みんな寿命を全うしようぜ

みんな寿命を全うしようぜ
西表島で会った昼の蝶

2010年7月29日木曜日

連合群馬議員墾談会の勉強会


毎年恒例の連合群馬議員墾談会の学習会が昨日伊香保で開催された。参院選も終わって間もないこともあり、さまざまな表情の見慣れた議員が集合した。隣は山田高崎市議、その隣は角倉県議ときたら、話は弾んでしまう。来年の選挙に向けての戦略づくりで忙しそうだ。

講演は「公契約」に関し、神奈川県地方自治研究センター事務局長の勝島行正さん、「個を大切にする介護について」社会福祉法人新生会理事長の原慶子さんが話した。

公契約は、自治体が関係して外部の人(法人)と契約を結ぶ際、その契約の先で仕事をする人のこと(待遇)を考えての内容にしなさい、というもの。新自由主義政策の広がりのなかで、労働者の待遇が極めて劣悪な状況に置かれていることに着目したもので、今後このような姿勢の条例をつくる自治体が増えることが望まれる。単なる競争入札で「安かろう・悪かろう」の公共仕事が増えているようにも聞く。社会全般が安売り競争をしているようでは、みんな疲れるだけで、社会の本来の力が衰退してしまう。新自由主義の過ちを意識している内容の深い講演だった。
 そして、原慶子さん、旧榛名町にある新生会理事長だが、私はこれまで知らなかった。介護、福祉だけでなく、思想、哲学、政治等に関しても信念を持った人だ。困難な状況を正面突破する力は相当な自信と経験がなければできない。弱者に対する姿勢がいい。後藤かつみ県議の声掛けもあり、「福祉実践と平和の思想」という原さんの書いた本を買い込み早速読みはじめた。例えば、いわゆる拉致問題に関しての考え方にも同調できる。こういう人が地域で福祉の実践をしていることは力強い限りだ。

2010年7月25日日曜日

企画「ブルーベリー摘み」



群馬朝鮮学校の生徒さんにブルーベリー摘み体験をしてもらう企画の一環として、安中市内にあるブルーベリー畑を訪ねた。李和雨さんと学校側から金先生が参加し、前日この話を聞いた土田、栗原両君が友情参加。
この時期、どこへ行っても暑いことこのうえない。手入れのされた畑に入って、その場で食べながらのブルーベリー摘みは、格別のものがある。お盆までがピークだそうなので、子ども達の夏休みとの兼ね合いはどうかと思うが、実現することを楽しみにしたい。
 ここでは月に一度、参加者によるマーケットもしていて、昨日は、「南京玉すだれ」の実演もあり、なかなか盛況だった。地元の若い主婦層が主体のようで、地力を感じさせた。

 5時からは「玉村ふるさと祭り」初日のパレード、猛暑の仲、総勢19名、甲冑武者の出で立ちで参加、その後、小泉地区の夏祭りに顔を出し、地域の人たちとビールを飲みながらの四方山話。夕立の気配を敏感に感じ取り、自転車で家に着くと同時に大雨と雷の襲来、間一髪で間に合ったが、祭りは後の祭りになったろう。

 それにしても極端な猛暑の連続と何日かごとの夕立と大雨、どちらもこれまでの気候バランスとは明らかに違う。猛暑の連続で一方に振れきった時、雷と大雨で振れきった振り子を元に戻すような際だった天候バランスになってしまったのか。
 極端な過剰生産状況を大恐慌と戦争により調整、平準化させる資本主義社会のようになっては困る。

2010年7月23日金曜日

元死刑囚金賢姫を国賓級で遇し家族会を慰めるお気楽な政府

 あきれた話はいくつもあるが、これまたマンガのような事をする政府には、絶句しかない。
金賢姫はすでに終わった人で、彼女が拉致事件に関し、何も知らない事は周知の事実、その彼女を国賓級で招いて、「めぐみさんはきっと生きていますよ」と言わせ、家族会の人を慰める為だけに、膨大な税金を使い、果ては、遊覧飛行までプレゼントする中井と政府はどこまで腐り果てているのかと思わざるを得ない。
こんな猿芝居にも劣るイベントにはさすがの家族会も辟易だろう。全く国際社会の笑いものだ。

 北朝鮮に経済制裁ばかりしているので、外交関係は途絶した結果、こんな茶番にもならないことになってしまった。民主党政府も自民党政府と駄目さ加減の競争している場合じゃないだろう。
 特に、北朝鮮に関しては、多くの人が感情的になることに注目する必要がある。突き詰めると、言われなき差別ではなく、むしろ、「意識したくない自覚」のようなものがあることに気づく。その後ろめたさが逆に「果てしない差別」となり群集心理の中でいっそう増幅され、政治もその流れをあおるように運動していく。

 何回でも言うが、この問題を本気で解決しようと思えば、今の環境を変えなければならない。今年は「日韓併合から100年」という節目の年だ。少なくともその前後からの日本と朝鮮の歴史を少しぐらい知っておかないと対応は出来ない。植民地政策で朝鮮人をどのように扱ったのか。内鮮一体とし、言葉、名前、宗教(神道)まで強制していった。日本兵として、太平洋戦争に動員されていった。日本兵として特攻隊員になり死んでいった朝鮮人もいる。
日本人は加害者と言うことをまず一次的に自覚すべきだ。
1923年の関東大震災に際し、「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」とデマを流され数千人の朝鮮人が日本人により虐殺されたことに関し、日本政府はどれほどの真相解明をし、責任を取ったというのか。

 数年前、家族会の横田さんが韓国へ行き、拉致問題の解決の協力を求めたとき、当時ウリ党の国会議員の一人は返事を書いた。「朝鮮半島のたくさんのめぐみさんを返して」という内容だった。植民地支配の中、どれほどの朝鮮人が日本に拉致・連行されたか想像する力を持って欲しい。相手の立場になれなくて交渉などできるわけがない。

 悪意としか思えない対応ばかりしている今の状況で、事態が解決に向くはずがない。歴史に学べ。それしかない。秀吉の朝鮮侵略の後、江戸幕府は戦後処理使節として朝鮮通信使を受け入れた。江戸時代には12回の通信使が日本と朝鮮の文化、学問そして人間同士の交流に大きく寄与した歴史的事実をもっと知るべきだ。100年前は険悪な関係だったが、150年前は本当の信頼関係と国交を持っていた二つの国だ。

懸案事項を解決するための本気さが問われている。問われているのは、我々日本人とその政府だ。高校授業料の無料化に際し、朝鮮学校だけ排除するなどという姑息な事は即やめるべきだ。

2010年7月20日火曜日

14年ぶりの一茶は暑い夏




 小林一茶は、その不遇さもありとても気になる存在だ。3度ほど訪ねているが、最後に訪ねたのは、私の父親が闘病中だったが、家族旅行もできた14年程前のこと。家族で妙高高原へ行く途中だった。今のような立派な記念館ではなかった。行く季節はなぜかいつも夏。一茶記念館には、柏原町の一茶にかける強い思いを感じさせる展示品の数々がある。
 ナウマン象の模型を見て野尻湖を一周し、信濃町駅近くのそば屋で信州そばを食べ、小布施町でお茶を飲み、連休最終日の渋滞を避けるため、少し早めに高速を降り、吉井町のうまいとんかつの店で下山祝いをし、完璧な一日だった。20年前は、毎週、新潟の海に行き、良寛さんにまつわる地を訪ねていたが、海に行って泳ぐ気力がなくなった。やはり年かねえ。
 
 
   木々おのおの 名乗り出たる 木の芽かな
         (希望も意欲も感じさせる一茶27才の作)

 弥太郎(一茶)は父・弥五兵衛の後妻さつとの関係が悪化したため、父により江戸に奉公に出された。江戸で誹諧師として身を立てようとしたが、そう簡単なことではない。
40才近くなって久しぶりに実家へ帰った一茶に、年老いた弥五兵衛は、「財産二つ分け」の遺言状を一茶の弟・仙六、義母さつの反対を押し切って書き「大事にしまっておけ」と一茶に託した。田畑を大きくしたのは父の働きだけでなく、弟や義母に負うところも多いことを知っていた一茶は、遠慮をしていたが、長男である一茶を江戸に出さざるを得なかった父は、まだ独り者で生活も不安定な一茶に対し強い贖罪の気持ちから遺言状を書いたのだった。
父の死後、江戸での生活に見切りをつけた一茶は苦しさもあり実家に帰り、遺言状のとおりの財産分けを主張する。しかし、誰もがそれは無理という。本家の弥市の努力や村役人立ち会いの上での話し合いもつかないなか、名主の嘉右エ門を呼んだがこれでも話がつかない。最後に遺言状を手に一歩も退かない一茶と集まった者達に、「遺言状というものは重いもの、出るところへ出ればこれがものをいう」と嘉右エ門は裁定を下した。
具体的な財産分けでも大もめし、菩提寺明専寺の住職に入ってもらわねばならなかった。

古里やよるも障るも茨の花
(古里に帰り、親戚一同と一悶着して割り込んでいかねばならない状況の時作った歌)

そして一茶52才の時28才の菊と結婚、歌仲間の德左エ門が「江戸帰りの宗匠で、いまにこのあたり一帯に一茶社中をたてる人だ」といって口説いてくれた。
長男・千太郎、長女・さと、二男・石太郎、三男・金三郎と次々子どもが生まれた。
妻を持ち子どもをもっていい句も生まれた。

あの月を とってくれろと 泣く子哉 (作51才)

短夜や くねり盛りの 女郎花 (作51才)
(何とも色っぽい歌だ)

我と来て 遊ぶや 親のない雀 (作52才)

ふしぎ也 生まれた家で 今日の月(作54才)

這へ笑へ 二つになるぞ 今朝からは (作56才)

目出度さも ちう位也 おらが春 (作57才)

雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る (作57才)

あるとき夫婦喧嘩で傷ついた菊はとうとう実家に帰ってしまった。数日後の日暮れ、人恋しくなった一茶は、柏原から野尻に向けて歩いていた。女房の尻を追っかけるようにしてこんなところまで来てしまった自分に腹が立ったが、今夜も帰らない菊にも腹が立った。そんなとき街道をこちらに近づく足音がする。「おとうさん、迎えに来てくれたかね」。菊と分かった一茶は不意に目が潤んだ。「仲ようせんとな」。
その夜、一茶は「お前は菩薩さまじゃ」と言って、ひとつ床の菊を抱いた。「私が観音さまじゃ、なぜ悪口言って泣かせた?ん?」。夜の深まりのなか、54才の男と30才の女がまるで20代の男女のように騒々しく睦み合った。
翌朝、机の句帳を取り出し、昨日8月8日の項を書いた。「晴、夕方一雨。雲竜寺葬。菊女帰」と書いた。しばらく考えた後、「夜五交合」と書き足した。
この4文字を追加したために、一茶は後世で「荒淫」とも「好き者」とも言われる。4回やろうが5回やろうが、それはたいしたもんだとは確かに思うが、一茶と菊にとり、肉体的にも感情的にもそれだけの回数をこなす舞台が整っていたということだろう。それに尽きる。
しかし、足を悪くし、杖を使わずに歩くのに苦労していた一茶に不幸は襲いかかる。
生まれた子どもが、いずれも幼くして亡くなり、菊も37才の若さで亡くなる。

ともかくも あなた任せの 年の暮れ (作57才)

木枯らしや 廿四文の 遊女小屋 (作57才)

春立つや 二軒つなぎの 片住居 (作58才)

やれ打つな はえが手をする 足をする (作59才)

(どの歌もやたらとしんみりさせたり、小さなものを見たりと一茶の置かれた悲観と貧困の状況を現している。)

一茶62才で、雪という女性と再婚するも、酒を飲み過ぎ寝小便をするなどし、ふた月あまりで離縁。
雪が去った1ケ月ほどした頃、一茶は二番中気をわずらい言葉も不自由になった。門人の家から家へ転々と手渡され12月になり柏原の自宅に戻った。面倒を見てくれる人はいない。

寒空の どこでとしよる 旅乞食(作62才)

そして最後の結婚相手は雪が去ってから2年後、自分の身の始末も満足にできない一茶に嫁いだやをは32才。柏原の小升屋に乳母となって雇われていたが、柏原で一番の大地主中村徳左衛門の三男との間にできた2才になる倉吉を連れてきた。一茶はやをの素性に菊を重ね合わせた。
やをは年寄りの一茶に愛情を持ち、家のことも一茶の面倒もみた。一茶はそのやをに身ごもらせ65才で死んだ。(54才での回数よりこの方が驚きだ。)
枕元では、やをは一茶の手を握りながら泣き、義母さつも看取った。翌年生まれた娘・やたは46才まで生きる。


山寺は碁の秋 里は麦の秋 (作63才)

花の影 寝まじ 未来が恐ろしき(作65才)

「わしを誰もほめてはくれなんだ。信濃の百姓の句だという。わしやの、やを、森羅万象みたいな句にしてやった。月だの、花だのと言わん。馬から虱、そこらを走り回っているガキめらまで、みんな句に詠んでやった。ざっと1万、いや2万句じゃぞ。そんなに沢山に句を吐いた人はおるまい」「えらいもんだねえ、じいちゃん」}{一茶・藤沢周平}

映画「川の底からこんにちは」で主人公が「どうせ私は中の下よ」と叫び、「サイタマノラッパー」も「中の下」の世界だ。一茶自身、「中の下」?
なによりその時代はほとんどの人々は貧しかった。一茶に感心があると言うことは、一茶と周辺の人々、その時代を生きた人々に思いを寄せること。そして最後に解ることは、中も上も下もありゃしないということ。
誰もが時間の同じ刻みのなかで、一度の人生をそれぞれ生きているというだけのこと。
「中の下 それがどうした それでどうした」

2010年7月17日土曜日

芝根地区区長と議員の懇親会



芝根地区の区長と議員の懇親会が川井の天狗で開かれた。区長8人、議員4人の12人で年に一度のペースで開かれている。酒も入っているので、かえって深い話ができる。区長は1年代わりのところが多いので継続性という点では弱い感じがする。地区の代表ということを考えると、現在の町との役割分担を見直す時期に来ているように思う。しかし、地域主権の時代に対応できる区と区長の役割を考える場合、そういう意識転換ができる区になっているかということが一番大事なところ。まだまだ先のことだろう。政府だって混乱しているのに、小規模自治体の区にそのことを求める方が無理な話だ。
 途中、雷で停電したり、大雨になったりしたが有意義な懇親会だった。
 17日は花火大会、山ノ内町からもお客さんが来る。果たして天候はと心配したが、花火には最高の夜となり、どれほどの人が参加したのかは分からない。山ノ内町のみなさんはご満悦の様子で帰途についた。

2010年7月15日木曜日

玉村町の戦争遺跡調査報告書について

3ケ月ぶりの玉村町九条の会の会議に参加した。
参議院選の結果やら町政の問題を話ながら、本題に入っていった。
 2007年11月から2010年春にかけて玉村町の戦争遺跡調査をしていた九条の会調査小委員会がまとめている戦争遺跡調査記録の現状報告を受けながら、今後の展開を話し合った。今は荒削りだが、完成するとなかなか本格的歴史書にでもなるのではないかと思える程の内容だ。町中を歩き回り戦跡調査をした足跡がよく出ている。文章は大墳先生、地図図面は金子修さんの力作だ。まだまだ途中の段階だが、参加者の意気込みは並々ならぬものがある。
 いずれ本として出版されたら、戦争がこの町にもどれほどの被害をもたらしていたかと言うことがよく理解されると思う。改憲に向けて動き出そうとしている政治の動きを止めるためにも大事な事業だ。

2010年7月12日月曜日

「命を大事にする政治」をやってみろ

昨日の選挙結果はボロボロだ。群馬県1議席は断然自民党と言うことがよーく分かった。理由はともあれ自民党に投票する人が55万人もいるとは驚きと言うほかない。自民党はその歴史的使命をすでに終えていると考えているが、民主党があまりに力なく頼りないため、自民党に戻らざるを得ない、と思っている人が多いと言うことだろう。小寺さんも落選、一方、選挙戦間近に「みんなの党」から出馬した上野が当選とは、神のいたずらにしても、度を越している。また、社民2議席、共産3議席ではどうにもならない。保坂も次点。夢も希望もない結果だけど、そこから希望を見いだすとすれば、この混乱は政界再編の機会到来と言うことだろう。しかし、期待できる政党がないというのが、頭の痛い所。大きなため息をつきながらも、それでも歴史は進んでいく。あきらめたら終わりだと言うことを歴史は教えている。

柔ちゃんをはじめとする国会議員連中に観せたいものだ、「二十四の瞳」。久しぶりにシネマまえばしに行き、はじめて観た坪井榮原作「二十四の瞳」だが、泣けてきた。大石先生と生徒達の20年以上にわたるふれあいを戦争という時代背景の中で描いている名作だ。
民主党政権は命を大事にする政治を本気でしてみろ。普天間基地の辺野古移設は出ないはずだ。

2010年7月11日日曜日

小政党にとり比例区しか議席獲得の機会はない

投票日、1時間ほど利根川サイクリングロードを散歩した後、箱石の投票所で投票をした。選挙区はどうしても大政党の議席争いとなり、小政党が入り込めない。民主党の議員の中にも結構、光っている議員は全国的にはたくさんいるが、普天間基地問題で明らかなように、全体としての声にならない。大政党のなかで埋没してしまっている感がある。
 私は、それでよし、とはしない。国民の本当の声を国政に、と考えたらこれまた大変だけど、比例代表のなかで全国からの声を結集し、議席獲得するしかない。小政党に議席を与えてこそ参院の存在価値がある。新自由主義に反対する政党の議席を一つでも多く積み上げること、これが今回の選挙の課題だ。

今日は、午後から、映画「クロッシング」をシネマテーク高崎で観た後、シテイーギャラリーで14日まで開催されている「獄中35年・星野文昭絵画展」に足を運び、夜は富岡ゆきお事務所で多くの仲間と開票を待ちたい。とにかくぶ厚い自民党の壁と果敢に闘い抜いた富岡本人と選対、その仲間達を讃えたい。

2010年7月6日火曜日

新自由主義からの転換をかけた参院選挙のはずだが



いよいよ参院選も終盤、富岡ゆきおも疾走しているが、なにせ自民党王国・群馬でどこまで攻めきれるかが焦点になりつつある。暑い夏だがとことんやろう。富岡本人はリベラルな思考の持ち主なので精一杯応援したい。
高崎集会までの時間調整で古くからの悪友・上原宅のパソコンで打ち込んでいる。

音楽センターでの集会は満席で熱気あふれたものになった。安住淳民主党選対委員長が駆けつけ、富岡本人を激励した。本人は一日で7時間自転車に乗ったという。大丈夫かいな。自民党に体全体でぶつかっている感じだ。大きな時代のうねりの中で古き自民党と闘っている富岡ゆきおを我々が全力で後押しする必要がある。

 比例投票は自由にさせてもらう。新自由主義政策により、社会が閉塞感一杯になってきたことを考えれば、弱肉強食の新自由主義からの転換を意識している政党とその候補者に投票すべきと考える。民主党はそこのところが頼りない。不信感一杯だ。
ビラを数百枚受け取り、理解ありそうな人に投票依頼をしている。新党はどれも保守政党、国家主義政党ばかりでこれらは私の理解の範疇にない。人を食ったような政党名「みんなの党」は小泉構造改革の延長線で、その「小さな政府論」にだまされてはいけない。日本はアメリカ以上に「小さな政府」になってしまい、極端な格差社会のなかで、不安定雇用、自殺、犯罪、生活保護世帯の急増等と社会不安が増長し、人間関係がバラバラにされ、地域共同体機能が衰退してしまった。追いつめられた人々に「自己責任」をかぶせる政治をこれ以上許してはならない。有権者もいい加減に気付いたほうが身のためだと思うよ。判断が軽すぎる。

 ところでその上原君に「比例はどうする」と聞いてみると、「保坂のぶとがいいかなと思っている」と返ってきた。伊達に長年遊んでやった訳ではない、ちゃんと成長してるじゃない。すぐに保坂のポスターを数十枚渡してきた。奮闘を祈るのみだ。(5月15日、高崎市での集会の時に撮影した保坂の写真を載せる)
家での2票はこれが問題、「党首が危ない」との声(デマ)をどこで聞いたか、票分けになりそうな気配だ。しかし小政党にとり1議席は大変重い。熱い思いがなかなか議席に届かない。だけどあきらめない。

2010年7月3日土曜日

忙中閑あり「川の底からこんにちは」

7月に入り選挙戦もいよいよ中盤、仕事の区切りもついてはいないが、富岡ゆきおの追い込みをかけるか、と思い、藤岡方面へ足を運ぶ。しかし、思ったようには事は運ばす、行った老人施設では、前日の雷雨による被害で一部施設が水浸しとなり職員はその対応で大忙し。選挙どころの話ではない。鬼石で秋山君と食事をした後、高崎で知り合いを回る。ビラの印刷時間、そして夕方7時の吉井町での角倉県議の開く「富岡、小寺」集会まで時間があったのでシネマテーク高崎へ。狙っていた「川の底からこんにちは」の最終日に間にあった。

途中10分ほど眠ったが、面白い映画だった。「どうせ私は中の下よ。」彼氏と駆け落ち上京して5年、仕事は5つ目、彼氏も5人目、ダラダラとした日々が続く日常を破ったのが、病に倒れた父親にかわり、水辺の町に戻り、倒産寸前の「シジミ工場」の跡継ぎをする羽目になる佐和子。その会社の従業員がこれまたすごい女性の面々で佐和子を圧倒するが、追いつめられた佐和子は、人生の中で初めて奮起する。
終盤のシーンも面白い。「今日から私たちのことをお母さんと思っていいのよ」と佐和子にいう女性従業員達。「お父さんとみんな肉体関係があったんですか」と佐和子。「私は違うわ。もう一人の人も違う。でも他の人たちはみんな肉体関係があったわ。それくらいあなたのお父さんは好かれたの」うなずく女性従業員一同。無表情の佐和子。
 社会なんて、人生なんてこんなもの、これでいいし、これだからいい、お利口さんだけで生きていくことはできないことを、ユーモアたっぷりに描いた名作だねえ。居眠りしないでもう一度観たい。

2010年7月2日金曜日

忠治生誕200年記念特別企画の打ち合わせ


大塚政義先生の国定の忠治の講演はすでに4回聞いた。水戸天狗党に関しては1度、甘楽町で聞いた。
その時代の様子が生き生きと分かって大変勉強になる。
「幕府が藩や民衆を支配するために、一番恐れていたことは、民衆が団結して支配体制に立ち向かってくることだ。そこで民衆をバラバラにするために考えたのが、身分制度、5人組制度、分国支配等である。」こんな調子で講演は始まる。
 二足の草鞋をはかない反権力のヤクザ・忠治の素顔にせまる講演会を9月12日に開催することになり、その打ち合わせ会議を昨日、玉村八幡宮で開いた。3年前の講演会はちょうど参議院選挙投票日で、玉村ふるさと祭りの当日、そして大雨だったことを思い出した。
 今回の打ち合わせには「朝日ぐんま」記者の中島美江子さんも参加した。中島さんは、昨日は朝から、大塚先生と忠治のゆかりの場所7ヶ所を取材で回り帰ってきたところでの打ち合わせ会議参加ということになった。その取材記事は9日の「ぐんま朝日」の折り込みに大きく掲載される予定とか。





【上州の風土と人間―国定忠治の史跡と伝説を訪ねて】
例幣使街道と玉村宿の栄華を今によみがえらせる語り部。










講師 《大塚政義先生》






友情出演歌手《榛名 友里》「忠治一代」
○ 日時:9月12日(日)
午後2時~2時間程度
○ 場所:玉村八幡宮 
○ 入場料:無料(定員100名 )「忠治一代」の
テープ販売にご協力下さい。


主催:玉村八幡宮 
呼びかけ人
 石川眞男、笠原則孝
   連絡先 0270.65.2305