今日、群馬司法書士会総会が開かれ、いわゆる「25年表彰」を受けることとなった。同期が13人いた。伊勢崎支部は私と木村康弘、小茂田浩一郎、小林晃の4人の会員、前橋支部は大澤正光さんだ。みんな元気だしまだまだ仕事もできる。しかし、25年という年月の過ぎてみれば早いこと、私も50代半ばを過ぎてしまった。特に大澤さんとは、前橋市立図書館で受験勉強をした縁もあり、また真面目で強欲のない性格も幸いして今だに互いに仕事の相談をしあっている。一緒に勉強をしたといっても、同じ部屋の別の机でそれぞれ本に向かっていただけのことだが、あの時間、あの期間を共有したことの意味は大きいと感じる。当時、一緒にいたのは他に坂内さんもいた。そして今、弁護士として活躍している人もいる。
当時、朝9時から夜7時までの間、実質8時間は本を読んでいた。100円のボールペンのインクが1週間ほどでなくなるほどノートに書き手で覚えた。とにかく、あの当時の集中力を思うと我ながら感心する。
開業当時はまだ申請書もタイプライターの縦書き、数字は漢数字だった。登記簿もブック方式で1筆の閲覧申請で何筆かの登記簿をのぞいていた。今は電子申請と隔世の感がある。
これからどんな社会がくるのか予想することはなかなか難しい。地球の存命時間はまだまだ長いのだから、後先を考えず、未来を食いつぶすような競争の中に埋没することなく、ゆっくり味わい深い人生を送れるような文化社会、経済社会を築き上げるべきとつくづく思う。
誰もがそうだが、同時代の人の生きている現在は未来との関係では過渡期ということ。様々な事象と格闘し合いながら時代は動いていく。だから複雑で面白い、決してデジタル社会などではない。
群馬県玉村町の町長「石川まさお」のブログです。 「瞬間」と「悠久」は決して対立的な言葉ではなく、「瞬間の中に悠久」が、「悠久の中に瞬間」はあります。何かと対立関係で世の中を見ようとする流れに抗すべく、みんなが集える庵を構えました。 新自由主義政策により社会の格差が広がり、荒んでいくのをくい止めるべく、地域に根ざした活動をします。
みんな寿命を全うしようぜ
2010年5月29日土曜日
2010年5月24日月曜日
韓国哨戒艦沈没は本当に北朝鮮の仕業?
天安沈没事件に関し、北朝鮮の犯行として日、米、韓合同で制裁を検討しているという。
北朝鮮の犯行という前に、この事実を検証しなければならないのではないか。
以下は「河信基の深読み」から
[それは、天安沈没と同時間帯に指呼の海域で米軍潜水艦が沈没し、密かに引き上げられていた事実だ。
米潜水艦沈没を報じたのは、韓国kBSテレビ。事件から間もない4月7日9時からの「ニュース9」特集「謎の第3ブイなぜ?」で米軍ヘリコプターが米兵の遺体を運び去る映像などを流した。
ネットでは、天安と米潜水艦との衝突説が飛び交ったが、韓国政府当局が「誤報」として名誉毀損で告訴し、KBSのウェブサイトから削除された。韓国のテレビは過去の放送もすべてVODで視聴できるが、同特集だけは「法廷闘争のため映像サービスは中断します」となっている。
その後、北朝鮮関与説が堰を切ったように流され、米潜水艦関与説は脇に押しやられていった。]等々と続く訳だが、同地域で演習していた原潜コロンビアの行方が分からなくなっているという。この辺から探していったらいい。
天安の切断面が、強烈なせん断破壊面であり、水中爆発によるバブルジェットによるものと思えない。むしろ潜水艦急浮上による衝突ではないか、と河信基は推測する。
もし米潜水艦による衝突事故だとすると、これも一大事だが、少なくとも、この事件に関し、北朝鮮には「動機がまるでない」のだ。なんでも都合の悪いことは北朝鮮で、その脅威から日本を守るために、普天間基地の移設先を辺野古じゃたまらない。もし米潜水艦による事故だとしたら、やはり沖縄に米軍基地はいらない。
(デビ夫人のブログにも書かれているので参照のこと。彼女のような一見妖しい人は意外に真実を語るのです。)
このような国際問題は、事実と違うことから戦争すら始まることを認識しなければならない。湾岸戦争の発端は、イラクがクウエ-トに侵攻したことから始まった。事実は、イラクの地下油田がクウエートにより浸食されていることに再三抗議していたフセインがクウエートに侵攻し、地下油田の浸食を止めさせようとしたことによるものだが、クウエートのアメリカ大使はその旨了解していた。しかし、実際に侵攻すると、イラクのクウエート侵略と非難し戦争を仕掛けていった。
ベトナム戦争の発端のトンキン湾事件だってそうだ。戦争を起こす口実はどうにでもなるのが現実の国際政治だ。しかし、それを許していいのか、と言うのが私の考え方だ。
北朝鮮の犯行という前に、この事実を検証しなければならないのではないか。
以下は「河信基の深読み」から
[それは、天安沈没と同時間帯に指呼の海域で米軍潜水艦が沈没し、密かに引き上げられていた事実だ。
米潜水艦沈没を報じたのは、韓国kBSテレビ。事件から間もない4月7日9時からの「ニュース9」特集「謎の第3ブイなぜ?」で米軍ヘリコプターが米兵の遺体を運び去る映像などを流した。
ネットでは、天安と米潜水艦との衝突説が飛び交ったが、韓国政府当局が「誤報」として名誉毀損で告訴し、KBSのウェブサイトから削除された。韓国のテレビは過去の放送もすべてVODで視聴できるが、同特集だけは「法廷闘争のため映像サービスは中断します」となっている。
その後、北朝鮮関与説が堰を切ったように流され、米潜水艦関与説は脇に押しやられていった。]等々と続く訳だが、同地域で演習していた原潜コロンビアの行方が分からなくなっているという。この辺から探していったらいい。
天安の切断面が、強烈なせん断破壊面であり、水中爆発によるバブルジェットによるものと思えない。むしろ潜水艦急浮上による衝突ではないか、と河信基は推測する。
もし米潜水艦による衝突事故だとすると、これも一大事だが、少なくとも、この事件に関し、北朝鮮には「動機がまるでない」のだ。なんでも都合の悪いことは北朝鮮で、その脅威から日本を守るために、普天間基地の移設先を辺野古じゃたまらない。もし米潜水艦による事故だとしたら、やはり沖縄に米軍基地はいらない。
(デビ夫人のブログにも書かれているので参照のこと。彼女のような一見妖しい人は意外に真実を語るのです。)
このような国際問題は、事実と違うことから戦争すら始まることを認識しなければならない。湾岸戦争の発端は、イラクがクウエ-トに侵攻したことから始まった。事実は、イラクの地下油田がクウエートにより浸食されていることに再三抗議していたフセインがクウエートに侵攻し、地下油田の浸食を止めさせようとしたことによるものだが、クウエートのアメリカ大使はその旨了解していた。しかし、実際に侵攻すると、イラクのクウエート侵略と非難し戦争を仕掛けていった。
ベトナム戦争の発端のトンキン湾事件だってそうだ。戦争を起こす口実はどうにでもなるのが現実の国際政治だ。しかし、それを許していいのか、と言うのが私の考え方だ。
2010年5月23日日曜日
流動化する政治状況の中で
政治が流動化化してきた。普天間問題で鳩山首相は、ついにというか結局というか、辺野古にそれも埋め立て方式で新基地を建設することを日米合意するという。自民党案に戻ったということ。日米合意を地元や沖縄県民の合意なしにアメリカと合意するなどというやり方は本末転倒であり、民主党が一番嫌っていたことではないのか。
何度も言うが、小選挙区制度で生まれる二大政党は似たもの政党になることははじめから分かっていた。マスコミも小選挙区推進論者も言わなかっただけのこと。支配階級にとって、国民を支配する幅がむしろ広がったという意味では、しばらく安泰と言うこと。しかし、そうはならないのが政治の世界。経済活動を実質担っているのは労働者であり、その暮らしを保証できない事態がさまざまな面で現れている。「国民の生活が第一」という言葉で、小泉政権の新自由主義路線を批判したのはそういう意味だったはず。しかし、政権を担ったとたん、自民党との違いを見つけるのが大変なほど似たような政策になっている。これが現在の民主党の限界だろう。今後、リベラル政党に飛躍できなければ後はない。
しかし、出てくる新党はどれもこれも復古調の国家主義政党ばかり。時代錯誤と簡単に言ってしまえばそのとおりだが、実はそれほど単純ではないと見る。グローバル社会の現代は、経済も情報も国境を越えて複合的に機能するため、国家というものさえ時には無用ないしは障害となって立ち現れる。それぞれの国々の人々が国家という求心力から解放されたときどんな世界が訪れるのかは、単純な話ではないのでここではすすめないが、一面極端に無秩序な世界が訪れる。世界の現秩序を維持しようとする現在の支配層はそれぞれの国家秩序を維持するため、保守主義に走り国民を国家に縛り付けようとする。
例として、アメリカはグローバルな新自由主義(ネオリベラリズム)と新保守主義の路線のもとでイラク戦争を起こしたことを忘れてはならない。
不可逆的な国際化と保守主義のバランスで何とか国家運営を乗り切ろうとしているのが現在の状況だが、この保守主義は独善的な愛国主義、差別排外主義となって思わぬ不幸を国民や周辺国に及ぼす危険性があることを、歴史からも教訓化する必要がある。
この辺から今後の流動化する政治を見ていった方がいい。
何度も言うが、小選挙区制度で生まれる二大政党は似たもの政党になることははじめから分かっていた。マスコミも小選挙区推進論者も言わなかっただけのこと。支配階級にとって、国民を支配する幅がむしろ広がったという意味では、しばらく安泰と言うこと。しかし、そうはならないのが政治の世界。経済活動を実質担っているのは労働者であり、その暮らしを保証できない事態がさまざまな面で現れている。「国民の生活が第一」という言葉で、小泉政権の新自由主義路線を批判したのはそういう意味だったはず。しかし、政権を担ったとたん、自民党との違いを見つけるのが大変なほど似たような政策になっている。これが現在の民主党の限界だろう。今後、リベラル政党に飛躍できなければ後はない。
しかし、出てくる新党はどれもこれも復古調の国家主義政党ばかり。時代錯誤と簡単に言ってしまえばそのとおりだが、実はそれほど単純ではないと見る。グローバル社会の現代は、経済も情報も国境を越えて複合的に機能するため、国家というものさえ時には無用ないしは障害となって立ち現れる。それぞれの国々の人々が国家という求心力から解放されたときどんな世界が訪れるのかは、単純な話ではないのでここではすすめないが、一面極端に無秩序な世界が訪れる。世界の現秩序を維持しようとする現在の支配層はそれぞれの国家秩序を維持するため、保守主義に走り国民を国家に縛り付けようとする。
例として、アメリカはグローバルな新自由主義(ネオリベラリズム)と新保守主義の路線のもとでイラク戦争を起こしたことを忘れてはならない。
不可逆的な国際化と保守主義のバランスで何とか国家運営を乗り切ろうとしているのが現在の状況だが、この保守主義は独善的な愛国主義、差別排外主義となって思わぬ不幸を国民や周辺国に及ぼす危険性があることを、歴史からも教訓化する必要がある。
この辺から今後の流動化する政治を見ていった方がいい。
2010年5月15日土曜日
辻元清美、保坂のぶとと語る会
11時から高崎音楽センター会議室で夏の参議院選挙に向け、辻元清美と保坂のぶとを招いての集会が開かれた。辻元は政府中枢に入っているのでそれなりの情報を持っているが、それでも保坂の情報はどうしても必要なものだという。
確かに、八ツ場ダムを中心とした公共事業に関しては保坂は1級の情報を持っている。しかし、それにはそれだけの力を注いでいることも事実。
中学卒業時の内申書に「政治活動を行っていた」と書かれたことで高校進学を拒否され、「内申書裁判」を16年間たたかい抜いた。社会の底辺で仕事を転々としながら、独学でジャーナリストになった経歴は大いに評価したい。
辻元は、子どもの頃、親子4人で、店の2階ひと部屋に住んでいた。風呂もトイレもない部屋にだ。友達の誕生会には行けても、自分の誕生会に友達を呼べない。これが今もヒガミになっている、と告白する。今、政府中枢で、住宅政策の抜本的変革に取り組んでいる。
こういうタイプの人間が社民主義政党の社民党で活躍することは大変貴重なこと、組織ではなく、多くの市民の思いを受けて、新自由主義と対決してもらうことを心から願う。
2010年5月14日金曜日
平居照朗先生の死を心から悼む
ついに10日、平居照朗先生が逝去された。とにかく並の人物ではないので表現に困ってしまうが、資本論を学問としてあそこまで深く理解していた人がこんな身近にいることに驚いた。勉強会を続けてもっと多くの人に学んでもらおうという意欲満々だった。中国語、韓国語、そして歴史に通じ教養も豊かで、俗っぽさも持ち合わせている。人の名前をよく覚えているのには驚いた。その人が鬼石町で儲かりそうもないガソリンスタンドを経営しているのだから面白い。私は先生の愚痴を聞いたことがない。資本主義の原理を知っていたから、愚痴なぞ言ってもなんの役にも立たないと思っていたのだろう。亡くなってからその評価が高まる人であることには間違いない。
資本論がどれほど難しいか。資本論のフランス語版にたいする序文と後書で、カール・マルクスは言う。「学問には坦々なる大道はありません。そしてただ、学問の急峻な山路をよじ登るのに疲労困憊をいとわない者だけが、輝かしい絶頂をきわめる希望をもつのです。」と。
生前、先生から「死んたときは弔辞を頼むよ」と言われていたので思いを込めて読ませていただいた。マルクスが亡くなったときエンゲルスが悼んだ言葉を援用しようかとも思ったが、いきなりは見つからないし、そこまですると、真の意味での平居照朗先生への追悼から外れてしまうので止めた。ご冥福を祈るばかりだ。塾生同士の関係も継続し「しのぶ会」を落ちついたら企画したい。
弔 辞
薫風香る5月、今は亡き平居照朗先生の御霊前に謹んで哀悼の言葉を捧げます。
7日にお見舞いしたときは、元気な様子で、短時間ではありますが、私たちとお話していただき安心していたところ、11日の朝、このような悲しいお知らせを受け、驚きとともに深い悲しみに沈んでいます。
今日は、平居塾で共に学んだ84才の小林悟さんをはじめ多くの塾生が参列していることをご報告します。
先生との出会いは、平成17年にさかのぼります。私の大学時代の友人を通じて「鬼石に経済学を講義できる先生がいるので、勉強会を企画しないか」と誘われたことからでした。どんな経済学かと尋ねると「マルクスの資本論」と言います。
私自身、若い頃から幾度となく挑戦した資本論は、あまりにも難解でそのすそ野にも入り込めない状況でした。マニフェスト(共産党宣言)すら理解したとは言えません。
半信半疑で平成18年1月から、月1回のペースで藤岡公民館を拠点にして始まった平居先生による「資本論講座」は驚きと新鮮さの連続でした。
最初は日高晋著「経済学」から経済学の考え方を学び、宇野弘藏著「経済原論」と資本論を並行学習する形での勉強会でした。そしてなんと4年間で資本論全三巻の通読解説を終えてしまったのです。参加者は当初、10人程度でしたが、その解説の分かり易さと先生の奥深いさまざまな分野に及ぶ知識の支えもあり、参加者は減るどころか、次第に増え最後には30人にも達しました。年齢も20代から80代までと全世代を縦断しています。
「この困難な時代だからこそ、資本論を学ばなければいけない」と言う平居照朗先生は、高崎経済大学から法政大学大学院を終了した宇野弘藏経済学派に属する在野の経済学者です。
先生は自由、自主を信条とし、参加者の思想・信条は全く意に介さない公平感覚あふれた人でした。勉強会の後は近くのラーメン店で、復習やら社会情勢を語り合い、夏と冬は居酒屋で酒と料理を囲んでの熱い語らいのひとときを持ちました。塾生一同、年齢も職業も信条さえも違う者同士でしたが、平居先生を中心にした4年間の学びの時間を共有した今は不思議な信頼感で結ばれるようになっています。
先生は事業経営をしながらも、時間があれば、読書、読書で、新聞はスポーツ紙も含め全紙を読み、さまざまな知識に富み、中国語、韓国語にも堪能でした。そのような人が自信を持って語る資本論は迫力があり、説得力がありました。この間の講義に対する報酬も一切拒否するなど、私たちには申し訳ない限りでした。
資本論は、資本主義社会においては、人間が資本の利益を生み出すための道具でしかないことを、一昨年秋、資本の暴走という形で起きた米国発の「リーマン・ショック」で証明しました。社会の主体が資本ではなく、人間が主体の社会に変えていかなければいけない。そのことを理解する上にも資本論学習は必要だと、みんなで議論したことを思い出します。
最終講義はどこかの大学の教室を借り「市民講座」として多くの人が参加できる企画をし、何らかの区切りにしようと考えていましたが、実現することなく、先生は私たちの元を離れてしまいました。
それは形式を嫌う平居先生の私たちに対する思いやりであり、4年間の学習をそれぞれの人生のなかで、区切りなどつけず継続して活かして生きよ、という叱咤激励と思えてなりません。
平居照朗先生、本当にお世話になりました。あなたの知識と理解度には及ぶべくもありませんが、これからも学習を続けることを御霊前にお誓い申し上げます。どうか私たちを忘れないで下さい。残されたご家族の方々をお守り下さい。そして安らかにお眠り下さい。
平成22年5月14日
資本論講座平居塾一同
代表して玉村町議会議員 石川眞男
資本論がどれほど難しいか。資本論のフランス語版にたいする序文と後書で、カール・マルクスは言う。「学問には坦々なる大道はありません。そしてただ、学問の急峻な山路をよじ登るのに疲労困憊をいとわない者だけが、輝かしい絶頂をきわめる希望をもつのです。」と。
生前、先生から「死んたときは弔辞を頼むよ」と言われていたので思いを込めて読ませていただいた。マルクスが亡くなったときエンゲルスが悼んだ言葉を援用しようかとも思ったが、いきなりは見つからないし、そこまですると、真の意味での平居照朗先生への追悼から外れてしまうので止めた。ご冥福を祈るばかりだ。塾生同士の関係も継続し「しのぶ会」を落ちついたら企画したい。
弔 辞
薫風香る5月、今は亡き平居照朗先生の御霊前に謹んで哀悼の言葉を捧げます。
7日にお見舞いしたときは、元気な様子で、短時間ではありますが、私たちとお話していただき安心していたところ、11日の朝、このような悲しいお知らせを受け、驚きとともに深い悲しみに沈んでいます。
今日は、平居塾で共に学んだ84才の小林悟さんをはじめ多くの塾生が参列していることをご報告します。
先生との出会いは、平成17年にさかのぼります。私の大学時代の友人を通じて「鬼石に経済学を講義できる先生がいるので、勉強会を企画しないか」と誘われたことからでした。どんな経済学かと尋ねると「マルクスの資本論」と言います。
私自身、若い頃から幾度となく挑戦した資本論は、あまりにも難解でそのすそ野にも入り込めない状況でした。マニフェスト(共産党宣言)すら理解したとは言えません。
半信半疑で平成18年1月から、月1回のペースで藤岡公民館を拠点にして始まった平居先生による「資本論講座」は驚きと新鮮さの連続でした。
最初は日高晋著「経済学」から経済学の考え方を学び、宇野弘藏著「経済原論」と資本論を並行学習する形での勉強会でした。そしてなんと4年間で資本論全三巻の通読解説を終えてしまったのです。参加者は当初、10人程度でしたが、その解説の分かり易さと先生の奥深いさまざまな分野に及ぶ知識の支えもあり、参加者は減るどころか、次第に増え最後には30人にも達しました。年齢も20代から80代までと全世代を縦断しています。
「この困難な時代だからこそ、資本論を学ばなければいけない」と言う平居照朗先生は、高崎経済大学から法政大学大学院を終了した宇野弘藏経済学派に属する在野の経済学者です。
先生は自由、自主を信条とし、参加者の思想・信条は全く意に介さない公平感覚あふれた人でした。勉強会の後は近くのラーメン店で、復習やら社会情勢を語り合い、夏と冬は居酒屋で酒と料理を囲んでの熱い語らいのひとときを持ちました。塾生一同、年齢も職業も信条さえも違う者同士でしたが、平居先生を中心にした4年間の学びの時間を共有した今は不思議な信頼感で結ばれるようになっています。
先生は事業経営をしながらも、時間があれば、読書、読書で、新聞はスポーツ紙も含め全紙を読み、さまざまな知識に富み、中国語、韓国語にも堪能でした。そのような人が自信を持って語る資本論は迫力があり、説得力がありました。この間の講義に対する報酬も一切拒否するなど、私たちには申し訳ない限りでした。
資本論は、資本主義社会においては、人間が資本の利益を生み出すための道具でしかないことを、一昨年秋、資本の暴走という形で起きた米国発の「リーマン・ショック」で証明しました。社会の主体が資本ではなく、人間が主体の社会に変えていかなければいけない。そのことを理解する上にも資本論学習は必要だと、みんなで議論したことを思い出します。
最終講義はどこかの大学の教室を借り「市民講座」として多くの人が参加できる企画をし、何らかの区切りにしようと考えていましたが、実現することなく、先生は私たちの元を離れてしまいました。
それは形式を嫌う平居先生の私たちに対する思いやりであり、4年間の学習をそれぞれの人生のなかで、区切りなどつけず継続して活かして生きよ、という叱咤激励と思えてなりません。
平居照朗先生、本当にお世話になりました。あなたの知識と理解度には及ぶべくもありませんが、これからも学習を続けることを御霊前にお誓い申し上げます。どうか私たちを忘れないで下さい。残されたご家族の方々をお守り下さい。そして安らかにお眠り下さい。
平成22年5月14日
資本論講座平居塾一同
代表して玉村町議会議員 石川眞男
2010年5月8日土曜日
大いなる一日、再度の竹の子狩り
2010年5月7日金曜日
結局、辺野古への移設はないでしょう。
鳩山首相、育ちも人柄もよく、真面目そうなのも理解するが、普天間問題で結局は辺野古はないでしょう。「勉強したら海兵隊の抑止力の必要性を理解した」とか。海兵隊はイラクやアフガンに真っ先に行き、突撃するもっとも危険で暴力的な部隊なのに、その暴力性を「抑止力」としてそれにすがる防衛とは何だ。日米安保はいつか日米同盟と化し、アメリカの世界戦略に深く取り込まれてきた自民党の「安全保障体制」を変えるのが政権交代だろう。日本はあくまで、専守防衛の範囲でのアメリカとのつきあいだけにすべきで、中東にまでその範囲を広げるアメリカに対し、そこまではできません、と言うのが新政権の役割のはず。「普天間基地閉鎖、撤去」でいいんだ。「軍事による安全保障」を「人間と環境の安全保障」に少しずつ変えていく外交力が決定的に求められている。
一方、我々もすっかり舐められていることに気づく必要がある。ハーバーマスの「晩期資本主義における正当化の問題」で、科学技術は進展し、識字率が高くなっているのに、何でそんな事信じちゃうのという場面がしばしばある。それは「順応性の気構え」ということ。ある情報について一つ一つ検証していけば、全部検証する基礎的な学力、能力はあるが、情報量が膨大である場合、一つ一つ検証していたら時間もかかるし疲れてしまう。とりあえず、メデイアに出る知識人の発言を正しいと受け止める気構えのこと。ワイドショウのコメンテイターの発言をとりあえず確かだろうと受け入れる。これが「順応性の気構え」、ほとんどの発言は、中国や北朝鮮の危険性を声高に叫び米軍の役割を不可欠のものとしての発言がほとんど。これでは、「普天間基地は危険だけど、どこかに移設場所を確保しないと国が守れない」などという予断が確立してしまう。反対側からの発言、検証姿勢がない中で、我々は本当の所を理解することから遠ざけられている。
本当のところ、基地を減らしながら様々な安全保障の組み合わせで近隣諸国との善隣関係を強化する道を探った方が後々いいと断言できる。
昨日、再入院した藤岡の平居先生を秋山、岩城さんと一緒に見舞った。夕暮れ時の訪問にも関わらず先生は喜んで迎えてくれた。4度目の見舞いになるが、少しやせた様子だった。
一方、我々もすっかり舐められていることに気づく必要がある。ハーバーマスの「晩期資本主義における正当化の問題」で、科学技術は進展し、識字率が高くなっているのに、何でそんな事信じちゃうのという場面がしばしばある。それは「順応性の気構え」ということ。ある情報について一つ一つ検証していけば、全部検証する基礎的な学力、能力はあるが、情報量が膨大である場合、一つ一つ検証していたら時間もかかるし疲れてしまう。とりあえず、メデイアに出る知識人の発言を正しいと受け止める気構えのこと。ワイドショウのコメンテイターの発言をとりあえず確かだろうと受け入れる。これが「順応性の気構え」、ほとんどの発言は、中国や北朝鮮の危険性を声高に叫び米軍の役割を不可欠のものとしての発言がほとんど。これでは、「普天間基地は危険だけど、どこかに移設場所を確保しないと国が守れない」などという予断が確立してしまう。反対側からの発言、検証姿勢がない中で、我々は本当の所を理解することから遠ざけられている。
本当のところ、基地を減らしながら様々な安全保障の組み合わせで近隣諸国との善隣関係を強化する道を探った方が後々いいと断言できる。
昨日、再入院した藤岡の平居先生を秋山、岩城さんと一緒に見舞った。夕暮れ時の訪問にも関わらず先生は喜んで迎えてくれた。4度目の見舞いになるが、少しやせた様子だった。
2010年5月4日火曜日
ひねもすのたりのたりかな
2日の山歩きのとき、花粉を浴びたためか、鼻くんくんで風邪だろうかと思う症状がまだ続く、いい機会だからゆっくり自宅で、ひねもすのたりのたりかな。さして手入れもしない庭だけどボタン、ふじ、ハナミズキの花が心を癒す。これからは草とのたたかいの季節だ。
昨夜は、土田夫妻呼びかけによる、高崎映画祭でご苦労された志尾睦子さんたちスタッフの慰労をかねて、ホルモン屋で一席設けた。偶然、「カチンの森」を観に来た緒方明監督も同席され映画談で盛り上がった。監督は「のりちゃんのり弁」「いつか読書する日」など秀作を撮り続けている。いろんな映画を観ているそうだ。ツッチーが専門的な話をし、我々がシロート衆として質問をする。「送り人、は最低の脚本と最高の演出だね」とそのシーンを細かく説明してくれた。
映画祭の話は多くはできなかったが、映画好きな若者がでてきたのは頼もしい。睡眠時間5時間の志尾支配人の気苦労はさらに続く。
2010年5月3日月曜日
憲法記念日に思う
昨日はひとり藤岡から神流の山を歩いた。そう距離はないけど春の新緑は気持ちがいい。早滝も2年ぶりに見た。滝壺に木枝が落ちていて一昨年夏のようには入れない感じだ。自然の中に身を置くことは安心感を覚える。これに尽きる。しかし、花粉には悩まされる時期だ。
今日は憲法記念日、上毛新聞紙上での憲法を守る意見広告にも、例年通り名前を何人かの仲間とともに入れさせてもらった。この意見広告を見た人が、同じことを考えている人がこんなにいるんだと感じ少しでも元気になればいいと思っている。
憲法を巡る情勢は大変厳しい状況に今後なることが予想される。世論調査によれば「9条を変えない」という割合が7割近いらしい。しかし、国会の状況を見れば、護憲派は共産党と社民党だけ、民主党も本当のところ分からない、というより本質は改憲政党といえる。自民党にいたっては「徴兵制」も書こうかという議論だし、「みんなの党」「立ち上がれ日本」その他新政党はどれも改憲派政党。彼らは、国会で議論を始めれば世論など簡単に変わってしまうことを知っている。無理矢理、世論操作すらしてしまうのだ。
憲法を語るとき、制定当時の状況をなぞるだけの牧歌的護憲論ではもはや時代遅れで、改憲勢力に対抗できない。彼らは、新自由主義を前提にその過酷な大競争に打ち勝つための軍事国家と国家総動員をも狙った改憲攻撃を仕掛けている。新自由主義の果てしない競争に終わりはなく、ついには勝者はだれもなく、荒廃と化した世界が残るだけこと。このことを認識しなければいけない。
我々は新しい社会、真の意味で人間が人間として生きることのできる社会を作れる地点に実はいることをもう認識すべきだ。高度に発達し、生産力も増大化した経済社会を作り出しているのは私たちだろう。分配さえ公平に行けば世界から貧困はなくなるほどの生産力を保持している。利己的な価値観を社会的な価値観に転化できれば、全く違う世界が広がる。終わりなき不毛の競争社会から人間性を基本に据えた協調社会への転化を進めることが改憲阻止の大きな力となる。江戸時代だって300年持たなかったのだ。資本主義も永遠ではない。
2010年5月1日土曜日
竹林の中へ
28日は前橋市議会議員の三森和也さんの結婚を祝う会に出席、角田義一さんや多くの仲間とお祝いした。参加者が多すぎて会場を二つにして、当人がそれぞれの会場を行ったり来たりという落ち着かないパターンだけど、それも三森さんらしいほほえましいひと時だった。素質があるだけに今後の彼の大きな飛躍を期待したい。1区選出の宮崎議員も2月に結婚し、夫婦で参加していた。
29日は3度目の竹の子取りへ。急に決まったため声掛けも不十分のなか、富岡市にある関口さんの実家の山へ6人で出かけた。小雨模様だったが竹藪の中まで雨が落ちてくることはほとんどなかった。とにかく山には慣れていないので、現場に行くのも疲れる。今年の天候不順の影響か、どこにも竹の子があるという状況ではなかったが、それでも悪戦苦闘の結果、結構な収穫があった。帰る頃には太陽が戻った。
竹の子狩りの楽しさは、山に入り、竹林の中に身を置くことにある。竹林から上を見上げると、まっすぐ伸びる竹の先に見える空の青さと深さが、なぜか安心感を与えてくれる。ときどき足元に届く陽射しは神秘的ですらある。自然の中に生きていることを謙虚に実感できる。それを感じるだけでも山はいい。
「カテインの森」が今日から上映、ポーランドは1939年9月1日にドイツに、17日にソ連に侵略される。ソ連の捕虜になった約15000人の将兵が行方不明となり、43年春、カテインの森で遺体が発見された。ドイツはソ連の仕業としたがソ連はドイツによる犯罪とした。戦後、ソ連の衛星国になったポーランドでは、この事件について語ることを禁じられていたが、1989年ポーランド雑誌が証拠を提示しソ連による行為と暴露した。2年後エリツイン大統領は、スターリンの命令によったものと言明した。
圧倒的な暴力で機械的にポーランド将兵を虐殺していく様子は戦争と命令のむごさ、又それに従うしかないソ連兵の身の置き所のない状況を現している。
ロシア革命の夢はスターリン反革命により完全に打ち破られ、今も社会主義は誤りとして多くの人々はとらえている。この観点から言えば、スターリンの罪はヒトラー以上だ。
ひとつの歴史を、戦争の罪を考える意味で是非観ることを進めたい。
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