変えた催しだ。気候の変動もこの時期は少なく、穏やかな中での地区民の交流となったようだ。

2010年10月13日水曜日

玉村町協働推進センター利用団対交流会

ふるはートホールの推進センター利用団体交流会が開かれ、20団体ほどが参加し、自己紹介から今後の連携のあり方などを協議した。草刈りボランテイアから趣味の会、手話の会、龍舞衆、文化団体等が一同に会したのだから、話が収まるはずがない。それでも、話を進めれば、次第に整理されていくのは不思議だ。荒んだ世の中でもそれぞれがさまざまのことをしている。点が線になり、やがては面になれば、それはそれで結構なこと。力まずに行けば、面白いことになるかも。

昨夜は、群馬県町村議長会理事会で、退任した私も送別会と言うことで、伊香保温泉夜の部に招かれた。1年ぶりの髙橋会長(榛東村議長)は元気で他の理事さんともじっくり飲んで話ができた。部屋割は玉村町宇津木、神流町三木、上野村宮澤議長の4人。やはり交流は必要と改めて感じた。38000人を割った玉村町だが、2000人、3000人の山村からすれば夢の都市のようだそうだ。「とにかく平らな畑がない。報酬が低くて議員のなり手がいない。高齢化が進み希望が持てない」とこぼすことしきり。
昭和村となるとまた事情は違う。高地にあり広い畑で取れる野菜は都市部へ高速道路で直行でき、大企業の進出もあり、自信ありありな様子だった。八ツ場ダムを抱える山間地域や東部地域の町村など現在23町村が県内にある。道州制により押しつぶされることのないようにしなければならない。

シネマまえばしで「赤いコーリャン」を観た。1920年代、中国山東省の田舎の暮らしの様子を描いたものだが、コーリャン畑に日本軍が来て、美しいコーリャン畑を押しつぶし場面、中国人に生きたまま仲間の皮を剥がせようとする日本軍とそこに林立する「日の丸」を見て、当時の日本軍のひどい行為に改めて吐き気をもようし、日の丸に身震いを覚えた。

2010年10月11日月曜日

中国人劉曉波さんにノーベル平和賞

1989年の天安門事件で主導的役割をしていた劉曉波さんがノーベル平和賞を受賞することになった。当時、北京師範大学講師だった彼は、事件後も「生き残った者の責任」として、民主化活動を続けていた人物だ。どこの国でも反体制活動は厳しい弾圧にさらされる。世界第2位の経済大国にのし上がった中国が「一党独裁」でいいのか、というのが一般の論調のようだ。平和賞は特に、「政治的」思惑が絡んでいることは周知の事実。中国政府もなにも「劉曉波は犯罪者」などと声高に叫ぶ必要はない。懐の深い対応を見せればいいのに、できないところに現在の中国の弱点があるのだろう。鄧小平の「先富論」が現実は極端な経済格差を呼び起こし社会主義の体をなしていない「名ばかり社会主義」になってしまった矛盾をいつどのような形で解消するのか、ここに注目が集まる。問題は、平和的解消などできはしない事だ。13億人の国で動乱が起こればそれはそれはおおごとだから大変なんだ。
 一方、我が日本は一党独裁ではないかに見えるが、少し目をこらせば分かるだろう。「ブルジョワ独裁」と言うことが。自民党も民主党も資本主義体制を堅持するためのブルジョア(資本家)に送り込まれた政党にすぎず、民主主義は「独裁」と言う言葉の悪いイメージを払拭するための装飾にすぎないのではないか。二つの政党とも働く人たちのための政党ではない。

昨日の町民体育祭は中止されたが、天候は極めてよく、今日も秋日和で、群馬の山々もきれいに見える。足を伸ばそうか。

2010年10月10日日曜日

本当の文明は人を殺さない 弁護士・布施辰治

群馬県公社総合ビルでドキュメント「弁護士・布施辰治」を観た。これは韓国併合100年・布施辰治生誕130年を記念して作製された映画だ。
朝鮮植民地、中国侵略という暗黒の時代を「世の中に一人だって見殺しにされていい人はいないのだ」との信念で朝鮮人や社会的弱者の側に立ちきって弁護活動を続けた布施辰治弁護士を描いたもので、池田博穂監督の舞台あいさつ、角田義一弁護士のあいさつの後、上映された。会場は300人の定員一杯の盛況で、今日的にも布施辰治の生き方を学ぼうとする多くの人がいることが理解された。
池田監督はそのあいさつの中で語った。布施は若い頃、街頭で田中正造の演説を聞き、「本当の文明は人を殺さない」との田中の信念に惹かれ、自身が法曹界に進むなかでも、その生き方を貫いていった。そして今も布施の生き方に学び、継承する若い人たちがいることを紹介した。

2010年10月7日木曜日

八ツ場ダム建設地と吾妻峡を訪ねる


東吾妻農協に行ったついでに、川原湯温泉と吾妻峡を訪ねた。ヤンバ館は県外ナンバーのバスや自家用車での見学者が大勢いて、廃止か推進かで注目を集める昨今、見学者が増えているのだろう。温泉町は深刻な状況だ。スキー帰りに時々寄っていた吾妻川沿いの麦とろご飯のうまい店のすぐ下にダムサイトの一部かと思われる構造物ができていた。美しい吾妻峡を景観的にも破壊するものだ。強酸性の川に不要のダムを造ってはいけない。
豊田嘉雄著「湖底の蒼穹(そら)」を今読み返している。豊田さんの自伝的書物だが、ダムに終生反対し続けた思いが書き連ねられている。私自身一泊世話になり豊田さんからさまざまな話を聞かせていただいた「やまた旅館」を思い出しながら、そのなかに書かれている歌を敬意を込めていくつか記す。

全山の闇 占めて鳴く仏法僧
ふるさとを追われる不安誰知るや ダム計画の非情うらめし
いち早く利権行為にボス踊る ダム予定地村の現実
今にして故郷愛す啄木の 歌が身にしむダムの恐れよ
ひたむきにダム建設を阻止すべく 対策会議幾夜つづくも
 鎮魂の歌
コスモスの花ゆるるまま退院す
ふるさとが湖底に沈む少し前 花の咲く頃ぽっくり死にたい
ダムの話今日こそすまじと思いしが 湯客に聞かれまたも話せり
憤怒して自民党県議幹事長の術中に落ちし苦き思い出
気負いてはダム反対を叫びしが 今は静かに理論で迫る
敗れても敗れても幟立てかえて ダム反対の証守らん
湖底となる母校は明治年代の木造校舎に孫学び居る
ダム補償目当てにどっと八0棟 別荘とかや主見えず建つ
ダム賛否烈しく対立したる友も 老いて互いに体気づかう
ダム阻みふるさと守りとうさんと 精魂尽きて兄は逝きたり
もろもろの花咲き鳥も鳴けどれも 所詮湖底となる嗚呼ふるさとか
この世去るとき来るとも ふるさとを湖底に沈めることは許さじ
青春は兵役に埋没 後半生ダムと対決 命足らざる

私の年齢と同じ57年経ってもできないダムはいつまで経ってもできない。改めて現地の人たちの生活再建を喫緊の課題とすべきだ。

2010年10月6日水曜日

県立女子大公開授業

突然、鬼石町の岩城さんから電話があり、「女子大にいるからおいで」という。たまたま時間が空いていたので行ってみたら、馬場先生の公開授業だった。「芸術の現場から」と題し、映画監督の富樫森さんの映像から見る演出の話を聞いた。溝口健二監督作品「近松物語」、小津安二郎監督の「東京物語」の一部を上映しながらの説明は説得力があった。このような公開授業が頻繁に行われている。
 「玉村町は女子大があっていいねえ。本当にそうだよ。もっと活かしなよ」とは岩城女史の言葉。「ハイ」

2010年10月4日月曜日

検察審査会の「小沢一郎強制起訴」でいいのかなあ

検察審査会が小沢一郎「強制起訴」との結論を出した。検察審査会そのもののあり方に異議を唱えたい。裁判員制度導入時に改正されたもので、「市民感覚」が売り物の制度だが、これがくせ者なのだ。市民感覚という世の中の漠然とした空気、気分で感情的に、法や証拠に基づいた判断から離れた視点で決定される恐れが高いからだ。普段が怪しい人間にとってははじめから不利な制度だ。世論による魔女狩りになる可能性がある。本来の検察審査会はむしろ検察の不備を補完するもので抑制的だった。
裁判員裁判とともに世の中を感情的、扇情的に煽りかねない制度でとても危険だ。
小沢一郎、私とは正反対の政治手法で、政策的にも対極にいる人物だ。しかし、鬼の首でも取ったように「離党勧告」を叫ぶ枝野幹事長代理らの正義・清潔とは一面的な薄っぺらなもので中身などなにもない、この手の民主党若手連中は小沢より危険だ。尖閣列島(釣魚島)問題をとっても、憲法9条がなかったら戦争の引き金すら引きかねない危険きわまりない連中だ。中国と折り合いをつけるなら、菅政権の幹部連中より小沢の方が一枚も二枚も上だ。理念保守思想だけで政治ができるなどとゆめゆめ思うな。小沢一郎を使う場面を留保できる懐の深い政治をしなければならない。鈴木宗男しかり、後の祭りでは取り返しがつかないのだ。

2010年9月29日水曜日

日本周辺波髙しですなあ

中国と尖閣列島(釣魚島)で軋轢を起こしていると思えば、今度はロシア大統領が北方領土を訪問するという。ここで竹島(独島)で火を噴けば、もう火の海と化してしまう。政府も足もとを見透かされたものです。
逆にここまでくると、戦争にもならない。何せ敵としても認められていないのだから。
民主党政府にどれだけ、中国、ロシア、韓国と信頼の関係を持っている議員がいるのか、底が知れている。まして、拉致問題を抱える北朝鮮とのパイプは全くなし。こんな事で正常な外交ができるわけない。ロシアと言えば鈴木宗男、この人物を政治的に葬っておいて、現実外交はお寒い限り。国内向けに「国益、領土、拉致」を叫んでいれば気のすむ単純・まっすぐ、困った君議員ばかりではお先真っ暗。親分アメリカに一層強く抱きつくのだけは勘弁して欲しい。
 この辺で本物の政治を目指す機運が芽生えるはずだ。新自由主義的な相手の感情すら排して、単なる目先の利益と効率だけでは、国内政治も国際政治も立ち行かないことを自覚することから始めるしかない。真の人間外交だ。これが面白い。

2010年9月25日土曜日

玉村町第4保育園運動会・日中領土問題


1週間でこんなに気温が違うのかと誰もが感じるほど、先週の小学校運動会の暑さとうって変わり肌寒い朝だった。雨が降らなければいいがと心配したが次第に薄日が差しやがて太陽が顔を出し、また暑い昼間時となった。
 子ども達は無邪気で元気そのもの。子どもの人数に比して見物人の多さも保育園運動会の特徴、親が若いから祖父母もまだ若く見物、応援に来る。楽しい一日でした。

 子どもは無邪気だが大人の世界はそうはいかない。尖閣列島(中国名釣魚島)での事件では、前原外相は「日本には領土問題は存在しない」などと強気に船長の刑事被告人としての取り調べをしたが、対する中国はこれでもかと言うほど経済的政治的圧力をかけてきた。
日常は周辺のことなどお構いなしの政府もこんな時だけ「領土、領土」と叫ぶ。両国とも島周辺の地下資源が目当てなのだから、共存共栄の試みをするしかないだろうに。帝国主義的対立で泣きをみるのはいつも庶民だ。領土、愛国心にだまされてはならない。
しかし、中国も度を越した対応をしている。東シナ海だけでなく南シナ海でも領海を巡り、フィリピン、ベトナムでもいさかいを起こしているらしい。いつから覇権主義に路線転換したのか、こんな外交をしていたら周恩来が泣くぜ。今の中国にこそ周恩来が必要だ。日本の政治家も歴史と他国の文化とのつながりを理解する人がいない。官政権は全く駄目だ。薄っぺらな理念保守に外交などできるはずがない。石橋湛山レベルの人物が欲しい。
「戦略的互恵関係」などと平気で言い合う関係を脱しなければならない。これは互いには嫌いだが、利益のためにおつきあいしましょう、という程度のもの。
真の「互敬関係」にならなければならない。これを日中外交の基本に据えるべきだ。両国の石頭の理念保守派の言うなりになれば戦争になってしまう。やはり日本には憲法9条が必要だ。

2010年9月24日金曜日

仕事のついでに大戸の関所へ立ち寄る



突然JAあがつま坂上支店へ行く用事ができ、車を走らせたところ、大戸の関所の近くではないか、加部性も多い。加部安の酒屋もこの辺にあったのだろう。八ツ場ダムで沈む予定の川原湯温泉にも近い。曇り空だったが稲刈りをしている人もいる。黄金色の稲が気持ちを安らげる。秋だ。
 大戸の関所と関所破りをした忠治が1850年12月21日に処刑された場所へ行った。今は亡き茂木正男さんの言葉を思い出す。「忠治が大戸の関所を通らずに川原湯温泉まで行った道がだいたい分かったのでそのうち歩こうよ」その約束も果たせず、深くため息をついた。


もう一度行かなくてはならないので、今度は時間に余裕を持ち、川原湯温泉につかってこよう。政治にもてあそばれている状況の八ツ場ダム問題はなんとか本体工事ストップで終わらせたい。そこに住んでいる人たちの生活保障、再建を早くしろ。
 

2010年9月22日水曜日

玉村中学体育祭



今日は玉村中学体育祭、同時に南中学でも開催された。暑いことは暑いが秋の空のもとみんな元気に跳んだり駆けたりしていた。走りなどは小学校の運動会とは迫力が違う。この時期の体の成長の早いことを痛感する。
平日とあってか、保護者などの見物が小学校運動会と比較し極端に少ない。これらの光景は映画「チルソクの夏」を連想させる。つまり青春なんだよ。
今の教育の中で成長する子ども達が大人になり、体制順応型の単なるお利口さんにならない事を願う。行き詰まった社会に疑問をもつことは若者として大事なことのはずだが、そうなっていない現実がある。教員自身が追い込まれている状況は何とか変えていかなければと考えている。
 そして25日は保育園運動会、これがまた賑やかで楽しい。人生で一番悩みの少ない時期なのだろうか。


何、主任検事が証拠の変造していたと。とんでもないことがやっと明らかになった。みんな驚いたふりをしているが、警察や検事の「取り調べ」により、どれだけ多くの人々がえん罪に陥れられてきたか考えて見た方がいい。松本サリン事件、免田事件、足利事件、袴田事件、狭山事件にしても数えればきりがない。公安事件のほとんどはこの類と言っていい。正義を掲げて権力を民衆制圧のために行使する。これを腐敗と言わず何という。

シネマまえばしが面白い。サスペンス映画の神髄「フリッツ・ラング特集」をしている。私はもちろん、そんな監督を知らないが、「M」を見たら腰が向けるほど驚いた。ベルリンの少女連続殺人事件を捜査する警察がどうしても犯人が分からないので、暗黒社会に毎日手入れをする。暗黒社会としては、毎日、手入れがあっては博打、売春等「生業」ができなくなる。そこで暗黒世界の面々が犯人探しを始める。会議の中での猛烈なタバコの煙が笑える。やっと捕まえた犯人をボスが裁判官役を演じ、弁護人までつけての「人民裁判」はその流れが現代にもそのまま通じる議論を経る。1931年の作品という。レベルの高さに腰が抜けた。
「死刑執行人もまた死す」もすごい。反ナチレジスタンスを描いた最高傑作。
他に「暗黒街の弾痕」「恐怖省」「「マン・ハント」「ビッグ・ヒート」が上映されている。全部観れるかなあ。

2010年9月18日土曜日

午前・芝根小学校運動会 午後 「拉致問題」蓮池透講演会



16日で9月議会は終わり、21年度決算は承認されたが、町執行部に対し因縁をつけるような形での反対討論があり、それは違うでしょうと言う形で反論しておいた。2年後の町長選へ向けた動きだろう。


小学校運動会が町の5つの小学校でそれぞれ開催され、母校の芝根小学校へ来賓として参加した。まだ暑いが、1週間前の猛暑とはうって変わり、秋の気配が感じられるなかでの元気のいい運動会だった。空は青く、小学生の元気な声と勢いのいい音楽で賑やかなひとときだった。子どもの成長を楽しみにする親御さんたちが懸命にビデオを回す姿があちこちにある。秋の始まりだ。しかし、この時期の運動会は少し早すぎるのではないだろうか。これも二学期制の影響だ。

午後は前橋市内で、蓮池透さんの「拉致問題」についての講演会。家族会を除名された経緯や拉致問題解決に向けた彼の考え方を話した。「家族会が感情的になるのは理解するが、政府までが一緒になっていては問題は解決しない。北朝鮮批判をすれば国内受けする事態をつくったのはマスコミの責任でもある。今となってはなんのパイプもなくなってしまった。制裁路線からの転換、対話路線の模索はどうしても必要。過去の清算を含めた具体的な動きを堂々と提示しなければならない。」
弟薫さんとの会話も紹介しながらの話は、当事者しか知らない事なので興味深く聞くことができた。拉致問題を北朝鮮批判のための政治道具にしている政府の対応にこそ問題があることに気づくべきだ。

2010年9月13日月曜日

忠治の生きた時代の玉村町 大塚政義講演会



玉村町で3度目の講演会となった大塚政義講演会が八幡宮で開かれた。同時刻、文化センターでの橋幸夫、島倉千代子のコンサートが満員の盛況の中、対抗する形での開催となった。私にとっては5度目の話だが、先生の熱心さもあり、70人程の参加者は結構満足の様子だった。榛名由里の「忠治一代」はやはりプロは違うという圧巻さがある。なかなかいいよ。
 二足のわらじをはかず、反権力で生ききった忠治人気が、どの辺にあるのかをいろんなエピソードを交えての話は相変わらず楽しい。
 大塚先生は水戸天狗党を研究して40年、高崎藩との下仁田戦争を世に明らかにするなど水戸史学の第一人者でもある。忠治研究は15年程という。まあ、人好きで楽観的なひとですよ。「またいつでも講演にきますよ」とにこやかに言う。ありがとうございます。

 11日の大泉町でのサンバの余韻が文教委員会のメンバーにはまだあるようで、玉村町でもやりたいねえ、という声しきり。

2010年9月12日日曜日

平居照朗先生を偲ぶ会を開く


 5月に亡くなった在野の経済学者「平居先生を忍ぶ会」が鬼石町で開かれた。何せ平居さんの奥さん秀子さんと事務局の都合だけで決めた日程なので、日程調整がつかず出席できない人が多かったのは残念ではあるが、参加者はそれぞれ平居先生とのつながりを語り、資本論学習でできた人のつながりを今後も維持したいという共通の思いがあった。
 小林悟先生84才、「敗戦時、大量の日本兵をシベリアに収容し、強制労働をさせるなどした社会主義国ソ連とは一体何なのだろうかと考えていたが、〈武装せる予言者・トロツキー〉のなかでその答えは書かれていた。その本を平居先生は病床でも長女に読んでもらっていた。先生はそのことを理解していたのだろう。トロツキーの思想が今後の革命運動の鍵だ。」と鋭く語る。
 医療器関係器具の製造会社勤務の関さんは、「フィリピンにある工場の中の様子は、まるで女工哀史、時計の針を10分遅らせているのではないかと思えるほどの過酷さ。私は自分の権限で時計を5分進めている。それが資本論学習の成果かなと思う」と述べた。
 さすがひとりひとりがさまざま形で資本論の世界を実践し始めている様子がうかがわれた。女子大の馬場先生も学生時代の登山の様子を、息子さんと参加した山歩きが趣味の秀子さんと語り合うなど、短時間ではあったが非常に濃いひとときとなった。
 最後に秀子さんから、心温まるあいさつをいただき、ひとまず座を閉じた。

 夕方からは、文教常任委員会の5人のメンバーで大泉町の祭りに参加し、サンバの醍醐味を満喫した。ある委員はいう。「玉村町もだんべえ踊りじゃなくてサンバとラップで盛り上げようか」。誰も反対しなかった。

2010年9月8日水曜日

民主党代表選が過熱しているが、そんな脳天気でいいのかい

総理大臣を決める代表選だから、過熱するのは当然だろう。
しかし、どちらにしても展望のない政権とならざるをえない。「資本主義は行き着いてしまった」なかですべてのことは起きている。
 国鉄分割民営化から25年、何が起きているか。「日本航空の再建」の次に来るのは、JR北海道、九州、四国、貨物会社へのテコ入れだ。これらの会社は経営が成り立たないところまで追い込まれてしまった現実がある。国民の足を分割民営化したことで、地域による経営内容の格差が結局、弱いところからつぶれていくという事態を生み出した。利益の上がっている東日本会社が手助けするという発想が出てこない。国民の足を守ると言うところでの支え合いができない体質になってしまったのだ。。
 今度は道州制なるものを導入すれば、結局、国鉄と同じ道を歩むことになる。今言う無縁社会が拡散し、社会は崩壊する。

「資本主義は行き着いてしまった」とは、昨日、一般質問に答えた町長の言葉だが、ああ、そこまで気づいているのか、と思った。

菅も小沢も道州制推進論者、究極の民営化としてすべての労働者を非正規職に置き換えた行政に何を想像できるか。失礼だがコンビニ勤務感覚での対応では、たまりません。

行き着いた資本主義の後にどんな社会を求めるのか、今はそれを考え、実践することだろう。それにしても、ソ連スターリン主義の過ちは大きい。社会主義という言葉が言い出せないほど人々に悪い影響を与えている。

2010年9月6日月曜日

姿勢を正して,中国物産館を久しぶりに訪ねる

明日から9月議会が始まるので、気持ちを落ち着けるためにもと、久しぶりに新町の中国物産館に坂本敬四郎さんを訪ねた。仕事の手を休めていただき、扇風機にあたり、快痩茶をごちそうになりながら、1時間ほど話をした。何せ中国の長ーく濃いエキスをそのまま全身に取り込んでいる人なので、内容は深いものがある。対米関係から対中関係、東洋における日本の位置など、さまざまな観点から繰り広げる内容には、一夜漬けの政治論ではとても太刀打ちできない。
 昨年暮れ、小沢一郎が大訪中団を組織した事を、そのとき知っていれば、「1万人規模の訪中団を提言したのに」と悔やんでいた。「民主党代表戦は小沢一郎でいきましょう。2年くらい総理大臣をしてもらって日本の政治をぶんまわした方がいい。政治の仕組みを変えられるのは小沢です。力ある政治家には金は集まるもの、世論、マスコミの偏った批判はおかしい」とのこと。さすが腹が据わっていらっしゃる坂本先生です。


 事務所に帰ると、逆に「菅さんに変えました。小沢さんでは駄目です」というメールも届く。これも熱い思いで語っているのだ。自宅には、一新会会長平野貞夫からの小沢推薦の文書類が届く。どちらも熱くなってるねえ。
 投票権を持たない連合群馬の知り合いが、「菅なんてなにもできない。小沢しかいない。投票用紙が来たら、俺が小沢と書くから持ってきて」という熱い奴もいる。
 回りの雰囲気は、最初は菅の声が断然多かったが、余りにもつまらない内容なので、ゴジラ小沢に期待すると変わってきているのではないか。普天間基地の辺野古移転を小沢なら転換できるのではないか、アメリカにモノを言えるのではないか、裁判員制度に異議申立するのではないかと、リスクを承知で小沢支持が増えてきているような気がする。現状突破力でいえばそれは小沢だ。

 しかし、不肖石川、党籍があっても投票用紙がこないという妙な状況の我が身とあってはいかんともしがたい。どちらがなっても混乱は動乱に発展するとみる。自民党を使った政治支配が終わり、変わった民主党政権も財政破綻を前にあえぐ姿しか見えない。政界再編への一里塚と読んだほうがいいでしょう。政治を民の手に。

2010年9月4日土曜日

玉村町小中学生 夏季研修報告会

4日午後2時から文化センター小ホールで「小中学生夏季研修報告会」が開かれた。今年から始まった広島体験研修は8月6日の広島平和記念式典に参加することを主な課題とし、原爆の実体験を語り部の高齢者から実際に聞くなどし、玉村町に住んでいてはわからない原爆の実感を参加者は感じたらしい。戦争のむごさを小さいときに知ることは大切なことと思う。引率の二人の先生方にとっても初めての生徒達を連れての研修だが、かなりの収穫があったのではないだろうか。
 未来に平和をつなぐため、このような企画は継続していけるよう町にもお願いしたい。

また、玉村中学3年生女生徒の須藤さんの「少年の主張」は内容といい、話し方といい、聞く人を圧倒する迫力で、こんな生徒がいるのかと、感心させられた。

中学生海外派遣団のエレンズバーグでの様子も楽しく報告された。


夕方5時半からは前橋市内で連合群馬結成20周年記念レセプションが行われ、大澤知事も出席し、大勢参加のなかにぎやかな催しとなった。連合は労使協調路線でこの間歩んできた。今日、民主党政権の与党労働組合ともいえるなかで、逆に相当なジレンマを抱えてしまったことは間違いない。「国民の生活が第一」とはなっていない現実をいかに突破し、格差なき社会を作り出すかが今後の課題だ。

そして、民主党代表選挙の真っ最中、菅か小沢かの真剣勝負だが、世間はしらけてるよ。菅はまだ3ヶ月しか経っていないのだから、もう少し様子を見た方がいい、と言う声はたくさん聞く。小沢はとにかくあらゆる意味で危ないから駄目だ。しかし、前原、野田グループの保守路線を唯々諾々と進めているだけでは、NO WE 菅だ.

2010年9月1日水曜日

ビルマ ビデオジャーナリスト

「あなたの持っている自由を持たない人のために用いてください。」ーアゥンサンスーチーー
誰もが覚えているだろう。軍政の敷かれているビルマで巨万の僧侶と大衆がデモを繰り広げた2007年のデモの様子を。そして日本人ジャーナリスト長井健司さんが射殺された瞬間を。
軍によるカメラを持つ人に対しての弾圧は苛烈を極める。そこでは意を決した人たちが連携してハンデイカメラやビデオで身の危険を賭して秘密に撮影し、密かに国外に持ち出され、無償で国際的なメデイアに送信され、私たちの目に届く。その記録の集大成がこの映画といえる。
 厳しい弾圧下、不屈に闘うビルマの人々に連帯する事が求められる。それが「あなたの持っている自由を持たない人のために用いてください」だ。
 この映画を観て森達也は彼らに言う。「死ぬな」と。10日までシネマテーク高崎で。


26日夜は、密照政彦飯倉区長の呼びかけで、飯倉在住の新井健司さん(勢多農林高校教諭)の報告講演会が開かれた。彼は2年間、青年海外協力隊の一員としてアフリカのマラウイで主に農業、灌漑、測量指導などの実習を指導してきた。その体験話が中心だったが、話は実に面白かった。アフリカの暮らしぶりが紹介されたが、新井さん自身の感じたままの話なので、余計な尾ひれもなく逆にわかりやすい。

1.日本の良いところとして、時間を守る、礼儀正しい、あいさつができ計画的なところ。悪いところとして、働き過ぎ、ゆとりがない、人間関係で疲れることが多い、細かすぎる。

2.物がそろい過ぎていると、子育て、教育、大人が生きるうえでも便利さはあるもののかえって大変と感じる。アフリカのマラウイでは学校がない、当然、机、椅子が無いのナイナイ尽くしだったが、一番大切なもの、学ぶことに感謝する、聞く態度、姿勢はすばらしかった。
という。

こういうタフでラフでしかも繊細な教師が求められていると思う。教育指導要領にがんじがらめになって目先しか見えない教員が山ほどいるのが現状ではないのか。教師こそ外へ飛び出し感性を豊かにして欲しい。

2010年8月29日日曜日

袴田事件をもとに創られた「BOX」 髙橋伴明監督

政権交代の成果が見られないとよく言われる。そうはいってもまだ1年だから長い目で見ようよ、と言う人もいる。
しかし、えん罪に関して言えば、その再審は喫緊の課題だし、代用監獄に象徴される明治時代の遺物になにも手をつけられない新政権ていかがなものでしょう。弾圧を欲しいままにしていた権力側が青くなるような改革をすることを政権交代の中にに求めている人はたくさんいるのに、自民党政権と全く変わらないのではどうにもならない。

袴田事件で描かれているものは、代用監獄での過酷な拷問ともいえる取り調べの中で、「とにかく自供しろ、裁判で争えばいいんだから」と強制された自白でさえ、いざ裁判になれば、その自白の任意性を裁判所が否定することはほとんどない。1年後に不自然に発見された下着類を事件の証拠にさえして、当初の検察側の主張との齟齬すら見逃し死刑判決を下す。裁判を人生の出世の道具にしている裁判官が多くいる中で、良心と正義を貫こうとしている裁判官を描いた作品。

裁判員裁判で死刑判決さえ予想される今日、改めて裁判員制度の是非を考えるためにも必見の作品。
シネマテーク高崎で9月3日まで。

2010年8月25日水曜日

死んどるヒマはない 益永スミコ 86才

平和のためなら、憲法を守るためなら、党派なんていう小さな世界など縦横無尽に飛び越えて、今も闘い続ける益永さんのドキュメンタリー映画ができた。今年3月ビデオプレスで制作されたもので、今日初めて観た。とにかく反戦平和のためには「死んどるヒマはない」という女性だ。知り合ってから10年以上だが、その動きの良さには頭が下がる一方だ。私の後援会ニュースにも記事を書いていただいたこともある。
今年の暑い夏も署名活動等をしているという。群馬でこの秋にでも元気な益永さんに会えることを楽しみにしている。とにかくまっすぐ、正しい事をひたすらまっすぐ、明るく貫徹する人はそうはいない。

この作品を井筒和幸監督が観たいと言っていたので、土田君を通じて明日にでも送るつもりだ。5年ほど前、パッチギ上映会を玉村町で行い、その打ち上げの席上に、益永スミコさんは来ていて、「片岡死刑囚と養子縁組をした人」ということ知り、監督は特に強い印象を持っていた。井筒監督の直感として益永さんのことを「信じられる人」と思えたのだと思う。

2010年8月24日火曜日

群馬朝鮮学校の生徒のブルーベリー摘み


かねてから計画していた群馬朝鮮学校の生徒たちのブルーベリー摘みが23日に安中市内のブルーベリー畑で猛暑の中行われた。11時頃からの1時間半程度だったが、地元の人々の協力も得て、子ども達は甘さも増したブルーベリーを摘みながら食べていた。子ども達は暑さを吹き飛ばすほどみんな元気だ。この数年間、いちご狩り、ミカン狩りをしてきたが今年はブルーベリー、在日の子ども達が日本の人々と交流し元気に育ってくれることを期待する。子育ては社会の責任だ。

ドキュメンタリー映画「弁護士・布施辰治」の上映会の知らせが届いた。
1.10月2日(土)午後6時半から高崎市総合福祉会館2階 たまごホール、
2.10月9日(土)午後2時から群馬県総合公社ビル(前橋市大渡町)
「生きべくんば民衆と共に、死すべくんば民衆のために」と題し、朝鮮を植民地にした時代、差別、抑圧された朝鮮人民のために弁護活動を行った布施辰治の人生を描いた映画だ。韓国併合から100年目の今年、政府が情けない「韓国に向けた談話」しか発表できない状況下、渾身の力を込めて世に問える作品だ。是非必見の事。

2010年8月22日日曜日

吉井町・星空の上映会

 昨夜、吉井町鏑川ほとりでの「星空上映会」に行き、山田洋次監督「おとうと」を観た。吉永小百合と鶴瓶のコンビはいいね。どこにもある家族の姿を社会の有り様の中で描いている作品で、視点もいいと思うけど、国際映画祭だと、なかなかなんだよね。若松監督のキャタピラーは強烈に訴えているところが国際映画祭では受けるのだろうか。映画評論は難しい。観る人の感性もそれぞれ違うのだから、それぞれが勝手に評論すればいい。

 野外上映なので、どんな感じかと思ったが、鏑川の川原にトラックを持ち込み大きなスクリーンを張り、土手上から映写するという方法。300人程の観客は土手に座って、本当に星空の中での映画鑑賞、栗原君の虫よけ対策の効もあり無傷ですんだ。時々の涼風が気持ちよかった。
 この鏑川は太平洋戦争のとき、吉井町で唯一、米軍機の銃撃を受けたところ、川で遊ぶ子ども達が機銃掃射を受けた場所を選んでの上映会場。「戦争は破壊と悲惨をつくるだけで何も生み出さない。平和の大切さを伝えたい」との思いで1995年から上映運動を行っている「よしい星空の映画祭」。こだわっている人達の運動は強い。

2010年8月19日木曜日

興味深い玉村八幡宮の絵馬展  会場 玉村町文化センター

玉村町文化センターで8月28日まで開催されている玉村八幡宮の絵馬展へ行った。2度目だ。時間をとりゆっくり鑑賞した。特に「張良図」はいい。説明文を読み進むと、絵の内容が理解できる。張良は漢の三傑といわれる政治家で、周の軍師黄石公との出会いを画いた絵馬だ。
他に興味をそそったのは2枚の神功皇后と幼い応神天皇を抱く武内宿禰図。神功皇后は第14代仲哀天皇の皇后で、新羅遠征を行い、その途中で懐妊、帰国後、応神天皇を産んだとされている。その遠征のなかで仲哀天皇は死んだ。仲哀の死が2月6日で、応神の誕生が12月14日だから、ぎりぎり[10月10日]のなかに収まるから仲哀天皇の子だという言い分らしいが、父親はもっぱら武内宿禰と言うのが通説という。絵馬を奉じた江戸の時代もそうだったことがうかがえる絵馬なので大変興味深かった。
これでは万世一系はとぎれてしまう。武烈天皇のときもその代で実はとぎれた。次の継体天皇は明らかに一系の人ではない。その辺に感心を持ち、関裕二著「継体天皇の謎」を読み進めている。
また、「韓信股くぐり図」もいい。中国の名将韓信が若いとき、町の乱暴者に自分を刺すか、できなければ股をくぐれと挑発されたとき、黙ってその者の股をくぐる辱めをあえて受けた。後に大成したことから、大志を抱く者は目の前の苦労や屈辱に耐えなければならないという教えだという。
 当時も中国からの様々な教えを日本の大衆文化は受け入れていたことを示すものだ。この他にも「羅生門図」「義経弓流し図」田口7兄弟から奉納された「流鏑馬図」などたくさんの絵馬が展示されている。

2010年8月17日火曜日

突然の井筒監督の訪問にも的確に対応する


盆送りも済ませた頃、五料産業の土田社長から「これから井筒監督が来るので時間があったら顔を出して」という電話があった。猛暑でバテ気味だったのでビールを飲んで寝ようかと思っていたが、監督が来るなら話し相手も必要だろうと、夜道を自転車でホルモン屋に行くと、すでに土田夫妻、シネマテークの志尾支配人、小林さん、新婚の田中島さんの娘さん夫妻もいて、監督のひとり語りで盛り上がっていた。
 都会にいると、玉村町がのどかでいいのだそうだ。気楽な関係の土田文月もいるし、焼き肉を食べながら気楽な仲間でさまざまな語りをするのが清涼剤なのだろう。
 政治的臭覚は鋭く権威に対しては「そんなものなんぼのものよ」と反発力は相当なもの。次の映画は部落差別を描くことにより日本社会を暴き出したいとのこと。
まあ、とかく映画監督は個性的というか強烈のキャラの人が多い。物事の本質を暴こうとすると一般受けしないことを恐れず映像化する。若松孝二監督にしてもそうだ。閉塞感一杯の時代、何を言われても自己主張を貫徹する人が必要だ。井筒和幸監督もその一人だろう。
「連帯を求めて孤立を恐れず,力及ばずして倒れることを辞さないが、力尽くさずして挫けることを拒否する。」

2010年8月16日月曜日

本当に戦争に反対するってどういうこと

8月15日になると、マスコミは戦争の特集を組み、戦争の悲惨さを訴え、誰もが「二度と戦争は嫌だ」というが、国内の米軍基地は強化される一方で、危険な普天間基地撤去も進まない。それどころか民主党政権までが辺野古移設を飲んでしまった。「平和のための軍備、核の傘に基づく平和」ということだが、これは本当のところで戦争を前提にしている話だ。一歩間違えば戦争になることを前提としている。情緒的な戦争に対する嫌悪感だけでは戦争に反対しきれないだろう。
 戦争は何故起きる、誰が起こす。その辺を押さえておく必要がある。
1929年の大恐慌に際し、アメリカを救ったのは、ニューデイール政策ではなく、戦争だということが本当のところ。需要を無視した莫大な過剰生産が大恐慌の原因で、戦争により過剰の生産物を破壊し、荒野の大地で再生産を始める。朝鮮戦争の特需で日本は戦後復興に弾みをつけた。自国での戦争は困るけど、他国の戦争なら儲かるのだ。資本主義社会において、戦争を起こしてくるのは大資本、財界で、政治家ですらその使い走りにすぎない。ブルジョワジーにとり問題なのは、人間の命ではなく、いかに資本主義システムを維持するかなのだ。この辺から戦争を考えていけば新たな展開が考えられるだろう。

2010年8月14日土曜日

平居宅へ新盆見舞い


5月に亡くなった平居先生宅へ新盆見舞いに行った。同行の84才の小林悟さんは「これからは間違いなくトロツキーの理論が再評価される。」と強調する。その勉強会をしないかと呼びかけられたが、これは疲れるねえ。
若松孝二監督といい小林悟先生といい、やたらと思いの強い高齢者が目立つ。「人生の残り時間が少ないから叫ぶんだ」という「あきらめのわるさ、往生際のわるさ」は絶対必要と思うけどね。
岩城さんは早速、シネマテーク高崎で「キャタピラー」を観たそうだ。客入りは満席、寺島しのぶはすごい女優だと絶賛していた。
そんな話を平居宅でしながら、9月11日に「平居照朗先生をしのぶ会」を開くことを決めた。


同級生の掛川からは、12日に御巣鷹山へ慰霊登山したというメールが届くなど、それぞれの夏を過ごしている。

そうこうしているうち、自宅に帰った小林先生から「車の中に俺の携帯なかったかい」という電話がある。完璧な人はいないよ。お持ちします。ということで、結構、騒々しい半日だった。

今年の早滝は滝壺に何本も木の枝が落ちていて中に入れる状態ではないが、とにかく空気が冷たくしまっていて心地よかった。どんなときでも一人の時間は確保します。

2010年8月12日木曜日

忘れるな、これが戦争だ。この夏必見 「キャタピラー」


14日から公開される予定の「キャタピラー」の先行上映がシネマテーク高崎で若松孝二監督と俳優の大西信満さんを招き行われた。土田君と観たが満席の状況、さすがベルリン映画祭銀熊賞受賞作品の人気は高い。

国を挙げての戦争は社会を戦争一色にする。またそうしなければ戦争は遂行できない。徴兵があれば、お国のため、と喜んで出て行かなければならない。この映画で両手両足を失って送り返されてきた夫は「軍神」と持ち上げられ、しかし、妻は言ってみればその後の介護が銃後の尊い仕事となる。腹をくくった寺島しのぶはやはりすごい。並の女優じゃない。
若松監督の反戦への強い思いがこの映画となった。国際社会で高く評価されるこの映画が日本でどれだけ支持を得られるか大いに感心がある。

 舞台あいさつでも、私が「重信メイの「秘密」という本の中で成田空港まで迎えに来たのは若松監督とあったが」と話し出したら、「いやレバノンまで迎えに行ったよ」といきなり話はパレスチナに飛んでしまうし、「菅政権の韓国併合に関する談話は不十分」と言い出せば、北朝鮮国内のよど号事件の赤軍派の話になるし、とにかく帝国主義と戦争への怒りは並大抵なものじゃない。「普天間基地は閉鎖しかない。どうしても造るなら東京湾、国会も皇居もあるし、人も多いから基地で守ってもらえばいい」と明快発言。
「この映画、若い人にも観て欲しい。」15才未満への規制など気にもしないところはさすが若松監督、フトイ。
サイン会場で大西さんに「連合赤軍」では誰の役をやっていたのか聞くと、板東国男という。「坂東さんはどうしてますかね」「パレスチナへ探しに行ったけど見つからないんだよ」と若松監督、すでにパレスチナには17回ほど行っているという。
いつまでも燃えている若松孝二監督に乾杯。

 話は変わるが、こちらは我欲で燃え尽きた81才浜田幸一先生、とうとうお縄ちょうだい。ラスベガスへ何度行ったか知らないが、絶対パレスチナへは行かない。モンゴルでの金の採掘には、他人をだましてもカネをつぎ込むが、朝鮮は見下し見向きもしない。彼が国会議員当時、自民党の内紛に際し国会内でバリケードをつくり、イスを振り上げ、カメラに向かってヒーローよろしくまくし立てた。「子ども達の未来のために自民党があることを忘れるな」。勘弁してよハマコーさん、聞いてる方がひっくり返る。
あのとき「愛国心はならず者の最後の拠り所」という言葉を思い出したが、こんな手合いがこの娑婆には大勢さんいるからたまらない。声だけは大きいのが特徴で周囲を威嚇しながら生息している。
それから森元首相の息子さん、酒が切れたらキャタピラー観て立派に更生してください。
 断然、鎖国派より国際派だよ。

2010年8月11日水曜日

韓国併合から100年の今年の政府談話

菅直人首相は韓国に対し、韓国併合から100目の今年、談話を発表した。政府の公式見解を述べることは、当然のことではあるが、内容に関しては相当腰の引けたものになっていた。武力により朝鮮政府を組み伏せ併合し、その後、内鮮一体として太平洋戦争まで過酷な強制と動員を繰り返していった事実はそう単純なものではない。
日本国内に今何故50万人に及ぶ在日コリアンが存在するのか。原点は日韓併合にある。その在日コリアンへの対応はまるで、朝鮮侵略を反省しているとは思えない。未来志向というなら在日コリアンへの正当な待遇をしたらどうなのか。ここから始めるべきだ。彼らとの信頼関係を築けずして日韓、日朝関係の未来はない。談話を韓国だけに発するという対応も情けない。朝鮮半島を植民地支配したのだから当然、現在国交がなかろうが北朝鮮へも向けて発するのが筋であり、それこそ未来志向だろう。
 当時、朝鮮から奪い、くすめてきた多量の文物を小出しに「返す」、それも返すという言葉を使わず「渡す」などといって大衆の目をごまかそうという政治はいけません。そのことに反発しない韓国政府もかなりどうかしている。

2010年8月9日月曜日

第16回アジア映画祭を観る

藤岡市で毎年この時期に開かれているアジア映画祭で全作品「長江に生きる」「ムクシン」「シルク」を観た。地元箱石の夏祭りも7日に終わり、じっくり過ごせた一日だった。どの作品も優れていて、世界のさまざまな地域での人の営みや苦悩を表現している。新井藤岡市長や小林日出幸さん、同級生とも顔を合わせた。こういう映画だけの一日があってもいいかな。

2010年8月5日木曜日

それぞれの思いと形でこの真夏に学ぶ

とにかく暑すぎる毎日だ。そんななか議会運営委員会は5日、6日と滋賀県大津市へ議会運営の研修視察に出かけた。自立した町の本格的議会運営の深化のため大いに勉強して欲しい。宇津木議長、嶋田議員と昨日、「にしきの園納涼祭」で一緒したとき、この研修への意欲を語っていた。
 
10日は経済委員会、総務委員会が所管事務調査を予定している。それぞれの委員会、それぞれの議員の活動は暑い夏も続いている。

玉村町は平和教育の一環として、昨年(インフルエンザのため中止)から各小・中学校2名の生徒計14人が6日に行われる広島での平和記念式典に参加することなどを制度化した。2人の教員が付きそう形での実質今年が初めての企画だが、今頃は現地に到着し、くつろいでいるだろうか、緊張しているだろうか。
何しろ、今年は世界から、特にアメリカからも代表が参加する。「核廃絶を言うなら、ヒロシマに来い」ということ。秋葉広島市長も「非核三原則の法制化」を明日のあいさつでは訴えるそうだし、若い生徒達には、大きな平和への夢と希望を抱くきっかけになればと思っている。

2010年7月29日木曜日

連合群馬議員墾談会の勉強会


毎年恒例の連合群馬議員墾談会の学習会が昨日伊香保で開催された。参院選も終わって間もないこともあり、さまざまな表情の見慣れた議員が集合した。隣は山田高崎市議、その隣は角倉県議ときたら、話は弾んでしまう。来年の選挙に向けての戦略づくりで忙しそうだ。

講演は「公契約」に関し、神奈川県地方自治研究センター事務局長の勝島行正さん、「個を大切にする介護について」社会福祉法人新生会理事長の原慶子さんが話した。

公契約は、自治体が関係して外部の人(法人)と契約を結ぶ際、その契約の先で仕事をする人のこと(待遇)を考えての内容にしなさい、というもの。新自由主義政策の広がりのなかで、労働者の待遇が極めて劣悪な状況に置かれていることに着目したもので、今後このような姿勢の条例をつくる自治体が増えることが望まれる。単なる競争入札で「安かろう・悪かろう」の公共仕事が増えているようにも聞く。社会全般が安売り競争をしているようでは、みんな疲れるだけで、社会の本来の力が衰退してしまう。新自由主義の過ちを意識している内容の深い講演だった。
 そして、原慶子さん、旧榛名町にある新生会理事長だが、私はこれまで知らなかった。介護、福祉だけでなく、思想、哲学、政治等に関しても信念を持った人だ。困難な状況を正面突破する力は相当な自信と経験がなければできない。弱者に対する姿勢がいい。後藤かつみ県議の声掛けもあり、「福祉実践と平和の思想」という原さんの書いた本を買い込み早速読みはじめた。例えば、いわゆる拉致問題に関しての考え方にも同調できる。こういう人が地域で福祉の実践をしていることは力強い限りだ。

2010年7月25日日曜日

企画「ブルーベリー摘み」



群馬朝鮮学校の生徒さんにブルーベリー摘み体験をしてもらう企画の一環として、安中市内にあるブルーベリー畑を訪ねた。李和雨さんと学校側から金先生が参加し、前日この話を聞いた土田、栗原両君が友情参加。
この時期、どこへ行っても暑いことこのうえない。手入れのされた畑に入って、その場で食べながらのブルーベリー摘みは、格別のものがある。お盆までがピークだそうなので、子ども達の夏休みとの兼ね合いはどうかと思うが、実現することを楽しみにしたい。
 ここでは月に一度、参加者によるマーケットもしていて、昨日は、「南京玉すだれ」の実演もあり、なかなか盛況だった。地元の若い主婦層が主体のようで、地力を感じさせた。

 5時からは「玉村ふるさと祭り」初日のパレード、猛暑の仲、総勢19名、甲冑武者の出で立ちで参加、その後、小泉地区の夏祭りに顔を出し、地域の人たちとビールを飲みながらの四方山話。夕立の気配を敏感に感じ取り、自転車で家に着くと同時に大雨と雷の襲来、間一髪で間に合ったが、祭りは後の祭りになったろう。

 それにしても極端な猛暑の連続と何日かごとの夕立と大雨、どちらもこれまでの気候バランスとは明らかに違う。猛暑の連続で一方に振れきった時、雷と大雨で振れきった振り子を元に戻すような際だった天候バランスになってしまったのか。
 極端な過剰生産状況を大恐慌と戦争により調整、平準化させる資本主義社会のようになっては困る。

2010年7月23日金曜日

元死刑囚金賢姫を国賓級で遇し家族会を慰めるお気楽な政府

 あきれた話はいくつもあるが、これまたマンガのような事をする政府には、絶句しかない。
金賢姫はすでに終わった人で、彼女が拉致事件に関し、何も知らない事は周知の事実、その彼女を国賓級で招いて、「めぐみさんはきっと生きていますよ」と言わせ、家族会の人を慰める為だけに、膨大な税金を使い、果ては、遊覧飛行までプレゼントする中井と政府はどこまで腐り果てているのかと思わざるを得ない。
こんな猿芝居にも劣るイベントにはさすがの家族会も辟易だろう。全く国際社会の笑いものだ。

 北朝鮮に経済制裁ばかりしているので、外交関係は途絶した結果、こんな茶番にもならないことになってしまった。民主党政府も自民党政府と駄目さ加減の競争している場合じゃないだろう。
 特に、北朝鮮に関しては、多くの人が感情的になることに注目する必要がある。突き詰めると、言われなき差別ではなく、むしろ、「意識したくない自覚」のようなものがあることに気づく。その後ろめたさが逆に「果てしない差別」となり群集心理の中でいっそう増幅され、政治もその流れをあおるように運動していく。

 何回でも言うが、この問題を本気で解決しようと思えば、今の環境を変えなければならない。今年は「日韓併合から100年」という節目の年だ。少なくともその前後からの日本と朝鮮の歴史を少しぐらい知っておかないと対応は出来ない。植民地政策で朝鮮人をどのように扱ったのか。内鮮一体とし、言葉、名前、宗教(神道)まで強制していった。日本兵として、太平洋戦争に動員されていった。日本兵として特攻隊員になり死んでいった朝鮮人もいる。
日本人は加害者と言うことをまず一次的に自覚すべきだ。
1923年の関東大震災に際し、「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」とデマを流され数千人の朝鮮人が日本人により虐殺されたことに関し、日本政府はどれほどの真相解明をし、責任を取ったというのか。

 数年前、家族会の横田さんが韓国へ行き、拉致問題の解決の協力を求めたとき、当時ウリ党の国会議員の一人は返事を書いた。「朝鮮半島のたくさんのめぐみさんを返して」という内容だった。植民地支配の中、どれほどの朝鮮人が日本に拉致・連行されたか想像する力を持って欲しい。相手の立場になれなくて交渉などできるわけがない。

 悪意としか思えない対応ばかりしている今の状況で、事態が解決に向くはずがない。歴史に学べ。それしかない。秀吉の朝鮮侵略の後、江戸幕府は戦後処理使節として朝鮮通信使を受け入れた。江戸時代には12回の通信使が日本と朝鮮の文化、学問そして人間同士の交流に大きく寄与した歴史的事実をもっと知るべきだ。100年前は険悪な関係だったが、150年前は本当の信頼関係と国交を持っていた二つの国だ。

懸案事項を解決するための本気さが問われている。問われているのは、我々日本人とその政府だ。高校授業料の無料化に際し、朝鮮学校だけ排除するなどという姑息な事は即やめるべきだ。

2010年7月20日火曜日

14年ぶりの一茶は暑い夏




 小林一茶は、その不遇さもありとても気になる存在だ。3度ほど訪ねているが、最後に訪ねたのは、私の父親が闘病中だったが、家族旅行もできた14年程前のこと。家族で妙高高原へ行く途中だった。今のような立派な記念館ではなかった。行く季節はなぜかいつも夏。一茶記念館には、柏原町の一茶にかける強い思いを感じさせる展示品の数々がある。
 ナウマン象の模型を見て野尻湖を一周し、信濃町駅近くのそば屋で信州そばを食べ、小布施町でお茶を飲み、連休最終日の渋滞を避けるため、少し早めに高速を降り、吉井町のうまいとんかつの店で下山祝いをし、完璧な一日だった。20年前は、毎週、新潟の海に行き、良寛さんにまつわる地を訪ねていたが、海に行って泳ぐ気力がなくなった。やはり年かねえ。
 
 
   木々おのおの 名乗り出たる 木の芽かな
         (希望も意欲も感じさせる一茶27才の作)

 弥太郎(一茶)は父・弥五兵衛の後妻さつとの関係が悪化したため、父により江戸に奉公に出された。江戸で誹諧師として身を立てようとしたが、そう簡単なことではない。
40才近くなって久しぶりに実家へ帰った一茶に、年老いた弥五兵衛は、「財産二つ分け」の遺言状を一茶の弟・仙六、義母さつの反対を押し切って書き「大事にしまっておけ」と一茶に託した。田畑を大きくしたのは父の働きだけでなく、弟や義母に負うところも多いことを知っていた一茶は、遠慮をしていたが、長男である一茶を江戸に出さざるを得なかった父は、まだ独り者で生活も不安定な一茶に対し強い贖罪の気持ちから遺言状を書いたのだった。
父の死後、江戸での生活に見切りをつけた一茶は苦しさもあり実家に帰り、遺言状のとおりの財産分けを主張する。しかし、誰もがそれは無理という。本家の弥市の努力や村役人立ち会いの上での話し合いもつかないなか、名主の嘉右エ門を呼んだがこれでも話がつかない。最後に遺言状を手に一歩も退かない一茶と集まった者達に、「遺言状というものは重いもの、出るところへ出ればこれがものをいう」と嘉右エ門は裁定を下した。
具体的な財産分けでも大もめし、菩提寺明専寺の住職に入ってもらわねばならなかった。

古里やよるも障るも茨の花
(古里に帰り、親戚一同と一悶着して割り込んでいかねばならない状況の時作った歌)

そして一茶52才の時28才の菊と結婚、歌仲間の德左エ門が「江戸帰りの宗匠で、いまにこのあたり一帯に一茶社中をたてる人だ」といって口説いてくれた。
長男・千太郎、長女・さと、二男・石太郎、三男・金三郎と次々子どもが生まれた。
妻を持ち子どもをもっていい句も生まれた。

あの月を とってくれろと 泣く子哉 (作51才)

短夜や くねり盛りの 女郎花 (作51才)
(何とも色っぽい歌だ)

我と来て 遊ぶや 親のない雀 (作52才)

ふしぎ也 生まれた家で 今日の月(作54才)

這へ笑へ 二つになるぞ 今朝からは (作56才)

目出度さも ちう位也 おらが春 (作57才)

雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る (作57才)

あるとき夫婦喧嘩で傷ついた菊はとうとう実家に帰ってしまった。数日後の日暮れ、人恋しくなった一茶は、柏原から野尻に向けて歩いていた。女房の尻を追っかけるようにしてこんなところまで来てしまった自分に腹が立ったが、今夜も帰らない菊にも腹が立った。そんなとき街道をこちらに近づく足音がする。「おとうさん、迎えに来てくれたかね」。菊と分かった一茶は不意に目が潤んだ。「仲ようせんとな」。
その夜、一茶は「お前は菩薩さまじゃ」と言って、ひとつ床の菊を抱いた。「私が観音さまじゃ、なぜ悪口言って泣かせた?ん?」。夜の深まりのなか、54才の男と30才の女がまるで20代の男女のように騒々しく睦み合った。
翌朝、机の句帳を取り出し、昨日8月8日の項を書いた。「晴、夕方一雨。雲竜寺葬。菊女帰」と書いた。しばらく考えた後、「夜五交合」と書き足した。
この4文字を追加したために、一茶は後世で「荒淫」とも「好き者」とも言われる。4回やろうが5回やろうが、それはたいしたもんだとは確かに思うが、一茶と菊にとり、肉体的にも感情的にもそれだけの回数をこなす舞台が整っていたということだろう。それに尽きる。
しかし、足を悪くし、杖を使わずに歩くのに苦労していた一茶に不幸は襲いかかる。
生まれた子どもが、いずれも幼くして亡くなり、菊も37才の若さで亡くなる。

ともかくも あなた任せの 年の暮れ (作57才)

木枯らしや 廿四文の 遊女小屋 (作57才)

春立つや 二軒つなぎの 片住居 (作58才)

やれ打つな はえが手をする 足をする (作59才)

(どの歌もやたらとしんみりさせたり、小さなものを見たりと一茶の置かれた悲観と貧困の状況を現している。)

一茶62才で、雪という女性と再婚するも、酒を飲み過ぎ寝小便をするなどし、ふた月あまりで離縁。
雪が去った1ケ月ほどした頃、一茶は二番中気をわずらい言葉も不自由になった。門人の家から家へ転々と手渡され12月になり柏原の自宅に戻った。面倒を見てくれる人はいない。

寒空の どこでとしよる 旅乞食(作62才)

そして最後の結婚相手は雪が去ってから2年後、自分の身の始末も満足にできない一茶に嫁いだやをは32才。柏原の小升屋に乳母となって雇われていたが、柏原で一番の大地主中村徳左衛門の三男との間にできた2才になる倉吉を連れてきた。一茶はやをの素性に菊を重ね合わせた。
やをは年寄りの一茶に愛情を持ち、家のことも一茶の面倒もみた。一茶はそのやをに身ごもらせ65才で死んだ。(54才での回数よりこの方が驚きだ。)
枕元では、やをは一茶の手を握りながら泣き、義母さつも看取った。翌年生まれた娘・やたは46才まで生きる。


山寺は碁の秋 里は麦の秋 (作63才)

花の影 寝まじ 未来が恐ろしき(作65才)

「わしを誰もほめてはくれなんだ。信濃の百姓の句だという。わしやの、やを、森羅万象みたいな句にしてやった。月だの、花だのと言わん。馬から虱、そこらを走り回っているガキめらまで、みんな句に詠んでやった。ざっと1万、いや2万句じゃぞ。そんなに沢山に句を吐いた人はおるまい」「えらいもんだねえ、じいちゃん」}{一茶・藤沢周平}

映画「川の底からこんにちは」で主人公が「どうせ私は中の下よ」と叫び、「サイタマノラッパー」も「中の下」の世界だ。一茶自身、「中の下」?
なによりその時代はほとんどの人々は貧しかった。一茶に感心があると言うことは、一茶と周辺の人々、その時代を生きた人々に思いを寄せること。そして最後に解ることは、中も上も下もありゃしないということ。
誰もが時間の同じ刻みのなかで、一度の人生をそれぞれ生きているというだけのこと。
「中の下 それがどうした それでどうした」

2010年7月17日土曜日

芝根地区区長と議員の懇親会



芝根地区の区長と議員の懇親会が川井の天狗で開かれた。区長8人、議員4人の12人で年に一度のペースで開かれている。酒も入っているので、かえって深い話ができる。区長は1年代わりのところが多いので継続性という点では弱い感じがする。地区の代表ということを考えると、現在の町との役割分担を見直す時期に来ているように思う。しかし、地域主権の時代に対応できる区と区長の役割を考える場合、そういう意識転換ができる区になっているかということが一番大事なところ。まだまだ先のことだろう。政府だって混乱しているのに、小規模自治体の区にそのことを求める方が無理な話だ。
 途中、雷で停電したり、大雨になったりしたが有意義な懇親会だった。
 17日は花火大会、山ノ内町からもお客さんが来る。果たして天候はと心配したが、花火には最高の夜となり、どれほどの人が参加したのかは分からない。山ノ内町のみなさんはご満悦の様子で帰途についた。

2010年7月15日木曜日

玉村町の戦争遺跡調査報告書について

3ケ月ぶりの玉村町九条の会の会議に参加した。
参議院選の結果やら町政の問題を話ながら、本題に入っていった。
 2007年11月から2010年春にかけて玉村町の戦争遺跡調査をしていた九条の会調査小委員会がまとめている戦争遺跡調査記録の現状報告を受けながら、今後の展開を話し合った。今は荒削りだが、完成するとなかなか本格的歴史書にでもなるのではないかと思える程の内容だ。町中を歩き回り戦跡調査をした足跡がよく出ている。文章は大墳先生、地図図面は金子修さんの力作だ。まだまだ途中の段階だが、参加者の意気込みは並々ならぬものがある。
 いずれ本として出版されたら、戦争がこの町にもどれほどの被害をもたらしていたかと言うことがよく理解されると思う。改憲に向けて動き出そうとしている政治の動きを止めるためにも大事な事業だ。

2010年7月12日月曜日

「命を大事にする政治」をやってみろ

昨日の選挙結果はボロボロだ。群馬県1議席は断然自民党と言うことがよーく分かった。理由はともあれ自民党に投票する人が55万人もいるとは驚きと言うほかない。自民党はその歴史的使命をすでに終えていると考えているが、民主党があまりに力なく頼りないため、自民党に戻らざるを得ない、と思っている人が多いと言うことだろう。小寺さんも落選、一方、選挙戦間近に「みんなの党」から出馬した上野が当選とは、神のいたずらにしても、度を越している。また、社民2議席、共産3議席ではどうにもならない。保坂も次点。夢も希望もない結果だけど、そこから希望を見いだすとすれば、この混乱は政界再編の機会到来と言うことだろう。しかし、期待できる政党がないというのが、頭の痛い所。大きなため息をつきながらも、それでも歴史は進んでいく。あきらめたら終わりだと言うことを歴史は教えている。

柔ちゃんをはじめとする国会議員連中に観せたいものだ、「二十四の瞳」。久しぶりにシネマまえばしに行き、はじめて観た坪井榮原作「二十四の瞳」だが、泣けてきた。大石先生と生徒達の20年以上にわたるふれあいを戦争という時代背景の中で描いている名作だ。
民主党政権は命を大事にする政治を本気でしてみろ。普天間基地の辺野古移設は出ないはずだ。

2010年7月11日日曜日

小政党にとり比例区しか議席獲得の機会はない

投票日、1時間ほど利根川サイクリングロードを散歩した後、箱石の投票所で投票をした。選挙区はどうしても大政党の議席争いとなり、小政党が入り込めない。民主党の議員の中にも結構、光っている議員は全国的にはたくさんいるが、普天間基地問題で明らかなように、全体としての声にならない。大政党のなかで埋没してしまっている感がある。
 私は、それでよし、とはしない。国民の本当の声を国政に、と考えたらこれまた大変だけど、比例代表のなかで全国からの声を結集し、議席獲得するしかない。小政党に議席を与えてこそ参院の存在価値がある。新自由主義に反対する政党の議席を一つでも多く積み上げること、これが今回の選挙の課題だ。

今日は、午後から、映画「クロッシング」をシネマテーク高崎で観た後、シテイーギャラリーで14日まで開催されている「獄中35年・星野文昭絵画展」に足を運び、夜は富岡ゆきお事務所で多くの仲間と開票を待ちたい。とにかくぶ厚い自民党の壁と果敢に闘い抜いた富岡本人と選対、その仲間達を讃えたい。

2010年7月6日火曜日

新自由主義からの転換をかけた参院選挙のはずだが



いよいよ参院選も終盤、富岡ゆきおも疾走しているが、なにせ自民党王国・群馬でどこまで攻めきれるかが焦点になりつつある。暑い夏だがとことんやろう。富岡本人はリベラルな思考の持ち主なので精一杯応援したい。
高崎集会までの時間調整で古くからの悪友・上原宅のパソコンで打ち込んでいる。

音楽センターでの集会は満席で熱気あふれたものになった。安住淳民主党選対委員長が駆けつけ、富岡本人を激励した。本人は一日で7時間自転車に乗ったという。大丈夫かいな。自民党に体全体でぶつかっている感じだ。大きな時代のうねりの中で古き自民党と闘っている富岡ゆきおを我々が全力で後押しする必要がある。

 比例投票は自由にさせてもらう。新自由主義政策により、社会が閉塞感一杯になってきたことを考えれば、弱肉強食の新自由主義からの転換を意識している政党とその候補者に投票すべきと考える。民主党はそこのところが頼りない。不信感一杯だ。
ビラを数百枚受け取り、理解ありそうな人に投票依頼をしている。新党はどれも保守政党、国家主義政党ばかりでこれらは私の理解の範疇にない。人を食ったような政党名「みんなの党」は小泉構造改革の延長線で、その「小さな政府論」にだまされてはいけない。日本はアメリカ以上に「小さな政府」になってしまい、極端な格差社会のなかで、不安定雇用、自殺、犯罪、生活保護世帯の急増等と社会不安が増長し、人間関係がバラバラにされ、地域共同体機能が衰退してしまった。追いつめられた人々に「自己責任」をかぶせる政治をこれ以上許してはならない。有権者もいい加減に気付いたほうが身のためだと思うよ。判断が軽すぎる。

 ところでその上原君に「比例はどうする」と聞いてみると、「保坂のぶとがいいかなと思っている」と返ってきた。伊達に長年遊んでやった訳ではない、ちゃんと成長してるじゃない。すぐに保坂のポスターを数十枚渡してきた。奮闘を祈るのみだ。(5月15日、高崎市での集会の時に撮影した保坂の写真を載せる)
家での2票はこれが問題、「党首が危ない」との声(デマ)をどこで聞いたか、票分けになりそうな気配だ。しかし小政党にとり1議席は大変重い。熱い思いがなかなか議席に届かない。だけどあきらめない。