今年一年の締めくくりとして、在日の友人たちと忘年会で盛り上がる。来年は国定忠治生誕200周年、また「韓国併合」から100年という節目の年。多くの日本人にとり「韓国併合」は過去のそのまた過去の話、「今更何を言ってるんだ」の声が聞こえてくるようだ。しかし、違うでしょう。我々は、この不景気の中、経済制裁の重圧下での厳しい生活を強いられている在日の人々の姿があることをどれだけ知っているのか。知ろうとしているのか。同じ社会の構成員に無関心でいいのかを問われている。
政府の施策はともあれ、人間同士はつながっていなければならないと。その力が政府を動かす原動力だ。
苦闘しつつも日本人を信頼しようとする友人たちに頭が下がるばかりだ。
この本を読んで欲しい。(誤字脱字はご容赦ください。)
《閔妃暗殺 》
角田房子著 新潮社600円
「伊藤博文と安重根」とともに杜紅から借りた本。非常に興味深く読んだ。日本人の多くが知らない史実が描かれている。
著者はあとがきの中で、「閔妃暗殺をお読み下さる方々の一人でも多くが、どうぞ隣国への『遺憾の念』を持ちそれを基とした友好関係、相互関係を深めて下さるようにと、私は切に願っている。」と述べている。ここに著者の気持ちが良く現れている。
学校教科書ではほとんど書かれていない大事件を時代的背景から書きつづってある本書を読み目を醒まされた思いだ。
李氏朝鮮王朝は1392年、李成桂(太祖)が高麗を滅ぼして王位についた時に始まる。1592年、秀吉の二度に及ぶ朝鮮侵略のあとしばらく国交は断絶したが1605年から回復交渉を始め、1607年朝鮮から呂祐吉を正使とする467人の大使節団が日本に到着した。そして江戸時代を通じて通算12回の大使節団が来日し、第4回からは名称は「通信使」と改められ、当時の一流の学者や文人が彼らと接し意見を交換しあい、両国の文化交流に大きな役割を果たした。鎖国下の日本にとって、朝鮮は正式な外交関係のある唯一の国だった。日本は中国、ポルトガル、オランダ、イギリスなどと通商関係はあったが、幕末にいたるまで正式の国交はなかった。(このことははじめて知った。)
当時の朝鮮の政治は勢道政治という、権力を握った一族が国政を欲しいままにするという政治状況だった。その状況を打破しようとしたのが興宣君是応という男だった。彼は自分の子李命福が国王になるように工作し、それが見事に成功した。その後、勢道政治にならないよう慎重に国王の妃探しをし選んだのが閔妃(実名は不明)だった。その後大院君となった興宣君是応と閔妃はその人生を日本、中国(清)を巻き込んで闘いを続けた。閔妃はまさに閔一族を登用する勢道政治をあらゆる手だてを尽くして展開した。
欧米による開国要求は朝鮮にとっても厳しいものだった。天主教や通商要求だけでなく、武力侵略にも乗り出してきた。それに対して朝鮮は強烈な鎖国攘夷策をとった。が欧米から何も学ぼうとしない大院君は武力ではとても勝てないことも、徹底的にたたかれるまでわからなかった。彼の強大な権力に伴う独裁ぶりは、逆に民衆の怒りを買い、その怒りが閔妃を担ぐかたちで「王の親政」と大院君の失脚という事態になった。
夫である王が権力を握ったとたん、閔妃はそれまで表に出していなかった力を出し始め、閔一族のための政治を押し進め、大院君の力を削ぐため徹底した弾圧をしていった。世子問題で清国から自分の産んだ子供を世子として認められない、という情報を受けると、朝鮮と国交再開を求めている日本を利用しようと考えた。その後裏工作で清国からも閔妃の産んだ子が世子として認められるが、1880年一時清国から世子としてされた完和君は急死した。閔妃が毒殺したとの説が強い。
一方日本では「征韓」の主張は在野に満ち、それをいつ、どのように実行するかについての意見対立が権力闘争の象徴としてあった。当時の権力者がおしなべて「脱亜入欧」路線をとっていたのに対し、勝海舟はアジア諸国との同盟を主張していた、と数行書かれている。勝という人に対して興味を抱かされてしまう。
1882年7月、米の現物供与を巡り供与された米の半分くらいに砂が入っていたことが直接的なきっかけとなり、倉庫係と米の受領を拒否する兵士との間に乱闘が起こり、軍当局が数人の兵を逮捕し見せしめのため処刑すると発表した。それが逆効果を呼び、兵士達は「仲間を救え」と叫び人数を膨れ上がせ、ついには反閔、反日という共通点を持つ軍兵や都市貧民と大院君が結び着く形で政治的暴動と化して、日本公使館を襲い、王宮に突入し、閔妃一族の重臣を次々殺した。自分の命を狙われていることを悟った閔妃は宮女の服を身に付け命からがら何とか生き延びた。
大院君の息子であり閔妃の夫である王・高宗は大院君に全権を委任した。壬午軍乱・ク-デターを成功させた大院君は、生死のわからない閔妃の国葬の準備をし、重臣の多くが反対するなか国葬は完了した。
日本政府は、この内乱を排日運動とみなし、花房公使を全権に、武力を背景とする強行な態度で望むことを決定した。花房は強引にソウルに入城し、軍事行動をとると脅しつけて王と謁見し、日本政府の7カ条の要求を突きつけた。どれも厳しいものだったが特に「日本公使館焼き討ちの賠償金50万円」は、財政逼迫の政府にはとても払えない金額だった。大院君は大兵力をソウルに駐屯させている清国を味方と信じていたが、逆に清国により天津に拉致されていまう。
そして9月8日閔妃の生存が公表される。王宮に復帰した閔妃は報復を開始した。自分に逆らう者は皆殺し、彼女の貢献度だけで人々を登用した。
贅沢の限りを尽くし、庶民の生活に目もくれない閔妃とそれに対抗する保守的な大院君との権力闘争が国民不在のなかで、清国、日本を巻き込む形で繰り広げられていた。
1884年金玉均を中心とする開化派は日本軍を呼び込む形でクーデターを起こし閔妃の取り巻きの重臣達を殺した。一応クーデターは成功したが、閔妃の策略にはまり、王宮を日本兵150人だけでは守りきれず、「朝鮮政府の出兵依頼」を受けた清国軍の攻撃に敗れ撤退し、この甲申事変は文字通り3日天下で終わった。失敗の背景には、改革運動を下から支える社会的経済的基盤の弱さ、開化思想に対する民衆の関心や理解の不足があり、上流階級出身のわずか40余人の革新的少数派による宮廷内部のクーデターに終わった。
1893年全羅道に東学教徒多数が集まって、教徒弾圧の中止を訴えその報が全国を騒がせていた。東学とは西学と呼ばれた天主教に反対する立場をとり、19世紀半ばすぎに、教祖崔済愚がおこした新興宗教で「敬天順天」を根本理念とした。当時の勢道政治下で貧困にあえぎ、異様船の出没により外国の侵略があるのではないかと危機感を抱く大衆にとり、東学は唯一の心の拠り所だった。政府はその東学を邪教と断じその教祖を処刑した。これは大院君がはじめて執政についたばかりの頃だった。教祖は死亡したが第二世教主崔時亨によりさらに勢いを増し、各地で悪政に対する反乱の主導権を握るまでになっていた。1894年2月「甲午農民戦争」が起こり農民達は一斉蜂起し、政府は各地で農民主体の東学軍に連敗した。そして5月東学軍は全羅道の首都全州を占領するに至った。これに対し朝鮮政府は宗主国である清国に援助を要請した。
このような情勢にたいし、日本政府は、清国と一戦を交えて朝鮮における日本の勢力を確率しようと企んだ。当時の日本人のほとんどすべてが、日清戦争を、長年にわたり弱い朝鮮をいじめてきた横暴な清国をこらし、朝鮮の独立を助けるための「義戦」と考えていた。しかしこの本の中(p297)で数行だけ書かれていたことに気を惹かれた。それは当時の「脱亜入欧」路線に勝海舟が一人反対し「アジア諸国との同盟」を主張し、日清戦争を「不義の戦争」と呼んでいたということ。
8月1日、日清両国は宣戦布告、そして日本の勝利は世界列強にも衝撃を与えた。95年3月下関で日清講話会議が開催され、20日日清休戦条約が調印された。条約の内容の一つに、遼東半島の割譲という文言があった。これに対し、ロシア、フランス、ドイツの三国が強く干渉し、遼東半島の割譲の放棄を要求し、日本は嫌々飲まされる結果となった。「兵力の後援のない外交は、いかに正当な理によっていても失敗は免れない。」という教訓につながり、すさまじい軍拡を開始し、10年後の日露戦争へとたどり着く。
この「三国干渉」による日本の権威失墜を喜んだのが閔妃だった。日本による内政改革が始まって以来、王は何ひとつ自分の意志で行うことが出来ず、さすが温和な王も日本に対し怒りをあらわにしていた頃だった。「三国干渉」後、朝鮮での数々の利権が日本以外の諸国に許可されていった。
5月、大院君の25才の孫が突然逮捕され、親日家である金鶴羽殺害事件の首謀者として証拠もないまま、死刑を宣告された。結局10年の流配に減刑されたが、大院君派は壊滅状態となった。内政干渉の張本人井上馨の立場は次第に弱くなり、朝鮮情勢の報告に井上が日本に帰国したときを境に閔妃の周辺は活気づき、閔妃は大院君により流刑にされたり、地方に隠れ住んでいた閔氏一族を中央に呼び戻した。政府内に日本の内政干渉で締め付けられることに不平、不満がつもっていたので、反日派が勢力を延ばす結果となった。
「日本の弾圧下で行われた昨年来の内政改革は、全て取り消すつもり」という王の発言まででたことにより、あわてた日本側は秘密会議を開いた。そこで親日派への支援強化をすることなどを決めた。しかし,逆に親日派の人々は追放され、親露派、親欧米派の人々が登用されるに至った。
9月1日井上の後任公使三浦梧楼がソウルに着任した。彼は長州出身の軍人だった。前任の井上が300万円を朝鮮政府に寄贈するという約束が空手形に終わったことがわかると、ロシア、アメリカなどの日本攻撃は激化し、閔妃はいっそう勢力を強めた。
一方、ソウルで三浦は朝鮮の現状に対する在留邦人の憤激の激しさを改めて知った。三浦は閔妃暗殺こそが日本の勢力挽回の突破口になると確信していった。ここでも閔妃に対し憤懣やるかたない大院君に決起をうながす形で暗殺計画は練られた。
10月8日早朝、200人をこえる朝鮮訓練隊第二大隊、日本第一中隊約140人および日本人警察、民間人が参加した暗殺計画は、大胆に光化門から王宮に日本兵と民間人が突入し、王宮内の防衛隊を武装解除させつつ遂に、閔妃を殺害した。殺害後遺体を庭で焼却した日本兵等が抜刀したまま王宮をでてくる様子を多くのソウル市民が目撃した。その後も親日政権の樹立を目指し露骨なまでの干渉は続き、朝鮮侵略の糸口がこの事件をきっかけに、朝鮮の人々の圧倒的反発の中いよいよ開始されてゆくのだった。
なお事件に関係した全員が軍法会議で無罪となり、広島地裁の予審でも全員が免訴となった。三浦梧楼は凱旋将軍のような扱いを受けた。その後例えば三浦悟郎は崇密顧問官として晩年まで政界に地位を保ち、安達謙蔵はいくつかの大臣を歴任し政党の総裁となり、といったように、閔妃殺害に関係したことはその後の彼らに何らの影響も与えず、かえって「箔」をつけて出世街道を走らせたようだ。。日本の国家を代表する朝鮮駐在公使が首謀者となり、日本の警察、軍隊、暴徒としかいいようのない民間日本人達を朝鮮の王宮に乱入させ、公然とその国の王妃を殺害したという、およそ近代世界外交史上に例をみない暴虐を働いた事件は、いまだ韓国人の胸に深い傷跡を残しているが、日本人の大部分はこの事件について知識をもたないという。教科書にもその記述は少ない。
日本政府がこの事件の犯人達を処罰しなかったことが、のちに1928年の張作霖爆殺事件につながり満州事変、日中戦争、アジア・太平洋戦争へと拡大する戦争の起点となった。
これより30数年前、大老井伊直弼を桜田門外で雪の朝倒した水戸脱藩浪士達18人のような緊張感が全く感じられない。桜田門事件にかかわった彼らのほとんどがその場で斃れた者、後捉えられて処刑された者を含め死地に追いやられている。外国で尊大に振る舞い国王の妃を殺害した犯人がのうのうと生きられるような国に未来はないということが証明されるまでにその後50年の月日の経過を要した。
政府の施策はともあれ、人間同士はつながっていなければならないと。その力が政府を動かす原動力だ。
苦闘しつつも日本人を信頼しようとする友人たちに頭が下がるばかりだ。
この本を読んで欲しい。(誤字脱字はご容赦ください。)
《閔妃暗殺 》
角田房子著 新潮社600円
「伊藤博文と安重根」とともに杜紅から借りた本。非常に興味深く読んだ。日本人の多くが知らない史実が描かれている。
著者はあとがきの中で、「閔妃暗殺をお読み下さる方々の一人でも多くが、どうぞ隣国への『遺憾の念』を持ちそれを基とした友好関係、相互関係を深めて下さるようにと、私は切に願っている。」と述べている。ここに著者の気持ちが良く現れている。
学校教科書ではほとんど書かれていない大事件を時代的背景から書きつづってある本書を読み目を醒まされた思いだ。
李氏朝鮮王朝は1392年、李成桂(太祖)が高麗を滅ぼして王位についた時に始まる。1592年、秀吉の二度に及ぶ朝鮮侵略のあとしばらく国交は断絶したが1605年から回復交渉を始め、1607年朝鮮から呂祐吉を正使とする467人の大使節団が日本に到着した。そして江戸時代を通じて通算12回の大使節団が来日し、第4回からは名称は「通信使」と改められ、当時の一流の学者や文人が彼らと接し意見を交換しあい、両国の文化交流に大きな役割を果たした。鎖国下の日本にとって、朝鮮は正式な外交関係のある唯一の国だった。日本は中国、ポルトガル、オランダ、イギリスなどと通商関係はあったが、幕末にいたるまで正式の国交はなかった。(このことははじめて知った。)
当時の朝鮮の政治は勢道政治という、権力を握った一族が国政を欲しいままにするという政治状況だった。その状況を打破しようとしたのが興宣君是応という男だった。彼は自分の子李命福が国王になるように工作し、それが見事に成功した。その後、勢道政治にならないよう慎重に国王の妃探しをし選んだのが閔妃(実名は不明)だった。その後大院君となった興宣君是応と閔妃はその人生を日本、中国(清)を巻き込んで闘いを続けた。閔妃はまさに閔一族を登用する勢道政治をあらゆる手だてを尽くして展開した。
欧米による開国要求は朝鮮にとっても厳しいものだった。天主教や通商要求だけでなく、武力侵略にも乗り出してきた。それに対して朝鮮は強烈な鎖国攘夷策をとった。が欧米から何も学ぼうとしない大院君は武力ではとても勝てないことも、徹底的にたたかれるまでわからなかった。彼の強大な権力に伴う独裁ぶりは、逆に民衆の怒りを買い、その怒りが閔妃を担ぐかたちで「王の親政」と大院君の失脚という事態になった。
夫である王が権力を握ったとたん、閔妃はそれまで表に出していなかった力を出し始め、閔一族のための政治を押し進め、大院君の力を削ぐため徹底した弾圧をしていった。世子問題で清国から自分の産んだ子供を世子として認められない、という情報を受けると、朝鮮と国交再開を求めている日本を利用しようと考えた。その後裏工作で清国からも閔妃の産んだ子が世子として認められるが、1880年一時清国から世子としてされた完和君は急死した。閔妃が毒殺したとの説が強い。
一方日本では「征韓」の主張は在野に満ち、それをいつ、どのように実行するかについての意見対立が権力闘争の象徴としてあった。当時の権力者がおしなべて「脱亜入欧」路線をとっていたのに対し、勝海舟はアジア諸国との同盟を主張していた、と数行書かれている。勝という人に対して興味を抱かされてしまう。
1882年7月、米の現物供与を巡り供与された米の半分くらいに砂が入っていたことが直接的なきっかけとなり、倉庫係と米の受領を拒否する兵士との間に乱闘が起こり、軍当局が数人の兵を逮捕し見せしめのため処刑すると発表した。それが逆効果を呼び、兵士達は「仲間を救え」と叫び人数を膨れ上がせ、ついには反閔、反日という共通点を持つ軍兵や都市貧民と大院君が結び着く形で政治的暴動と化して、日本公使館を襲い、王宮に突入し、閔妃一族の重臣を次々殺した。自分の命を狙われていることを悟った閔妃は宮女の服を身に付け命からがら何とか生き延びた。
大院君の息子であり閔妃の夫である王・高宗は大院君に全権を委任した。壬午軍乱・ク-デターを成功させた大院君は、生死のわからない閔妃の国葬の準備をし、重臣の多くが反対するなか国葬は完了した。
日本政府は、この内乱を排日運動とみなし、花房公使を全権に、武力を背景とする強行な態度で望むことを決定した。花房は強引にソウルに入城し、軍事行動をとると脅しつけて王と謁見し、日本政府の7カ条の要求を突きつけた。どれも厳しいものだったが特に「日本公使館焼き討ちの賠償金50万円」は、財政逼迫の政府にはとても払えない金額だった。大院君は大兵力をソウルに駐屯させている清国を味方と信じていたが、逆に清国により天津に拉致されていまう。
そして9月8日閔妃の生存が公表される。王宮に復帰した閔妃は報復を開始した。自分に逆らう者は皆殺し、彼女の貢献度だけで人々を登用した。
贅沢の限りを尽くし、庶民の生活に目もくれない閔妃とそれに対抗する保守的な大院君との権力闘争が国民不在のなかで、清国、日本を巻き込む形で繰り広げられていた。
1884年金玉均を中心とする開化派は日本軍を呼び込む形でクーデターを起こし閔妃の取り巻きの重臣達を殺した。一応クーデターは成功したが、閔妃の策略にはまり、王宮を日本兵150人だけでは守りきれず、「朝鮮政府の出兵依頼」を受けた清国軍の攻撃に敗れ撤退し、この甲申事変は文字通り3日天下で終わった。失敗の背景には、改革運動を下から支える社会的経済的基盤の弱さ、開化思想に対する民衆の関心や理解の不足があり、上流階級出身のわずか40余人の革新的少数派による宮廷内部のクーデターに終わった。
1893年全羅道に東学教徒多数が集まって、教徒弾圧の中止を訴えその報が全国を騒がせていた。東学とは西学と呼ばれた天主教に反対する立場をとり、19世紀半ばすぎに、教祖崔済愚がおこした新興宗教で「敬天順天」を根本理念とした。当時の勢道政治下で貧困にあえぎ、異様船の出没により外国の侵略があるのではないかと危機感を抱く大衆にとり、東学は唯一の心の拠り所だった。政府はその東学を邪教と断じその教祖を処刑した。これは大院君がはじめて執政についたばかりの頃だった。教祖は死亡したが第二世教主崔時亨によりさらに勢いを増し、各地で悪政に対する反乱の主導権を握るまでになっていた。1894年2月「甲午農民戦争」が起こり農民達は一斉蜂起し、政府は各地で農民主体の東学軍に連敗した。そして5月東学軍は全羅道の首都全州を占領するに至った。これに対し朝鮮政府は宗主国である清国に援助を要請した。
このような情勢にたいし、日本政府は、清国と一戦を交えて朝鮮における日本の勢力を確率しようと企んだ。当時の日本人のほとんどすべてが、日清戦争を、長年にわたり弱い朝鮮をいじめてきた横暴な清国をこらし、朝鮮の独立を助けるための「義戦」と考えていた。しかしこの本の中(p297)で数行だけ書かれていたことに気を惹かれた。それは当時の「脱亜入欧」路線に勝海舟が一人反対し「アジア諸国との同盟」を主張し、日清戦争を「不義の戦争」と呼んでいたということ。
8月1日、日清両国は宣戦布告、そして日本の勝利は世界列強にも衝撃を与えた。95年3月下関で日清講話会議が開催され、20日日清休戦条約が調印された。条約の内容の一つに、遼東半島の割譲という文言があった。これに対し、ロシア、フランス、ドイツの三国が強く干渉し、遼東半島の割譲の放棄を要求し、日本は嫌々飲まされる結果となった。「兵力の後援のない外交は、いかに正当な理によっていても失敗は免れない。」という教訓につながり、すさまじい軍拡を開始し、10年後の日露戦争へとたどり着く。
この「三国干渉」による日本の権威失墜を喜んだのが閔妃だった。日本による内政改革が始まって以来、王は何ひとつ自分の意志で行うことが出来ず、さすが温和な王も日本に対し怒りをあらわにしていた頃だった。「三国干渉」後、朝鮮での数々の利権が日本以外の諸国に許可されていった。
5月、大院君の25才の孫が突然逮捕され、親日家である金鶴羽殺害事件の首謀者として証拠もないまま、死刑を宣告された。結局10年の流配に減刑されたが、大院君派は壊滅状態となった。内政干渉の張本人井上馨の立場は次第に弱くなり、朝鮮情勢の報告に井上が日本に帰国したときを境に閔妃の周辺は活気づき、閔妃は大院君により流刑にされたり、地方に隠れ住んでいた閔氏一族を中央に呼び戻した。政府内に日本の内政干渉で締め付けられることに不平、不満がつもっていたので、反日派が勢力を延ばす結果となった。
「日本の弾圧下で行われた昨年来の内政改革は、全て取り消すつもり」という王の発言まででたことにより、あわてた日本側は秘密会議を開いた。そこで親日派への支援強化をすることなどを決めた。しかし,逆に親日派の人々は追放され、親露派、親欧米派の人々が登用されるに至った。
9月1日井上の後任公使三浦梧楼がソウルに着任した。彼は長州出身の軍人だった。前任の井上が300万円を朝鮮政府に寄贈するという約束が空手形に終わったことがわかると、ロシア、アメリカなどの日本攻撃は激化し、閔妃はいっそう勢力を強めた。
一方、ソウルで三浦は朝鮮の現状に対する在留邦人の憤激の激しさを改めて知った。三浦は閔妃暗殺こそが日本の勢力挽回の突破口になると確信していった。ここでも閔妃に対し憤懣やるかたない大院君に決起をうながす形で暗殺計画は練られた。
10月8日早朝、200人をこえる朝鮮訓練隊第二大隊、日本第一中隊約140人および日本人警察、民間人が参加した暗殺計画は、大胆に光化門から王宮に日本兵と民間人が突入し、王宮内の防衛隊を武装解除させつつ遂に、閔妃を殺害した。殺害後遺体を庭で焼却した日本兵等が抜刀したまま王宮をでてくる様子を多くのソウル市民が目撃した。その後も親日政権の樹立を目指し露骨なまでの干渉は続き、朝鮮侵略の糸口がこの事件をきっかけに、朝鮮の人々の圧倒的反発の中いよいよ開始されてゆくのだった。
なお事件に関係した全員が軍法会議で無罪となり、広島地裁の予審でも全員が免訴となった。三浦梧楼は凱旋将軍のような扱いを受けた。その後例えば三浦悟郎は崇密顧問官として晩年まで政界に地位を保ち、安達謙蔵はいくつかの大臣を歴任し政党の総裁となり、といったように、閔妃殺害に関係したことはその後の彼らに何らの影響も与えず、かえって「箔」をつけて出世街道を走らせたようだ。。日本の国家を代表する朝鮮駐在公使が首謀者となり、日本の警察、軍隊、暴徒としかいいようのない民間日本人達を朝鮮の王宮に乱入させ、公然とその国の王妃を殺害したという、およそ近代世界外交史上に例をみない暴虐を働いた事件は、いまだ韓国人の胸に深い傷跡を残しているが、日本人の大部分はこの事件について知識をもたないという。教科書にもその記述は少ない。
日本政府がこの事件の犯人達を処罰しなかったことが、のちに1928年の張作霖爆殺事件につながり満州事変、日中戦争、アジア・太平洋戦争へと拡大する戦争の起点となった。
これより30数年前、大老井伊直弼を桜田門外で雪の朝倒した水戸脱藩浪士達18人のような緊張感が全く感じられない。桜田門事件にかかわった彼らのほとんどがその場で斃れた者、後捉えられて処刑された者を含め死地に追いやられている。外国で尊大に振る舞い国王の妃を殺害した犯人がのうのうと生きられるような国に未来はないということが証明されるまでにその後50年の月日の経過を要した。
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