みんな寿命を全うしようぜ

みんな寿命を全うしようぜ
西表島で会った昼の蝶

2014年8月31日日曜日

「お盆の弟」高崎で打上げ/高崎ビューホテル


志尾さんからんの花束贈呈

前列の俳優陣と大崎監督、貫井町長

方言指導の新井小枝子女子大准教授
3人は役者ではなく、立派なスタッフです。お色気もアッカルイ。
一同そろっての一枚

 映画「お盆の弟」の10日間にわたる高崎、玉村での撮影が終わり、昨夜は高崎ビューホテルで打上げパーテイー。
大崎監督はじめスタッフ一同、シネマテークたかさきの志尾睦子さんたち、支援者、方言指導の新井小枝子県立女子大准教授、平賀先生、貫井孝道玉村町長も参加しての大盛り上がりの打上げとなった。
 昨日、撮影に参加した主役渋川清彦さん、河井青葉さん、渡辺真起子さんもいるとあって、話の尽きないひとときとなった。
 映像化すると際立つ俳優も素顔は全く一般人、映画「私の男」「二つ目の窓」も観ておいたので、じっくりとはいかないが、そこそこの話はできた。
 「お盆の弟」の撮影はいよいよ大詰めとなる。
 今日は移動日、明日の1日が杉並の阿佐ヶ谷、2日が湯河原町で撮影終了。後は編集作業に入り来年一般公開。
 何事もノリと勢い、俳優陣も含め今回の現場の雰囲気は極めてよかった。これは当事者の認めるところなので、作品にも影響することだろう。
 映画づくりのプロ集団の技のほんの一部を垣間見た10日間だった。
 
 
 
 
 

2014年8月30日土曜日

中曽根康弘の手記が収録されている「終わりなき海軍」

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中曽根元首相の“手記”が収録されている『終りなき海軍』(文化放送開発センター)

 
《朝日新聞の慰安婦訂正記事で右派陣営が勢いづいている。「朝日は責任をとれ!」と気勢をあげているのはもちろん、自民党の政務調査会議は河野談話も朝日報道が前提だとして「河野談話を撤回し、新たな官房長官談話を!」とぶちあげた。また、同党の議連では朝日新聞関係者、さらに当時の河野洋平元官房長を国会に招致して聴取すべき、という意見までとび出している。
 
 だが、朝日や河野洋平氏を聴取するなら、もっと先に国会に呼ぶべき人物がいる。それは第71代日本国内閣総理大臣の中曽根康弘だ。
 
 大勲位まで受章した元首相をなぜ従軍慰安婦問題で審訊しなければならないのか。それは先の大戦で海軍主計士官(将校)の地位にあった中曽根元首相が、自ら慰安所の設置に積極的に関わり、慰安婦の調達までしていたからだ。
 何かというと左翼のでっちあげとわめきたてて自分たちを正当化しようとする保守派やネトウヨのみなさんには申し訳ないが、これは捏造でも推測でもない。中曽根元首相は自分の“手記”の中で自らこの事実を書いており、しかも、防衛省にそれを裏付ける戦時資料が存在していたのだ。そこには、部隊の隊員によるこんな文言が書かれていた。
「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設」
 まず、“手記”の話からいこう。中曽根が慰安所設立の事実を書いたのは『終りなき海軍』(松浦敬紀・編/文化放送開発センター/1978)。同書は戦中海軍に所属し、戦後各界で活躍した成功者たちが思い出話を語った本だが、その中で、海軍主計士官だった中曽根も文章を寄稿していた。
 タイトルは「二十三歳で三千人の総指揮官」。当時、インドネシアの設営部隊の主計長だった中曽根が、荒ぶる部下たちを引き連れながら、いかに人心掌握し戦場を乗り切ったかという自慢話だが、その中にこんな一文があったのだ。
「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである」
 おそらく当時、中曽根は後に慰安婦が問題になるなんてまったく想像していなかったのだろう。その重大性に気づかず、自慢話として得々と「原住民の女を襲う」部下のために「苦心して、慰安所をつくってやった」と書いていたのだ。
 ところが、それから30年たって、この記述が問題になる。2007年3月23日、中曽根が日本外国特派員協会で会見をした際、アメリカの新聞社の特派員からこの記載を追及されたのだ。》

 この一面すべて転送。一見の価値あり。

2014年8月26日火曜日

「誘蛾灯」鳥取連続不審死事件/青木理

 

  首都圏での連続不審死事件の被疑者は木嶋佳苗、そして同じ頃、鳥取で起きた連続不審死事件の容疑者は上田美由紀、ほぼ同時期に起きた事件だが、直接の関係はない。
 しかし、年齢は三十代半ばでほぼ同じ、二人ともどちらかといえば、小柄なのに体はでっぷり肥満体、お世辞にも容姿端麗とは言えない。
 佳苗の事件は埼玉、千葉、東京といった首都周辺の大都市圏を舞台とし、「セレブ」を気取った事件。「婚活サイト」で知り合った男たちから巻き上げたカネで買いあさったブランド品を身につけ、ベンツを乗り回して一見贅沢な生活を見せかけ、最終的には自殺に見せかけて男たちを殺害したとされる事件。
 木嶋本人は獄中から私小説を書ているらしい。
そして、青木理が取材先に木嶋を選ばず、上田美由紀を選んだことに、上田に対し嫉妬している。未だ色気プンプンだからあきれる。
 上田は上田で「時期が来たら本当のことを話す」と言うが、ご両人の置かれた状況は、現在、控訴審段階で死刑判決、本気で闘わないと国家に殺されてしまう状況にあるのに、その深刻さが妙に見えてこないのが不思議だ。

 鳥取の事件、舞台は山陰鳥取の地で、美由紀は昔ながらのしがないスナックホステス。
 疲れ切った鳥取の歓楽街の、地元では「デブ専」と揶揄される場末のスナックに漂っていた5人の子供を持つ女だが、妻子ある男たちまでが次々に美由紀に惹かれ、多額のカネを貢ぎ、幾人もが不審な死を遂げていった。
 一人目は、読売新聞鳥取支局記者、二人目は、警備会社社員、三人目は、鳥取県警刑事部の警察官、4人目はトラック運転手、5人目は、電気店経営者と続く。
 著者・青木理は、人口60万人を切った鳥取県の状況なども背景に、当地の人間模様に迫りながら、事件に切り込んでゆく。
 「首都圏・・・事件」ではなく「鳥取連続不審死事件」を選んだ彼のセンスに共感する。
 現代社会、想像もできない事件が続出している。事件を通じて時代を読み解く力も必要だろう。



 次の本は清水潔著「犯人はそこにいる」。

北関東連続幼女誘拐殺人事件を追ったノンフィクション。
ルパンはそこにいる。

2014年8月25日月曜日

夜の八幡宮での撮影「お盆の弟」

差し入れの夕食はおにぎりとみようが汁
大崎監督と主演陣のくつろぎ
夜の八幡宮での撮影は蝉も虫も賑やかだった
撮影後、スタッフ陣で軽く一杯(25日午後2時半、ホルモン屋) 

 21日の撮影が雷雨のため延期となったので、昨夜の撮影となった玉村八幡宮。暗くなるまで待つ間に、夕食しながらくつろぎのひととき、ヒラガ医院、渡辺家での撮影を順調に終えての八幡宮入となった。
 くつろぐといっても、衣裳、照明、音響、カメラの配置の点検など各スタッフは忙しく動く。
全体の手際の良さに俳優もつられるように、いい演技をしていくという流れができてきたようだ。
 ライトアップされた八幡宮は見物、時代を感じさせ、神々しい。
 
 そして今日は渡辺宅は最後、午後からはホルモン屋となった。
 2時半頃、ぼちぼち撮影が始まるかな、と出かけたところ、撤収の準備をしているではないか。
 「もう終わっちゃいました」とスタッフのひとり。プロは誠に手際がいい。シナリオの読み込みが完璧にできている。
 光石研さんはこれで終わり、今日は東京へ帰る。都合4日間、玉村町にいたことになる。
 今日の撮影も早く終わり、ということで、映画に使った焼き肉をみんなで食べることにした。昼からのビールも飲める人は飲み、明日からの激務に備えた。
 新しい役者が加わり、主役の渋川さんのたたかいはまだまだ続く。

2014年8月24日日曜日

戦争をさせない1000人委員会・群馬結成集会/「お盆の弟」

満員の高崎労使会館
差し入れのスイカで休憩する大崎組の面々
夕食はカレーライス/光石研・くつろぎのひととき
 
文化財保護審議会専門委員の村田さん(
右)も見学に来た

 安倍政権の集団的自衛権容認の閣議決定過程の余りの乱暴さ、危険さにさすが多くの人々は立ち上がり始めた。
 「戦争をさせない1000人委員会・群馬」の立ち上げ集会に会場一杯の400人が結集した。
 戦争政治を絶とう、安倍政権打倒の推進力としての運動になることを期待したい。
 
 4時頃から、渡辺さん宅でのロケ現場へ。撮影は順調で、休憩中のスタッフと打ち合わせなどしながら、その後の撮影を見守った。
 昨日は、群馬県文化財保護審議会専門委員の村田敬一さんも見学に来ていた。文化財としての価値ある渡辺邸が映画のロケ地として選ばれたことの意義を話してくれた。
そして、自宅を全部ロケに提供したため、所在なさそうな渡辺寿美保さんとの会話も進む。
 玉村町の幕末を生きた渡辺三右衛門が書いた日記は当時の町の政治、経済、文化の状況を克明に書き記したもので、町にとり第1級の資料となっている。
 髙橋敏著「国定忠治を男にした女侠」は忠治の妻お徳を書いたものだが、そのお徳と同じ時期に生き、交流もあった渡辺三右衛門、その直系の寿美保さんだ。
髙橋敏先生も取材に何度も訪れている。
 大塚政義先生の本やこれらの本を読み込み、映画化できれば、当時の玉村周辺を描いた傑作時代劇ができると考えてしまう。
 

2014年8月23日土曜日

雷雨のため予定変更しながらも撮影は続く「お盆の弟」

八幡宮での撮影は雷雨のため延期になった
ピアノを弾く光石さんと主役の渋川さん

 日中は暑く、しかし、八幡宮での撮影は順調にいくかと思われたが、夕刻から雲行きが悪くなり、雷も鳴り出したため、八幡宮での夜の撮影は延期となり、渡辺寿美保さん宅での撮影に切り替え、雷雨の終わるのを待った。
 準備した機材を撤収し変更後のロケ地に移動する労力も大変だが、そこはさすが手慣れた様子で見事にこなしている。
 昨日から撮影に入った光石研さんと会うのは2ヶ月ぶりだが、相変わらずの人柄の良さで、周囲の信頼はあつい。
 急なロケ変更にも対応できる役者ぶりは、そこがプロなのだろう。
 渡辺さん宅のピアノで「猫踏んじゃった」を見事に弾き、渋川さんとのワンシーンを撮り終えたとき、庭で一緒に見ていた渡辺さんの奥さんが、「役者って何でもできるんですねえ」と感心していた。
 今日からいよいよ佳境に入っていく。俳優はじめ、関係者は相当疲れると思う。私も数時間、見ていただけで、昨夜は泥のように寝た。
 しかし、涼子役の河井青葉さんも美しい。女性に目がないもので。夢に出そうだ。
 
 

2014年8月22日金曜日

「お盆と弟」クランクイン

八幡宮での撮影を終えてのエキストラさん
水道塔近辺を自転車で走る場面の撮影風景

 「お盆の弟」、両水駐車場での撮影から玉村八幡宮での撮影までの1日目の予定は順調に進み、5時までには撮り終えた。水道塔付近の道を自転車に乗る、最後の撮影にだけ間に合ったが、まだまだ暑い中での撮影は大変だ。
 そして毎日、役者が入れ替わりいよいよ佳境へと進んでいく。今日22日は、高崎城南野球場、午後5時頃、玉村八幡宮の予定、光石研さんの登場となる。プロの実演は見物。
 
 

2014年8月20日水曜日

映画「お盆の弟」玉村八幡宮で安全と成功祈願

主人公役の渋川清彦さんと応援する志尾さん
本殿の前で気合いも入る大崎監督と渋川さん

 映画「お盆と弟」、いよいよ明日からの撮影を前に玉村八幡宮で安全と成功を祈願した。
 昨日、製作担当者から、参加しませんかと、声をかけられ、行って見れば、大勢のスタッフが勢揃いしている。
町からは重田副町長をはじめとした職員数人、シネマテークたかさきの志尾睦子さん達も駆けつけていた。
 その後、玉村町役場で1時間ほど全体で打ち合わせ、明日からの撮影となる。
 予定表を見ると、9月2日までビッシリと組まれている。
 出演者それぞれ忙しいので、ユッタリ撮影とはいかないのだろう。
 プロの映画撮影の現場をジックリ見ようと思うが、私自身、9月議会の準備やら司法書士会の研修で張り付けるほどのゆとりはない。
 24日の夕食くらいは支援者一同の力でささやかにもてなしたい。
 
 

2014年8月18日月曜日

抑えきれない怒りの行方/城代美弥子さんの記事

(ザ・コラム)戦後69年 抑えきれない怒りの行方 大久保真紀

2014年8月16日05時00分

 

9日。長崎市で開かれた原爆犠牲者慰霊平和祈念式典の会場にいた。台風11号の影響で時折強い風が吹く中、午前11時10分すぎ、被爆者代表が壇上で、「平和への誓い」を読み始めた。

会場で配られた式次第に印刷されている文面を目で追っていると、異変が起きた。

「今、進められている集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじった暴挙です」

暴挙!? なんと強烈な表現なのだろう。式次第にあった文面は「今、進められている集団的自衛権の行使容認は、武力で国民の平和を作ると言っていませんか」だった。

異変は続く。「日本が戦争ができる国になり、日本の平和を武力で守ろうというのですか。武器製造、武器輸出は戦争への道です。いったん戦争が始まると、戦争は戦争を呼びます。歴史が証明しているではありませんか」。文面にない怒りの言葉が、被爆者代表の女性の口から発せられた。

ここ数年、私は現地で式典を見てきた。事前に用意した「原稿通り」がふつうだった。この日も、田上富久市長が「長崎平和宣言」を、来賓の安倍晋三首相があいさつを、配られた文面と一字一句違わず読み上げている。

なぜ、異変は起きたのだろう。式典後、「平和への誓い」を読み上げた被爆者代表の城臺美彌子(じょうだいみやこ)さん(75)を、長崎市内の自宅に訪ねた。


「黙っていられなかったんです」

城臺さんは、とっさの判断だったと打ち明けた。

当日は、式典開始の一時間半以上前に会場に到着。自席で待機しながら、昨年10月に被爆者代表になる打診を受けてからの日々を振り返っていた。特定秘密保護法の制定。原発の再稼働や輸出に突っ走る政府。強調される中国脅威論集団的自衛権の憲法解釈の変更……。この1年、日本で起きたあまりに多くの異変。その一つひとつを思い浮かべていると、真正面の来賓席に入ってくる政治家たちの姿が見えた。

公明党山口那津男代表が歩いてきた。「平和の党と言いながら、結局、集団的自衛権の解釈変更に賛成したのよね」。民主党海江田万里代表も来た。「もう少し国民が民主党政権を我慢しなければいけなかったわね」……。ほかの党の党首、大臣らが続き、最後に入ってきたのが、安倍首相だった。

「ムラムラと怒りがわき上がってきたんです」。用意した文面は市役所職員と詰めて考えたものだったが、ここは、被爆者代表として面と向かって抗議しなくては。そう腹をくくったのだという。

城臺さんは6歳のとき、爆心地から2・4キロの自宅で被爆した。近所の友人たちは成人後にがんなどで次々と亡くなった。38年間小学校の教壇に立ち、16年前から語り部を続ける。孫が7人いる。「孫世代の子どもたちを戦場に送ったり、戦禍に巻き込ませたりすることはあってはならない」

式典後、城臺さんの自宅の電話や携帯電話は鳴りっぱなしだった。「私たちの気持ちをよくぞ言ってくれた」。被爆者仲間や全国から「感動した」との声が相次いだ。


ふと、ある詩が思い浮かんだ。

ふたりのこどもを くににあげ

のこりしかぞくは なきぐらし

よそのわかしゅう みるにつけ

うづのわかしゅう いまごろは

さいのかわらで こいしつみ

山形県上山市在住の農民詩人木村迪夫(みちお)さん(78)の詩集「わが八月十五日」に収録されている歌だ。木村さんの祖母が、戦後、突然歌い出した歌を、「祖母のうた」として記録したものだ。

祖母は「皇国の母」だった。次男が太平洋の孤島で戦死したことが伝えられたときは、「名誉の戦死」として赤飯を炊いて祝った。だが、1946年5月、木村さんの父で、農家の跡取り息子だった長男が、出征先の中国ですでに病死していたことがわかると、一転した。蚕室に三日三晩こもって泣き明かし、その後、ご詠歌の節回しで即興的に歌い始めた。蚕の世話をしながら、祖母は10年、呪うように歌い続けた。

祖母は字が書けなかった。「祖母の思いを受け継ぐのはオレだ」。そう思った木村さんは、死期が迫る祖母の枕元で、怨(うら)み歌を次々と書き取った。

昨年まで5年近く、木村さんは山形県遺族会会長を務めた。「いまの日本の状況は慚愧(ざんき)に堪えない」と怒りをあらわにし、「日の丸は嫌いだ」と公言する。祖母の残したなかに、こんな歌がある。

にほんのひのまる

なだてあがい

かえらぬ

おらがむすこの ちであがい

この怒りを、理解できますか。

2014年8月17日日曜日

絶賛・映画「世界の果ての通学路」/シネマテークたかさき




 
 ケニア、アルゼンチン、モロッコ、インドという地球上の全く異なる4つの地域の通学路に密着し、数十キロの危険な学校への道を通う子供たちの姿に、観る者が逆に勇気をもらってしまうドキュメンタリー映画。
 学校に行くことが子どもたちとり、どれほどの希望や夢であるかを、大人たちがもう一度自覚する必要がある。
そして、教育は学校設備の充実だけではないこともよくわかる。
 そして大人になったとき、大人たちの戦争に動員するなんて全くナンセンス。
 監督は12年間にわたりケニアに通い詰め「マサイ」を撮りあげたパスカル・プリッソン。
 注目の映画だったが、満席の観客にすくわれる思いだ。
 《シネマテークたかさきで8月29日まで上映》

2014年8月16日土曜日

敗戦記念日の金曜日集会、多様な集まりで反戦集会模様に

お盆の集会は賑やかに
歌「イマジン」は全体の基調となった
あいさつするプラデイーブ監督
参加者とくつろぐ監督
日本山妙法寺の安田行純法尼も参加

 金曜日高崎駅西口行動は、インドの反原発映画「ハイパワー・大いなる力」の製作者プラデイーブ監督、日本山妙法寺の安田行純法尼の参加も得て、多様な金曜日行動となった。
 敗戦記念日でもあり、豊かな内容あふれる反戦集会となった。とにかく侵略戦争の実態を少しでも知れば、戦争などと言えないはずだ。
 一方、戦争推進勢力は、敗戦当時から、閣議決定(昭和20年8月15日付)で「戦争関連の証拠隠滅を決定・命令していた。
特に「動員計画」を中心に証拠隠滅をしている点で、いかに悪らつな動員=強制動員だったかうかがい知れる。強制連行の記録もこうして証拠隠滅された。
 このことは群馬県史にキチンと書かれている。
「戦時中の関係書類(動員計画・資源・反英米思想・国民組織・軍需生産関係資料など)はことごとく焼却せよとの命令が出て、県庁・各市町村・各学校等すべての官公庁で数日間の焼却処分の作業が続いた。」(戦時下の群馬県民759ページ)
 強制連行や従軍慰安婦はなかったなど荒唐無稽な言いがかりをつける連中がいるが、笑止千万。こんな連中の主張に屈服し、群馬の森の朝鮮人追悼碑の撤去を決定した群馬県はその決定を取り消し、追悼碑を守る責任がある。
 「日本を取り戻す」と戦前にあこがれる安倍政権は、集団的自衛権容認に踏み込み、福島原発事故さえなかったかのように原発再稼働の強い衝動にかられている。
 しかし、そんな事ができようはずがない。
福島汚染水問題で、政府と東電が「切り札」としたどれもが失敗している。
 汚染水から放射性物質を除去するはずのアルプスは故障ばかり、しかもトリチウムは残ったまま。地下水バイパスを強行したが、汚染水は減っていない。
 鳴り物入りの凍土壁は氷を入れても、ドライアイスをぶっ込んでも全くダメ(配管も凍結してダメ)、19日に「ダメでした」と発表する流れとか。
 いよいよ極まった安倍政権と東電、「汚染水ではなく、『放射性物質を含む地下水』『放射性物質を含むたまり水』と表現をかえて汚染水問題から逃亡しようとしている。
 もう一つ重要なことは、福島の子供たちの甲状腺ガンが89人にもおよび、そのうちの50人は福島県の正式発表でも、甲状腺以外の他の部位にもガンが転移していること、触診でもわかるほどガンが大きくなっている痛ましい現実。
 インド首相を迎えて原発売り込みどころではないはずだ。
 
 一国の首相が戦没者追悼式で加害責任に言及せず、不戦の誓いもしなかった。この中に安倍政権の危険性がある。
 戦争をしようと決断しているからだ。だから福島原発事故の被害が大きくなっていることを国民に知らせようとしない。
 国民の命を守ろうなどということは思っていない。1%の支配層が生き延び、天皇制が守られればいい、と思っているだけだ。
 しかし、そうはならない。そうさせないために、多くの人々がたたかいを開始している。
 
 
 

2014年8月15日金曜日

大崎章監督の映画「お盆の弟」のシナリオを読む

風格ある渡辺さん宅
「いい映画ができればいいねえ」と渡辺さん兄弟

 お盆に映画「お盆の弟」のシナリオを読んだ。
兄と弟そして友人たちが織りなす日常は、仕事、病気、離婚、婚活、あせりや友情、夢等が複雑に絡み合って展開する。
それは違った形ではあるが、我々の日常でもある。
今回は上州弁が加わり地域性を際立たせている。
 今朝、主要なロケ地の渡辺さん宅を尋ねた。
「いい映画ができればいいね」と言って、整えられた室内もみせて頂いた。
 ここで渋川清彦さんや光石研さん等が演じる。
そして、いよいよ21日から撮影が始まる。大崎監督はじめスタッフの力が発揮される時だ。
 今年も暑い時期の撮影だが、多くの人の協力を得て、よい作品ができることを期待したい。
 蝉にもすがる思いだ。

2014年8月13日水曜日

大塚政義さん宅を尋ねる

藤岡市神流公民館で水戸天狗党を語る在りし日の大塚先生
書斎で美由紀さんとパチリ
大塚先生の書斎はそのままにある

 大塚政義先生の長女の美由紀さんが北京から帰ったという連絡を受け、過日、自宅を訪ねた。
 4月の一周忌にも招かれ、お邪魔したが、その時は帰ってこられなかったので話ができなかった。
 
 大塚先生との出会いは平成19年4月、伊勢崎市文化会館での国定忠治の話がとても面白く、その企画に先輩の福島さんが絡んでいたこともあり、その7月の玉村八幡宮での講演会実現となった。八幡宮の梅林肇宮司がまた忠治好きであり、大塚ファンだったので、ふたりで協力し合いながら何回か町内で大塚講演会を開いた。
 最初は高齢でもあるので、夜一人で車を運転し、富岡の自宅まで帰るのは大変だろうと、自宅まで送り迎えをした。
 しかし、その後、自宅から桐生へ行き(国定忠治の足跡を尋ねるバスツアー)、大型バスに乗り込み、ガイドをしながら玉村八幡宮、そこで昼食をとり、そこから東吾妻の大戸の関所まで行き、榛名由紀の「忠治一代」を参加者に聞かせて、桐生へ帰る。
それから自分の運転で自宅まで帰る。等々、しているので元気だろうからと、その後の送り迎えはしなくなった。
 送り迎えはしないので、自宅に無事帰ったかな、と思っていると、最初のうちは、何日かして丁寧な手紙が届いた。
「無事に帰りました。次の講演会は○○ですので、ご都合ついたら足を運んでください」。その後は携帯にSMSによるメールとなった。私自身は初めてSMS通信をその時知った。
だから手紙より速い。「ただいま帰宅しました」。
はあ、彼女でもないのにご丁寧に。
 お陰様で先生からの手紙は今も何通も持っている。
「筆まめでしたね」と奥さんに言うと、とんでもない筆無精とのこと。本人にいくら言っても返事を書こうとしないことがあったとか。やはり変わっているところがあるようだ。
 自由人・大塚先生とはどこか馬が合っていたのだろう。
大塚政義、彼は国定忠治の研究家みたいに思われているが、確かにそうではあるが、本当は水戸天狗党の研究者であり、高崎藩との下仁田戦争の実態を明らかにしたなど大きな功績を残した水戸史学会員だ。
 健在の時の書斎を見せていただいた。

 その長女・美由紀さんは中国人と結婚し北京で生活している。親の子なのか、好奇心旺盛で自分の意見もはっきり持っている人だ。中国語の発音もすっかり中国人。
1時間ほど、お母さんも交えてさまざまな話をしたが、大塚先生が娘を日中友好のため送り込んだのではと思いたくなる器量の人だ。
 日本、中国、韓国、北朝鮮、どの国の指導者も二世、三世。
世襲の指導者が庶民の生活の切実さをどれほど実感できるというのか。
 人は親を選べないし、国もそうは選べない。人間としてひとりひとりの生き方を通して、その寿命を全うすればよい。
《起きて半畳、寝て1畳、天下取っても二合半》
そんなささやかな生き方すら脅かす政治をされたんじゃ、たまったものじゃない。抵抗しますよ。

 今日は盆迎え、先祖といっても祖父母までしか知らない、戸籍を見ても5代前くらいがせいぜい、しかし、もっと前にも命の連鎖があったから今がある。人は自然の生きものだ。その摂理の中でしか生きられない。
 盛夏の盆が今年も来た。
 

2014年8月11日月曜日

「戦争と玉村町」9月28日まで開催/玉村町歴史資料館

戦争展の資料
菊池氏の資料に基づく話は会場を圧倒した。
歴史資料館の様子

 安倍内閣が集団的自衛権容認を閣議決定して初めての夏、今年の戦争・平和展はどこへ行っても力の入り方が違うようだ。  玉村町でも立派なパンフレットが作られ、多くの町民に見て欲しいという意欲が伝わる。
 9日には群馬県埋蔵文化財調査事業団の菊池実氏を招いての「米軍資料から見た群馬県下の空襲」と題する講演会を開催、文化センター小ホールには大勢の住民が集まった。
 アメリカの資料によると、1945年8月14日、米軍爆撃機が群馬県伊勢崎市方向に爆撃に向かったとき、アメリカ国内では日本の敗戦を伝えていた。
 米軍司令部が引き返せの命令さえ出せば、空襲はなく、多くの犠牲を出さずにすんだ。
 投下された爆弾も種類がいくつかあり、まず焼夷弾で町を焼き、消火のために人が集まったところに、多くの殺傷能力のある爆弾を落とす。
 そのことを日本軍は知っていたが、消火作業に人が集まらなくなると考えて、秘密にしていた。どこが「軍は国民を守る」だ。

 軍は国民を守らない。軍が守ろうとしたのは天皇制という国体であり、臣民はどうなってもいいと考えていた。
それが日本の戦争だった。そして今もそれは変わらない。

2014年8月10日日曜日

長崎・原爆犠牲者慰霊式典での被爆者代表城台美弥子さん


 東京新聞の記事を転載する。
長崎は九日、被爆から六十九年の原爆の日を迎え、長崎市松山町の平和公園で市主催の原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が営まれた。出席した安倍晋三首相の目の前で、被爆者代表の城台(じょうだい)美弥子さん(75)が「憲法を踏みにじる暴挙」と集団的自衛権の行使容認を痛烈に批判した。田上富久(たうえとみひさ)市長も平和宣言で「平和の原点がいま揺らいでいるのではないか、という不安と懸念が急ぐ議論の中で生まれている」と指摘。政府の姿勢に対する被爆地の懸念があらわになった。
◆被爆者代表「平和への誓い」全文 
 一九四五年六月半ばになると、一日に何度も警戒警報や空襲警報のサイレンが鳴り始め、当時六歳だった私は、防空頭巾がそばにないと安心して眠ることができなくなっていました。
 八月九日朝、ようやく目が覚めたころ、魔のサイレンが鳴りました。
 「空襲警報よ!」「今日は山までいかんば!」緊迫した祖母の声で、立山町の防空壕(ごう)へ行きました。爆心地から二・四キロ地点、金毘羅山中腹にある現在の長崎中学校校舎の真裏でした。しかし敵機は来ず、「空襲警報解除!」の声で多くの市民や子どもたちは「今のうちー」と防空壕を飛び出しました。
 そのころ、原爆搭載機B29が、長崎上空へ深く侵入して来たのです。
 私も、山の防空壕からちょうど家に戻った時でした。お隣のトミちゃんが「みやちゃーん、あそぼー」と外から呼びました。その瞬間空がキラッと光りました。その後、何が起こったのか、自分がどうなったのか、何も覚えていません。しばらくたって、私は家の床下から助け出されました。外から私を呼んでいたトミちゃんはそのときけがもしていなかったのに、お母さんになってから、突然亡くなりました。
 たった一発の爆弾で、人間が人間でなくなり、たとえその時を生き延びたとしても、突然に現れる原爆症で多くの被爆者が命を落としていきました。私自身には何もなかったのですが、被爆三世である幼い孫娘を亡くしました。わたしが被爆者でなかったら、こんなことにならなかったのではないかと、悲しみ、苦しみました。原爆がもたらした目に見えない放射線の恐ろしさは人間の力ではどうすることもできません。今強く思うことは、この恐ろしい非人道的な核兵器を世界中から一刻も早くなくすことです。
 そのためには、核兵器禁止条約の早期実現が必要です。被爆国である日本は、世界のリーダーとなって、先頭に立つ義務があります。しかし、現在の日本政府は、その役割を果たしているのでしょうか。今、進められている集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじる暴挙です。日本が戦争できるようになり、武力で守ろうと言うのですか。武器製造、武器輸出は戦争への道です。いったん戦争が始まると、戦争は戦争を呼びます。歴史が証明しているではないですか。日本の未来を担う若者や子どもたちを脅かさないでください。被爆者の苦しみを忘れ、なかったことにしないでください。
 福島には、原発事故の放射能汚染でいまだ故郷に戻れず、仮設住宅暮らしや、よそへ避難を余儀なくされている方々がおられます。小児甲状腺がんの宣告を受けておびえ苦しんでいる親子もいます。このような状況の中で、原発再稼働等を行っていいのでしょうか。使用済み核燃料の処分法もまだ未知数です。早急に廃炉を含め検討すべきです。
 被爆者はサバイバーとして、残された時間を命がけで、語り継ごうとしています。小学一年生も保育園生も私たちの言葉をじっと聴いてくれます。この子どもたちを戦場に送ったり、戦禍に巻き込ませてはならないという、思いいっぱいで語っています。
 長崎市民の皆さん、いいえ、世界中の皆さん、再び愚かな行為を繰り返さないために、被爆者の心に寄り添い、被爆の実相を語り継いでください。日本の真の平和を求めて共に歩みましょう。私も被爆者の一人として、力の続くかぎり被爆体験を伝え残していく決意を皆様にお伝えし、私の平和への誓いといたします。
 平成二十六年八月九日
 被爆者代表 城台美弥子
(東京新聞)
 

2014年8月9日土曜日

角田義一さんの喜寿を祝う会での多士済々

本人あいさつまでに30分は過ぎていた。
千葉から駆けつけた小川浩夫妻
加賀谷富士子は伊勢崎選挙区から県議選に起つ
こちら訪朝団のテーブル、そのうち行くぞ、待ってて金さん。
松浦幸雄前高崎市長も元気、元気
来年の統一選に全力で立ち向かう面々
 
晶も大きくなりました。軸足、据えて来年もたたかいます。
最後は弟分の塚越紀一県議の心こもる締めで、会場ビシーッ
今後の健康と活躍をお祈りします。
師弟関係復活か、富岡由紀夫も元気です。
裏方の松村健助さんへのねぎらいも忘れません。愚痴も聞くよ。

 「角田義一先生の喜寿をお祝いする集い」が前橋で開かれた。賑やかになるとは思っていたが、300人近い参加者で会場は埋め尽くされ、駐車場は満杯となり、開会時間ギリギリの到着となってしまった。
 90歳を越えた田辺誠さんや松浦幸雄前高崎市長、山本龍前橋市長、阿久津貞司渋川市長をはじめ、労働組合、市民運動、仕事の関係者まで多士済々の集合とあって、角田義一さんのあいさつまでに優に30分は過ぎていた。
 77歳といってもまだまだ元気、「戦争を体験した最後の世代として、安倍政権の戦争政治に反対し、日本が再び戦争への道に進むことがないよう運動を展開する」と強調した。
 参加者の顔ぶれを見ると、社会党の時代から角田さんとともに生きてきた人が多いようだ。
 角田義一さんがこれほど慕われている状況は二面ある。
それはこれまで生きてきた中での角田さんへの共感と敬意だろう。
一方では、県内的には自民党に対決する政治的人格としての「角田義一後」が見いだせないストレスが、かくも多くの多士済々が集まる要素になっている。
 これを嘆いても仕方ない。真っ当な時代認識をもちながら、行動すること以外に新たな道は開けないことを再確認できればいい。
 時代は大きく変わり(資本主義社会としての余裕がなくなり)、その打開策としての新自由主義政策の行き詰まり(とうとう国民を食わせていけなくなった)のなかで、「戦争によってしても日本は生き延びるのだ」という経団連をはじめとする大資本とその代弁者としての安倍政権を見据えたとき、すでに牧歌的護憲論では太刀打ちできない。
 国家が生き延びるためには、個人はどうなっても仕方ない、という政策は、その最初の出足のところで間違っている。
 人間がいなければ、労働者がいなければ、生産の担い手がいなくなるということ、社会は成り立たない。別の言い方をすれば、人間さえいれば、労働者さえいれば社会は経営できる。
  資本主義後を見据えた運動の潮流を創り出す時期にきている。
 高度に発展した資本主義社会の現代にこそこの萌芽はある。

 そして、お知らせ
《戦争をさせない1000人委員会・群馬 結成の集い》
 8月23日(土)午後1時30分から
 高崎市労使会館ホール
 講演「安倍政権と集団的自衛権」 
 講師 半田滋氏(東京新聞論説委員)
  ここから始めよう。
 
 

2014年8月7日木曜日

松井田でブルーベリー狩り

始まる前から一休み
まずは楽しい採り方を教えてもらう
今年は雨も少なく甘さが強いとか。
広い畑なのでとても採り切れない
くたくたになって記念撮影
これから帰ります。夏休み中に引っ張り出してしまったかな。

 もう4年程になるのか群馬朝鮮学校の子供たちとの夏の交流は、松井田町にある畑でのブルーベリー狩りが慣例化してきた。このときしか行かないので、場所が説明できないのだが、向かって行くと不思議に着いてしまうという場所だ。
 とにかく暑い日が続くが、この辺は雨が少ないらしく、今年のブルーベリーはしまっていて木から落ちないという。
 いくつかの種類もあるらしく、木によって甘さが違う。好みにより食べればいいと言うこと。
 毎年楽しませてくれるオーナーの心意気が伝わる今年のブルーベリー畑だ。
 お盆までは充分味わえ、その後も状況によってブルーベリー狩りは可能ということ。
 大人の都合で夏休み中の子供たちを引っ張り出した感もあるが、元気な子供たちや安重根校長や若い先生方に会えるのも楽しい。
今年は近くに住む上原君にも友情出演してもらった。
 そして暑さも少しおさまる夕方からは、ホルモン屋で李さん、林さんたちと一献かたむける。
 たまに飲まなきゃやってられねえ。