みんな寿命を全うしようぜ

みんな寿命を全うしようぜ
西表島で会った昼の蝶

2013年2月27日水曜日

3月議会に向け全員協議会

 玉村町3月議会の日程が3月5日から19日までと決まった。今回は議案数が多いため例年より長い日程となっている。
その間、13日の中学校卒業式が入る。
 昨日、今日と執行側からの議案説明を受け、今後、議案書とにらめっこの期間にはいる。
 一般会計予算99億1100万円その他特別会計予算等の審議は3月11日、12日の2日間、一般質問は14日、15日の2日間、最終日19日は午後2時から本会議が開かれる。
 私は広報委員でもあるため、閉会直後から「議会だより」製作の準備もしなければならない。
 3月10日の高崎城址公園での<さよなら原発集会>の成功も勝ち取らなければならないし、<群馬ドキュメンタリー映画祭2013>の開催期間でもあり、結構忙しくなりそうだ。
 

2013年2月25日月曜日

「漂泊」オーデイション2日目/玉村町勤労者センター

不揃いの役者候補者
タマタンも面接するオーデイション
参加者待合室風景


 130人規模のオーデイションは確かに大変だ。しかし、そこは藤橋監督慣れたもので冷静にスケジュールを組み的確に対応していた。
 高崎、伊勢崎、前橋は勿論のこと、沼田、太田、桐生、館林、渋川、大泉町等からの参加者もいる。
 当然のことだが、玉村町在住の人もいて、バラエテイーに富んだ応募者で意気込みも大いに感じられ、3月10日に行われる第2次オーデ イションにどのような顔ぶれが進むか大いに期待するところだ。
 残念ながら選考からもれた人たちは、映画製作スタッフになっていただき、ともに映画製作にかかわっていけたらと考えている。

2013年2月23日土曜日

「漂泊」オーデイション1日目/玉村町勤労者センター

受付前の雑談風景
受付後応募者で待合室は賑やかになってきた
終わった後、知らぬ同士でハイポーズ
強気の応募者もたくさんいます
  いよいよ今日からオーデイション開始、スタッフは朝8時30分に玉村町勤労者センターに集合、手際よく準備を終えるとまもなく、応募した人たちが集まりだした。
 グループごとに分けての対応だが、午前中は参加者同士で話が盛り上がるなど雰囲気は極めてよかった。
 個性的な人の応募も多く、132人からの人選ともなり、かなりハイレベルの出演者の出現が期待される。
 24日も2日目のオーデイションが行われる。
 

2013年2月22日金曜日

3月10日高崎城址公園でさよなら原発集会

昨夜の会議の様子

 3月10日のさよなら原発アクションに向けた実行委員会の会議がもたれ50人ほどの人が参加した。
 安倍政権の誕生により、福島原発事故を過去のものとし、再稼働を画策する電力会社が勢いづく状況を打ち砕く民衆の力を今年も示さなければならない。
 何の根拠もない「アべノミクス」に踊らされている一部の人たちがその浅はかさを思い知る契機にもしていく必要がある。
 会議に向かう途中、杉原弁護士から電話がはいり、3月9日開催の「秘密保全法」市民集会のチラシを受け取り、実行委員会で配布した。
 いろんな人の参加で行われている実行委員会だけに、いろんな催しの情報が入ってくる。
 10日の前日だが、重要な集会なので多くの人の結集を訴えたい。
 《秘密保全法》市民集会 主催 群馬弁護士会
 3月9日 群馬社会福祉総合センター8階大ホール
午後1時から4時まで
 TBSドラマ「運命の人」モデルとなった西山太吉さんが講演する。

もう一つ紹介する。
《人権を考える市民の集い》
「差別と戦争をなくすために」
主催 部落解放同盟前橋市協議会
<有馬理恵さん講演会 >
粕川公民館2階大ホール(前橋市粕川町西田面194-4)
3月9日(土)午後1時開始
       1時20分から小・中学生人権作文発表
       2時から講演会
有馬さんは「釈迦内柩唄」(水上勉原作)をライフワークとして各地で主演している。
昨年、教育会館で話を聞いたが、それはそれは感動的だった。

 それぞれ選択して参加して欲しい企画。



2013年2月19日火曜日

23日、24日映画・漂泊のオーデイション/玉村町

 映画「漂泊」へのオーデイション申込者が130人ほどになった。
藤橋誠監督を囲んでの打ち合わせを昨夜行った。
予定通り23日(土)、24日(日)の2日間にわたり玉村町勤労者センターで第1回オーデイションを行う。
当日の運営がスムースに行くように全力をあげたい。
申込者の思いも込めた力作にしたいもの。

2013年2月16日土曜日

群馬ドキュメンタリー映画祭2013

この橋桁をピアに乗せて高圧ボルトで結合する
工事はここまで進んだ
大地君の隣で何やらほくそ笑む土田社長
映画構想を語る小見純一さん
 この時期、まだまだ寒いので早朝散歩は控えているが、休みだったので7時頃から1時間程、サイクリングロードを歩いた。
 玉村町と伊勢崎市を結ぶ新利根川橋(仮称)の工事の進み具合は順調のようだ。
 大きな橋桁を巨大クレーンでつり上げ、ピア上に設置し、巨大ボルトで結合させる工事は相当な難工事だろうし費用も莫大だろう。
 しかし、この橋が完成すれば、高崎市から板倉町までの約60キロの東毛広域幹線道路が開通し便利さは飛躍的に増し、町内の交通渋滞も大いに緩和されるだろう。
予定通り無事完成することを願う。
 
 10過ぎ、前橋敷島公園近くの絵本屋さんに小見純一さんを尋ねた。
 3月8日(金)から18日(月)まで開かれる〈群馬ドキュメンタリー映画祭〉のパンフレットを頂くためだ。
 最新作を県内先行上映する。
1.「先祖になる」池谷薫監督
2.「福島・六カ所 未来への伝言」島田恵監督
3.天のしずく・辰巳芳子「いのちのスープ」河邑厚徳監督
4.「いのちが一番輝く日」溝淵雅幸監督
5.「61ha 絆」野澤和之監督
6.「長編動画・毎日がアルツハイマー」関口祐加監督
7.「モバイルハウスのつくりかた」本田孝義監督
他に「圧殺の森」小川紳介監督
   「日本解放戦線・三里塚の夏」小川紳介監督
   「水俣ー患者さんとその世界」土本典昭監督
   「原発切抜帖」土本典昭監督
 特に3月16日(土)午前10時30分からの「天のしずく・辰巳芳子 いのちのスープ」上映後、河邑厚徳監督のトーク、14時30分からの「水俣ー患者さんとその世界」上映後、カメラマン大津幸四郎さんと映画監督飯塚俊男さんのトークライブもある。
なかなか観ることのできない作品ばかりだ。
 小見さん、よくもまあ、こういう映画を探してくるよ。
「みんな、特に若い人に元気を出して欲しいよね」ということだ。

《群馬ドキュメンタリー映画祭》
3月8日(金)~18日(月)
シネマまえばし 前橋市千代田町5丁目1番1号
前橋元気プラザ21別館3階
 
 
 午後、久しぶりに大地君が玉村町に帰ってきた。今後の大地君の展開を家族に知らせるためだが、地元での応援態勢も整える必要があるだろう。
 理解ある土田社長に中心になってお願いしたい。
 
  
 
 
 
 
 
 
 

2013年2月13日水曜日

郷土の祭りから護憲集会へ

上福島のすみつけ祭り
上新田の獅子舞
カメラをまわす藤橋監督

講演する内田弁護士

 11日は朝から、上福島で行われている「奇祭」すみつけ祭りの様子をそーっと見に行ったが、すぐに御用となり、すみを付けられた。
 この祭りへの関心は高いらしく、近在からカメラを持った多くの人がその様子をカメラに写していた。
 その後、上新田へ行き、雪が少し舞う中での荘厳な獅子舞を拝見。
 町が用意した観光バスで30人ほどの人達が参加、「獅子舞」「春鍬祭り」「すみつけ祭り」の3ケ所を回る企画も順調な様子。
 
 
 映画づくりのため藤橋誠監督も撮影に入り、上新田では獅子舞の責任者である須永さんからそのいわれなどを聞かせていただいた。
 
 一日に3つの祭りが重なるので忙しい一日だったが、午後はそれぞれまた違う用事もあり、監督はユナイテッド・シネマ前橋へ、私は前橋総合福祉会館での「危ないぞ、新政権。憲法・教育・原発・・・2.11市民の集い」へ向かった。

 憲法を考える時、必須なのは明治以来の歴史を真っ正面から受け止めることだろう。
 幾度となく大きな戦争を繰り返し、特に第二次大戦ではアジア諸国の2000万人に及ぶ人々を死に追いやり、自国民も310万死んでいった。
 この侵略戦争の事実に向き合えば、今日の過酷な国際状況でも、戦争により解決、決着を付けるなどという発想はできないはずだ。
 戦争によって一切が解決,決着できないことは、戦後から70年近く経ってもその傷跡は消えず、国交断絶状態の国すらあることからも理解できるだろう。
 内田雅敏弁護士の思いが伝わる講演だった。

 集会後、弱ってきた梅が甦るよう利根川沿いにある小さな梅林に炭を撒いた。

2013年2月11日月曜日

冬の早滝

少女のシルエットにウットリ
滝はこの高さ
見事なつらら
こういうところを30分ほど歩けば早滝。
途中にある凍てついた塩沢ダム湖




 時間がとれ、且つ晴天と来ればこの季節、雪山か早滝、ということで昼前、早速、動き出した。
病気以外は家に居られない性格らしい。
 ららん藤岡でビビンバを食べ、1時間後には現地に到着。
ゆっくり歩いて30分ほどの山中にある早滝へ。
 何年か前、日野から神流町へドライブをしながら偶然見つけた早滝だが、何回行っても人に会ったことはなかった。
 しかし、好天のためか、今日は家族連れやカメラを抱えた人たち10人ほどに会った。
 滝を凍らす冬の寒さだが、今年は上の部分はまだ凍っていない。これからだろうか。
 夏の早滝の滝壺で滝に打たれたこともある。
 
 
 そこで思いついた。
夏になったら、富士吉田市で昼食にうどんを食べ、忍野八海で富士山を背景にわき水を楽しみ、その後、青木ヶ原樹海に分け入り、森林浴を過ごす。樹海が気に入った人はずーっと滞在してもいいという日帰り旅行でも企画しようか。
 秋山局長にお願いすれば、愉快な企画ができると思う。
ぼちぼち彼の地への入り口も探さなくては。
 出入り自由、とにかく好きに生きてやれ。
 
 
 



2013年2月9日土曜日

冬の時、確乎不抜の志を立てよ/小慧社中展

ドーンと小慧社中展




作品を背景に羽鳥さんとパチリ


 第1回小慧社中展がいよいよ8日からということで、初日の8日、高崎シテイーギャラリーに行った。
羽鳥小慧先生とお会いするのはまだ二度目。
 最初に会ったのは昨年、玉村町産業祭の折り、赤煉瓦倉庫での書道展での作品に眼を奪われ、初対面の羽鳥さんの好奇心一杯の話と真っ直ぐな人柄に注目していた。
 すでに中国には20回以上行っているという。だから中国人の特徴も良くつかんでいて、非常に学ぶところが多い。
 
 漢字を書くことは単に漢字を覚えることだけでなく、その生まれまでさかのぼり、人間と自然界の繋がりまで感じ取る感性が磨かれるのではないかと、私は思っている。
 何せ、全く筆を手にしたこともないに等しい自分にとり、墨をすり、筆につけ、紙に書き付ける作業は、無心を求められるということは理解できる。
邪念があれば精神集中ができず、気持ちの通わないものになってしまう。
 心を動かす書は、素人目でもわかる。
今日、日中間に軋轢が生じているが、中国の歴史を書を通じて知った羽鳥さんには、日中間の友好にたじろぎはない。
人々の交流こそが政治を正しい方向に動かす。
 朝鮮半島の北側地域に行きたい、との話に、是非とも同行したいと申し入れた。
 羽鳥塾で学んでいる人の中には、私の知り合いも何人かいた。どれも感動ものの書をしたためていた。
〈冬の時、確乎不抜の志を立てよ〉という言葉が目にとまった。

【小慧社中展】
高崎シテイーギャラリー第2展示室で2月12日(火)まで開催
時間 午前10時から午後6時
是非 足を運んで欲しい。

 その後、早速〈冬の時、確乎不抜の志を立てよ〉を実践しようとの思いで、高崎駅西口で毎週金曜日に行われている脱原発集会に向かった。
 会場まであと2分ほどのところで、携帯に萬寿屋の社長からの電話。高島屋近くの焼き鳥屋で知り合いと飲んでいるという。
「少しだけでいいから来てよ」との誘いに、断るのも悪いので7時までつきあうことにした。
 ここにも味のある人たちが集っていて、話も弾み酒も進む。
さて時間なのでこれから駅前集会に、と意志の固いところを示し席を立とうとすると、「酒を飲んでそんな大切な集会に行っては失礼になるから、今夜は飲みましょうよ」と大勢さんに説得され、はあ、ということで最後までつきあってしまった。
〈冬の時、確乎不抜の志を立てよ〉
にわか決意のなんと頼りない事よ。
 
 


2013年2月6日水曜日

3月3日(日)伴英幸(原子力資料情報室)講演会・前橋

 

節分草・撮影 田中正巳










 



 
 3月10日(日)の<さよなら原発アクション>は高崎市城址公園で大規模に開催される予定だが、その一週間前の3日、前橋市総合福祉会館で原子力資料情報室共同代表の伴英幸さんの講演会が開かれる。この講演会で勢いをつけよう。

 原発事故は全く終わっていない。
調べてみれば、これまで活断層の上に原発を造り続けてきたのではないか。この一点だけとっても原発推進など万死に値する。
人間と原発は共存しえない。
 トコトン原発の危険性を暴きだし、全原発廃炉に向けた大運動を造りだそう。

 《伴英幸講演会》
「福島第一原発事故・2年目の実態」
(何が起こり、これからどうなるのか)
会場 前橋市総合福祉会館
    (前橋市日吉町2-17-10)
3月3日(日)午後1時30分開場
            2時開演

 ここまで書き終えたら深町先輩から電話。
 「同人誌のようなものの原稿を5枚ほど書いたのだが、手書きでは受け付けてくれないので、誰かパソコン入力してくれる人いないかねえ、五料産業の社長は忙しいだろうから、原発学習会の人で誰かいませんか」。
 そういうことは自分で交渉してください、とキッパリ返答。
 直後の再電話。
「門真市の戸田ひさよし議員のこと知ってるかい、立派な人だねえ。
 彼に情報をくださいと言ったら、パソコン買ってインターネットで情報を見てください、と言われたけど、俺、遅れてる?」
 完璧に遅れています、とすかさず返答。

 変人相談室のようだが、深町先輩、人も悪くないし、思いも強いのだけど、娑婆と相当のズレがあるご様子、回りと軋轢が生まれなければ、と気になる。え、実際、軋轢だらけ!?
 彼は完璧に善人の部類です。告白すると、こういう絶滅危惧種的人間好きです。



 
   

2013年2月5日火曜日

突然の還暦祝いに動揺

突然の贈り物にマサオ・感激











 ホルモン屋のマスターから先週「4日は空いてる?」と聞かれ「夜なら大丈夫ですよ」と答えた結果が写真の通りとなってしまった。
 新町の焼き肉の店・大邱苑まで事務所から歩いて1時間10分ほど。
 思ったより時間がかかったため、20分ほど遅れての到着。
新年会だろうと思っていたが、様子が違う。まだビールを飲み出していない。
 直後に土田君も到着、ピンクの袋に入ったローター式マッサージ器を差し出し「こりをほぐしてください。いろんなとこに使えます」と。
 そして在日の友人たちからきれいな花束などをいただき、「還暦の祝い」ということがわかった。
 こういうのは柄じゃないので照れます。
しかし、思えばこの年までよくもまあ生きてきたものと思うし、感覚もまだまだ若い事を実感する。
 余生はより自由に生きるつもりだ。
戦後の意味を改めて問い返し、戦争・敵対から平和・友好・共生への本格的な歩みを、厳しい現在の状況だからこそ開始しなければならない。
 人は自ら望んで生れた人はいないが、誰もが望まれて生れてきたことを考えれば、誰もが寿命を全うできる社会を目指すのはこれも自然のことだ。
 

2013年2月2日土曜日

「報道の自由度」日本53位に大後退・・「国境なき記者団」

 1月31日、ジャーナリストの国際団体「国境なき記者団」(パリ)による、国や地域ごとにどれだけ自由な報道が認められているかを表す「報道の自由度」が発表された。
 これによると、昨年は22位だった日本が53位に急落した。
エルサルバドル、南アフリカのボツワナ、台湾、韓国よりも日本は報道の自由がないという結果になった。
 主催団体からは、「日本は福島原発事故について、透明性に欠け、個別取材に対して政府などから開示される情報があまりにも限られている」「例年は上位に入っている日本の評価が急落したことは、警鐘が鳴らされたものと受け止めるべき」と指摘されている。
 事故の収束活動はこれからであり、事故原発の廃炉への道はまだ経験のないことであり、どのくらいの期間を要するか実際のところわかっていない。

 そんな中、震災復興したことを世界に示すとして、「東京オリンピック」の開催に政府、東京都は血道を上げている。こんな欺瞞があるだろうか。
 東京が安全なら震災被災地を置いてきぼりにしてお祭り騒ぎをしていいというのか。
 被災者は酷寒・酷暑の厳しい季節にさらされ、生活の再建こそを望んでいるのであり、安全地帯で開催されるオリンピックなどに関心を寄せている余力はない。
 どうしてもオリンピックを誘致したいなら福島・仙台・岩手で開催したらいい。
 原発事故を過小評価し、覆い隠そうとするかのような報道姿勢にたいして、「国境なき記者団」は正当な警鐘を鳴らした。

 午前は群馬会館で毎週土曜日午前に開かれている「原発止めよう・群馬」主催の原発勉強会に参加した。原発事故以来、毎週継続しているというからすごいことと思う。
 田島先生のネタが尽きないのには驚嘆の他ない。


一度いらしてください。乳頭温泉郷「妙の湯」の露天風呂(撮影・田中正巳の兄)

2013年1月29日火曜日

県立女子大学での映画「漂泊」説明会

監督の話に関心を向ける学生たち
映画の製作を具体的に話す藤橋監督
 藤橋誠監督が参加しての映画「漂泊」の説明会が群馬県立女子大学で開催された。
 大学の講義の中に組み入れていただいた形での催しだったので、それなりの学生の参加があった。
 この映画、主人公は県立女子大生という設定でもあり、できれば現役女子大生に参加して欲しいと願っている。
 映画製作に出演者として参加するということになれば、それは青春期の思い出として生涯を豊かにすることだろう。
 まだまだ多くの人たちの主体的参加に期待したい。
勿論、配役は学生だけではないので一般男女の応募も求めている。

2013年1月27日日曜日

3日連続の新年会

下田敏江の歌をバックに密議を交わす両御大


 
小川晶、心に響く新年のあいさつ




 24日、25日、26日と新年会が続いた。それでも議長時代に比べれば格段、身体が楽になった正月でもある。
 24日は伊勢崎市内で連合伊勢崎地域協議会の新年会、ここは例年になく大勢の参加だった。
 二回目の当選をして間もない五十嵐市長も参加。
こんなことでいいのでしょうか、と思えるほどのビンゴゲームの盛り上がりはすごかった。
 春闘もこの勢いで闘って欲しい。物価ばかり上昇して、賃下げじゃ困ります。

 25日は、伊勢崎・佐波地区の桐生信用金庫の新年会、規模としては連合伊勢崎の新年会の比ではない。
なにせ力づくで地域からかき集めたのでは、と思えるほどの大盛会。
 挨拶では、安倍政権の景気対策に対する期待の声が聞こえたが、私はその後のことを考えると、「日本版・財政の崖」に直面することの危機感の方が大きく、全く期待していない。
 先輩、同僚の司法書士も何人か参加していて、久しぶりに交流の花を咲かせた。
「阿倍内閣の憲法改正は絶対認められない」と強い声を聞かされた。司法書士の憲法感覚はまだまだ鋭い。

 そして昨日は前橋市内で小川あきら県議の新年会。
小川さん、キチンとまとめてるな、という感じの締まった新年会だ。
 田辺誠さん、角田義一さんというご意見番が脇を固め、松村健助さんが舞台回しをする。
 彼女が世話になっている釘島弁護士、小渕弁護士がエールを送り、有能な女性スタッフが相当規模でフォローする。
 そういう構図ができているから、忠治ファンの福島さんという曲者が一角を占める余地ができる。
大衆政治家の道を歩み出していけるのではないか。
 還暦の私の半分の年齢が、彼女に希望を持たせてくれている。
 自然の大きさに対する畏敬の念をしっかり持ち、時代の先読みと着実な歩みが安定感と信頼感を醸成する。
 うわべだけの薄っぺら議員の横行に辟易している私としては、全く新しい時代への露払いくらいはさせていただきます。


 
 

 

2013年1月23日水曜日

龍山墓地墓参団佐藤知也団長に聞く

 日本人にとって、戦争は遠い過去の話、と思いがちだが、そうではないことをこの記事により知ることができるだろう。
 当時、日本は、中国、朝鮮をはじめアジアの広範な地域で侵略戦争を展開していた。
敗戦の結果、彼の地に置いてきぼりにされた多くの日本人やそのまま眠っている遺骨もたくさんある。
 昨年、日本の墓地墓参団の入国が許された。その墓参団長の話が記事になり、私の元に届いたので、そのまま掲載する。
 歴史の事実を知り、現在の両国の敵対関係が緩和されることを望んでいるからだ。


【“平壌は第2の故郷実に67年ぶりの墓参/龍山墓地墓参団佐藤知也団長に聞く】という記事が友人から送られてきた。

 
日本敗戦直後の混乱で病気や飢えなどにより朝鮮半島北部で亡くなった日本人の遺骨問題で、神奈川県川崎市高津区在住の佐藤知也さん(81)を団長とする計16人の遺族らが昨年929日~104日まで訪朝。
101日には日本人2421人を埋葬したとされる朝鮮・平壌郊外の龍山墓地を訪れた。朝鮮には71カ所の日本人墓地があるといわれているが、遺族が墓参するのは戦後初めて。佐藤さんに話を聞いた。
  佐藤さんは技術者の父を持ち、1936年から敗戦後の1947年まで朝鮮に滞在、解放された朝鮮の変貌を見た貴重な証人でもある。特に、解放後の朝鮮の臨時政府が在留日本人学校に寄せた数々の支援について語りながら、、日本政府が今も、朝鮮高級学校生徒を「高校無償化」の適用からも除外している現状を批判し、「国連からも差別するなと勧告を受けているようだが、朝鮮政府が日本敗戦直後に、日本人や日本人学校にしてくれたことと比較しても全く恥ずかしい限りである」と語る。
朝鮮の人道的計らい
 龍山墓地は平壌郊外の再開発で戦後、2度移設されたという。一行は最初、龍山墓地が元あった場所を訪れた。現地に墓はなく、雑木林になっていたが、全員で黙祷(もくとう)した。この後、一行は北西に数キロ離れた現在の龍山墓地に移動。約500並んだ盛り土の墓の一つに、「龍山墓地諸精霊位 龍山墓地墓参団」と書かれた木製の墓標を立て、線香をあげて手を合わせた。団長の佐藤さんは墓に向かい、「皆様とお別れしてから67年。祖国を遠く離れた地で、さぞ寂しい思いをされていたことでしょう。心からおわびします」と話しかけ、言葉を何度も詰まらせた。居並ぶ朝鮮側の人々もハンカチに目を当てている人がいて、人の気持ちの優しさに触れたと佐藤さんは語る。この墓参団には佐藤さんの妻の和子さん(82)、兄の公也さん(83)も参加した。龍山墓地に埋葬された2421人の名簿を引き揚げの時持ち帰ったのは佐藤さんの父・信重さんだった。その後、この名簿をもとに佐藤さんは遺族探しをはじめたが、それが大手紙に報じられた結果、2006年に14件の遺族が判明した。そして、朝鮮民主主義人民共和国の人道的な計らいによって、昨年9月に戦後初めての龍山墓地への墓参団の訪問と繋がったのである。
佐藤さんは父・信重さんの赴任先朝鮮に、1936年、4歳のとき移住。家族とともに19487月に引き揚げるまで実に12年間を過ごした。信重さん(1902年~1981)は山形県生まれ。蔵前工高採鉱冶金科に学んだ。東京で自動車工場勤めなどをしていたが、30年代の大恐慌のあおりで勤務先が倒産、失業苦の後、朝鮮・平安北道の寧辺鉱山の開発事業に当るために、妻と21女の家族5人を連れ平壌に渡った。


12年過ごした平壌
佐藤さんは引き揚げから実に52年ぶりの20007月、妻と兄夫婦4人で訪朝。2002年に2回目、昨年が3回目の旅となった。とりわけ、00年の初訪朝についてはその著書「平壌で過ごした12年の日々」(光陽出版社)で、「北朝鮮の陸地が見えるころから、私の興奮はいやがうえにも増してきて、それが一気に爆発したかたちだ。『ここが平壌だ、ここが平壌だ』と、なかばうわ言のようにつぶやきながら、私は窓の外の景色を食い入るように見つめた。私は飛行機のタラップを降りたところで、誰も見ていなければ大地に口づけをしたい、とそんな映画のシーンのようなことも真剣に考えた」と興奮を隠し切れないほどの感動を綴った。00年の時に比べても昨年9月に見た平壌は、高層マンションが建ち並び、車の数も圧倒的に増えたと目を見張る変貌ぶりに驚く。妻の和子さんは「ごみ一つ落ちていない街の美しさにびっくり」と感想を語りながら、墓参団が滞在したのが、秋夕(930日、中秋の名月)のお祝いの日だったことに触れ、先祖のお墓参り、家族や親戚と食事したりして平壌市民が伝統を守りながら過ごしていることに感銘を受けたと述べた。


佐藤さんによれば、1945815日の日本敗戦時、平壌には旧満州や朝鮮北東部から逃れてきた日本人避難民で溢れ、その数は34万人ほど。「劣悪な生活環境の中で飢えと寒さ、伝染病、発疹チフスによって、多くの人々が亡くなった」と指摘し、死亡者の埋葬に困っていた日本人会の要請に応えて朝鮮当局は、大同郡龍山面の朝鮮人墓地を提供したという。ここに2400余人の日本人死亡者が埋葬された。多くがか弱い乳幼児、子ども、年寄り、女性だった。佐藤さんは「これが国策によって、大陸に送り出された私たち日本人の末路だった。この人たちは普通の生活をしていれば命を落とすことはなかった。日本の戦争の犠牲者だといって間違いない」と語る。
815日の一週間前後は、まだ、鉄道のダイヤが以前と同じように動いていたため、高級将校や幹部たちの家族がいっせいにソウルに向かって列車で南下していった。その後、北側に入ったソ連軍と南側に進駐した米軍の間で38度線を境界線にすることを決めたため、南北間の往来ができなくなった。満州から着の身着のままで避難してきた人々は、平壌や元山で足止めされていたと、当時を振り返る。「われわれ、もともと平壌で住んでいた日本人の家は、朝鮮当局に接収されることになった。比較的大きな家で何世帯かが集まって暮らすようになった。我が家が812日に受け入れた満州避難民の山本さん一家も、夫が関東軍の将校ということであった。敗戦後、山本さんの家族は24日にわが家を出て、帰国する集団とともに南下していった」と当時のできごとを鮮明に思い出す。
「それにしても、関東軍の上層部や将校たちは、敗戦とともに一般の日本人を保護するのではなく、自分たちの家族や知己を真っ先に逃したといって非難されているが、この事例もまさにその一つだ」と佐藤さん。
「オエライさんたちの家族はうまく逃げて、下っ端の連中は生きるが死ぬかのひどい目にあう。避難民の人たちはその年の冬を越すのが苦しかった。ソ連の民生部が食料の手配をしていたようだが、朝夕にコーリャンのおかゆを一杯ずつ。避難民たちは朝鮮には生活の基盤がもともとない満州からの引き揚げ者だから」


主席よりも高かった父の給料
日本敗戦から一年ほど経った頃、佐藤さんの父をはじめ高級技術者ら900人が、金日成北朝鮮臨時人民委員会委員長の要請で、主要の工場、企業所、つまり元の職場に残って、建て直しを図ろうと務めていた。その家族を合わせると2千人はいたという。技術者たちがなぜ、朝鮮に残ることになったのかその事情はこうだ。
日本の植民地統治時代は、朝鮮のあらゆる産業の基幹は統治者である日本人が握っていた。もし、その引継ぎを朝鮮側にせず日本人技術者が去ってしまえば、朝鮮の産業は打撃を受けざるを得ない。解放後、朝鮮のトップは、「当面、日本の技術者の力を借りよう」と政治的に判断したものだと佐藤さんは推察している。194681日、北朝鮮臨時人民委員会の金日成委員長署名の「北朝鮮技術者徴用令」が出され、つづいて臨時人民委員会から「日本人技術者確保令」が公布された。そのため、父・信重さんも炭鉱冶金の技術者として、残ることになった。その後、101日には日本人技術者たちは「工業技術総連盟日本人部」として事務所を構えることになった。場所は今の労働新聞社の裏手の辺りだった。本部長は常塚秀次・朝鮮火薬平壌支店長、信重さんは次長に就任した。兄・公也さんは事務職員に採用された。

常塚本部長が金日成委員長に会って、日本人技術者たちの処遇について要請をしたり、金日成委員長からは「よろしく頼む」とのあいさつがあったという。日本人技術者たちも、戦争の反省もあり、朝鮮の産業復興と朝鮮人の技術教育に一生懸命あたろうと情熱を抱く者もいた。その理想を抱いて残留した人がかなりいたとのも事実であった。日本人技術者に対する待遇も破格の扱いであった。最高位の金日成委員長の給与が4千円なのに常塚本部長と父は6千円というからどれだけ優遇を受けたかわかる。人民委員会の課長クラスが千500円なのに、16歳の代用教員の佐藤さんの給与は2千円。月給のほかに白米が一人147勺、家族は一人12合の配給、酒、たばこなどの嗜好品や調味料、石鹸、衣類などの生活必需品の支給、さらに住宅が提供されて、朝鮮最高の待遇を与えられたのだ。また、日本人学校に通う児童・生徒たちの交通費も全額、朝鮮側が負担してくれたという。
さらに、「日本人部」結成半年後の1947428日、平壌では「日本人技術者家族慰安会」が平壌で開かれた。主催は「日本人部」で、後援は「北朝鮮工業技術総連盟」と北朝鮮劇場委員会。さらに北朝鮮臨時人民委員会宣伝部も賛同するなど、まさに臨時政府機関が総力あげてバックアップしてくれたという。
当時の記録を詳細に残していた兄・公也さんの記録によれば、この年に北朝鮮臨時人民委員会が「日本人部」に支出した財政は、産業局から230万円、財政局から子弟教育費として200万円になり、これは、「日本人部」が属している「北朝鮮工業技術総連盟」の年間予算30万円に比べるとまさに破格の扱いであったことが分かる。北朝鮮側が、日本人技術者をいかに重要視していたかということでもある。
まだ、朝鮮にとっては解放間もない時期であり、決して食糧事情もよくはなかった。日本人技術者があるときに、「こんなに優遇されていいのか」と聞いたら、朝鮮当局からは「私たちは、あの難事業の土地改革もやり遂げた。産業部門はさらに建国のために大事な部門で、そこには日本人技術者の力がどうしても必要だ。このことは一般大衆もみんな知っている」と明快に答えた。その言葉通り、街の人々はみな日本人技術者、家族たちに親切で、敗戦前のように日本人を刺すような冷たい目で見るのではなく、温かく接してくれるようになっていたと振り返る。
佐藤さんは、日本政府が今も、朝鮮高級学校生徒を「高校無償化」の適用からも除外している現状を批判しながら、「国連からも差別するなと勧告を受けているようだが、朝鮮臨時政府が日本敗戦直後に、日本人や日本人学校にしてくれたことと比較しても全く恥ずかしい限りである」と語る。
「日本の植民地時代に日本に痛めつけられて、憎悪や反感もあったはずなのに、軍国主義は憎むが一般の人々には分けてみるとおっしゃられた。戦争直後にあれだけのことを言えるところが立派だと、当時も思っていた。お国の場合は基本が違う。平壌では人民委員会の選挙もあったが、私たちは民主主義のみの字も知らないから、人々が楽しそうに選挙に行く様子を見て、本当に驚いたものだ」


半世紀経っても読める朝鮮語
  佐藤さんは「朝鮮の人たちとの関わり方が一番心に残っている」と述べながら、「日本の敗戦までは朝鮮人と交流したり話したりという記憶がない。それほど意識はしなかったが、私も植民地支配者の立場に立っていて、優越感を抱いていたかもしれない。敗戦後は立場が逆転したが、一時の混乱期を除き、私たちは朝鮮人から報復とか差別扱いを受けることはなかった」と述べた。また、当時の印象深いできごととして佐藤さんは、朝鮮語を習ったことをあげた。
「朝鮮語は今ではすっかり忘れてしまったが、1947年の後半から約半年間、金日成総合大学の学生たちを講師として、朝鮮語を習ったことがあった。『アーヤー、オーヨー』から始まって、ハングルの読み書きを習った。近所のオモニたちとの会話の過程で、ムル()、トウンムル(温水)、チャンムル(冷水)、スル()、サル()などの、日常用語は使っていたが、流暢に会話までするまではいかなかった。50年経ってもハングル文字を読めるが意味が分からない」
「朝鮮民主女性同盟という言葉も、労働党の関係者から教えてもらった。47年に結成大会が平壌で開かれた。『なんですか、女性同盟』って聞いたら、これからは解放された朝鮮の主人公として、新しい社会建設のために活動するんだよ、と教えてくれた。その翌年にわれわれ中学生も民青同盟を作った。あちこちで女性同盟や職業同盟などができた、それでよし、われわれもと言って作った記憶がある。もしかしたら、臨時人民委員会の教育局からサジェッションを受けたかもしれない。それで、兄・公也が初代委員長になった。あれは、歴史的なこと。兄貴はもう忘れているが」
「平壌で幼少期、少年期を過ごしたので、当時の遊び場であった大同江の川辺、牡丹峰辺りを歩くと懐かしい。今は大同江は水害を防ぐために西海閘門ができて、川幅が昔の倍になった。われわれが住んでいた頃は、チュチェ思想塔のある東大院区域、船橋区域の側が白い砂浜だった。私たちはそこで相撲とったり、シジミを取ったりした。もちろん泳いだりもして。今は幾重にも遊歩道が美しく造られているが、当時は土手があって、それを越えて川に下りて遊んだ。パンツ一枚で下駄を白浜に置いて泳いだ。ところが、干満の差が大きくで砂浜に置いていたパンツや下駄が流された思い出がある。牡丹峰の玄武門や乙密台は復元されたと聞いた。米軍の爆撃で破壊されたのだろう。牡丹峰の麓にある金日成競技場は昔は陸上総合競技場。戦時中はその場所で学校対抗の競技をやっていたので、よく覚えている。日本敗戦直後、金日成将軍が乗られた車列を見送ったことはある。道の端っこで人々が将軍は地方に行かれると噂していた」
「懐かしい大同橋は米軍の爆撃で落とされたと聞いたが、元の形で復元したと聞いた。昔の記憶によれば、大同橋は幅が1213mはあったと思う。両端に歩道があり、胸くらいの高さの欄干がずっとついていた。橋の中央部は市電のレールと車道がしめていた。長さは600m。アーチ型の橋梁が10個、波形に橋上に並んでいた。橋の欄干は真鍮の細い棒が10cm幅くらいについていたので、棒切れをそれに当てて歩くと、カラン、カランとじつにリズミカルな乾いた音がして、愉快な気持ちになったものだ。平壌第一中学校へ通うようになると朝晩、必ずここを歩いた。時々棒切れでカランカランと音をたてながら、眼下の流れを見つめて歩くのが当時の日課であった」
1943年に入ると、太平洋戦争は次第に戦況が傾いてきて、軍部は、飛行機や軍艦を造るためだといって、各家庭から金属製品を供出させた。それこそ、鍋、釜の類が隣組単位で山のように集められた。それから間もなく大同橋の真鍮の欄干も全部撤去されて、木製のものに替えられてしまった。しかし、この木製の欄干は傷みがひどくなり、欠けたりした。電車に乗れない貧しい朝鮮人やわれわれは、朝夕、この大同橋の狭い歩道を一緒になって歩いたが、欄干の壊れたところにさしかかると車道側に身を寄せて、恐る恐るという感じで歩を速めた。橋の高さは10m以上あったから、水面に落ちても、川原におちても、命を落とす危険性があった。実際、欄干欠落による事故の被害者は朝鮮人ばかりであった」
佐藤さんは今から考えてみると各家庭で使っている鍋、釜、人が使っている橋の欄干まで壊して軍に供出させていたこと自体、日本の敗戦は決定的であったことの証だったと指摘する。だが、軍国教育で、大本営発表ばかりの戦勝情報一色の中では、そんなことを想像する術もなかったと嘆く。
いまだに、多くの遺族の墓参りが実現していない現状について、佐藤さんは「今回、朝鮮政府の人道的な計らいで墓参りができたことに心から感謝している」と何度も口にしながら、日朝関係が1日も早く正常化してほしいと述べ、平壌は「懐かしい第二の故郷、機会があれば何度でも平壌に足を運んでみたいし、その土地の空間に身を置いてみたい」 との願いを語った。
                         (朴日粉)