群馬県玉村町の町長「石川まさお」のブログです。 「瞬間」と「悠久」は決して対立的な言葉ではなく、「瞬間の中に悠久」が、「悠久の中に瞬間」はあります。何かと対立関係で世の中を見ようとする流れに抗すべく、みんなが集える庵を構えました。 新自由主義政策により社会の格差が広がり、荒んでいくのをくい止めるべく、地域に根ざした活動をします。
みんな寿命を全うしようぜ
2013年8月31日土曜日
2013年8月26日月曜日
町政報告会から選挙戦へ
center;"> 箱石公民館での町政報告
酷暑続きの夏だが、昨日は暑さも少し落ち着いていた。
そんななか50人ほどの参加を得て、町政報告会を地元で開催した。 議員になった当初からお世話になっている塚越紀一県議の心強いあいさつ、中沢経吉さんの町政をよく知っていればこその発言、教育現場の状況を語った眞下元県教組委員長の激励などを受け、気持ちよく現在の町の状況、これからの展望を30分ほど話した。予定より長くなっていたが、気の知れた仲間という感覚もあり自然と話が弾んでいた。
来年開通予定の広幹道について言えば、当初は平面道路だったが、玉村部分だけが、突然、高盛り土方式に変更されたことに対し、広幹道を考える会を結成して、8000名以上の署名を背景に、当時の小寺知事に面会、平面化を要請したことや伊勢崎土木事務所長と町で5回ほど「話合い交渉」をし、平面化への流れをつくっていったこと、その糸口をつけてくれたのが塚越県議であり、伊藤基隆、角田義一両参議院議員だった。
これは私が議員になった原点のことでもあり、その仲間達が今も後援会の基軸に座っているから心強い。
他にも色んな話をしたが、初心に戻り、いざというときにはたたかう後援会がいよいよ動き出す。
気分はインドネシア
昨日は朝から集会の準備で気ぜわしかったが、早朝、友人の川田からメールが入り、「玉村町内でインドネシア人が集まって食事会をするから昼頃来い」とのこと。
よくもまあこんな忙しい時にこんなことを企画しよって、と無視していたが、はやり昼頃になると、せっかくの友からの誘いを断っては今後のつきあいに差し障りがでるなどと勝手に思い、短時間なら、という気分になり、現場へ急行。
食事の準備中だったが在日インドネシア人の勢いに押され、特に元気のいいイスラム女性にせがまれれば、男・石川イヤなどとは言いません。イスラムの帽子をかぶり記念の一枚。
しかし、川田はすっかりハマってるねえ。
その川田、4時からの報告集会にも顔を出してくれた。友情はありがたい。
安倍首相、韓国、中国に行けず、またまた中東訪問、ついにはパンギムン国連事務総長から歴史認識問題でお叱りを受ける事態、何をこだわっているのか悲しいピエロのようだ。
人間同士の交流に国境などいらない。 |
2013年8月25日日曜日
保坂展人世田谷区長は行動する人だ。
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国会議員のときは八ッ場ダム問題についても、その高い見識をもって動いていた保坂展人さんだが、世田谷区長の今もその行動力は変わらない。目線も相変わらずいい。
私なんぞは足下にも及ばないので、「保坂展人のどこどこ日記」からそのまま転載する。
デンマークのロラン島に着きました。7月2日のレオ・クリステンセンさんをお招きして講演会の様子を今日の「太陽のまちから」最新版にアップしましたので、ご覧下さい。さて、このデンマーク・ロラン島であちこちを見てまわる際のポイントは「自然エネルギー活用のための都市と地方の連携」コペンハーゲン市の自治体でも同様の取り組みをしているところがあるようです。8月上旬にひらかれた「ふるさと区民まつり首長会議」の報告を今回はお届けします。 自然エネルギー、自治体間連携で一歩を 7月下旬は大雨と不安定な天候が続きましたが、8月に入って本格的な暑さが戻ってきました。8日からは、甲子園で夏の全国高校野球大会が始まります。 電力使用量のピークは、夏の午後1時から3時ごろにかけてとされています。法人や事業所の消費量が大きく影響するのでしょうが、「猛暑にクーラーをかけてテレビで高校野球を観戦する」といったイメージが強いのも確かです。 2年前の春、大震災と原発事故を受けて、政府による「電力使用制限令」が出され、節電が大きくクローズアップされたことは記憶に新しいところです。当時、私は世田谷区のリアルタイム電力使用データを公開するよう、東京電力に重ねて求めました。紆余曲折をへて公表されるようになったのは、「23区内」の「前日分」のデータでした。 震災前年となる2010年のピークは、7月23日の1336.1万キロワット。一方、7月から8月にかけての電力使用量は平均すると800万から900万キロワットということがわかりました。一般に「電力需要」とされていたものが可視化できるようになり、電力供給が逼迫(ひっぱく)するピーク時間帯には、グラフを見て、電力使用を抑制するように呼びかけることができるようになったのです。現在も、情報開示は続けています。 さらに昨年、世田谷区では200カ所の「お休み処」を指定しました。公共施設や高齢者施設、集会室、薬局、銭湯などに人が集まれば、結果的に節電につながり、涼みながら水分を補給することで熱中症対策にもなると考え、「お休み処」を記した「涼風(すずかぜ)マップ」配りました。 ピーク時を避けた効果的な電力使用やクールシェアによる地域内の使用量抑制に取り組んできただけでなく、自然エネルギーを活用して、交流自治体との地域間連携を強めようとも考えています。 この3日と4日に「せたがやふるさと区民まつり」が開かれ、34万人が来場しました。世田谷区最大のイベントです。そのなかで、交流のある36自治体のうち、15人の市町村長などが顔をそろえてくださいました。 北から順番に、青森県西目屋村長、岩手県八幡平市長、岩泉副町長、秋田県横手市副市長、山形県舟形町総務課長、福島県本宮市長、西会津町長、群馬県川場村長、埼玉県熊谷市長、新潟県十日町市長、長野県豊丘村副村長、島根県隠岐の島町副町長、香川県土庄町長、熊本県熊本市副市長、沖縄県宮古島市長の皆さんです。 この「首長懇談会」では、私がまず、神奈川県三浦市の区有地に太陽光発電所を建設していることを紹介しました。そのうえで、「交流自治体のエネルギー事業で生まれた電気を、PPS(新電力=特定規模電気事業者)を通じて、88万の人口を抱える世田谷区が購入すことができれば」と語りかけました。小さくとも確実な一歩を刻んでいきたいとの思いを伝えたのです。 すると、さまざまなエネルギー事業の取り組みが報告されました。 「太陽のまちから」(2013年8月6日) 「日本初の商業用の地熱発電所が運転をはじめて40年目を迎えている。さらに事業化に向けた努力をしているが、東北電力は受電する能力がなく、逆に市が多額の設備投資を求められている。国の政策で進めているのに、事業者が壁となっている」(八幡平市) 「間伐材を使った木質バイオマス発電や、川を使った小水力発電を2年後には開始したい」(川場村) 「温泉の熱を利用するバイナリー発電に取り組み、キノコを栽培した後の廃菌床の木材を使ったペレットも生産している。こうして削減した二酸化炭素の排出権をソニーに売却している」(十日町市) 「公共施設の屋根貸し事業で、市は使用料収入を得ている。また、調整池の土地を太陽光発電用地としても貸し出している」(熊谷市) 「来間島で88世帯の屋根を一軒2万円で借り、太陽光発電で島の電力をまかなう事業で年間2千万円の収益をあげている。4千世帯分の電力をまかなうメガソーラも設置。2人乗りソーラーカーを開発していてレンタカーとして使いたい」(宮古島市) 世田谷区ではふたたび10月に会合を呼びかけ、本格的な交流から実際のプロジェクトへとつなげていく予定です。 |
2013年8月21日水曜日
藤沢周平本を読む
1月に行った還暦同窓会の席での話だったらしい。
新井淳ちゃんが藤沢周平の本に入れ込み、その深みを話していると、内田典子も意気投合、後日、藤沢本を16冊、淳ちゃんは典子ちゃんに持って行った。
彼女は勢いで3冊を数日で読み切り、偶然会った私に「淳ちゃんに返して」と3冊を渡された。2月頃のことだっただろうか。
藤沢本は私とて好んで読んでいたが、この3冊はまだだったので、そのまま、借り、今日に至っていた。
その「玄鳥」「雪あかり」「はしり雨」の3冊を昨夜読み切った。
寝り込むために本をひろげるようなもので、どうしても時間がかかってしまう。
また、読み切ったなどと偉そうにいっても内容はほとんど覚えていない。
しかし、藤沢周平作品はじっとくる。今は昔の時代に生きた人々が、活き活きと目の前に現れてくるようだ。とても親近感あふれる人たちが登場し、今と変わらない感覚で生活している。
生きている今が大事なんだ、と感じさせてくれる。
雪の季節になったら、同級生に声をかけ、鶴岡市の藤沢周平記念館を訪ねたくなった。
しかし、福島原発事故は底なしだ。第一原発の地上タンクから300トン以上の高濃度汚染水が漏れ出し、極めて危険な状況が起きている。いったいどう対処しようとするのか。
集団的自衛権や憲法改正、誇りある国づくりどころではないだろう。
原発事故にまともに対応できず、誇りある国などといえるのか。
藤沢周平が描いた時代の人々を想いながら生きていきたい。
新井淳ちゃんが藤沢周平の本に入れ込み、その深みを話していると、内田典子も意気投合、後日、藤沢本を16冊、淳ちゃんは典子ちゃんに持って行った。
彼女は勢いで3冊を数日で読み切り、偶然会った私に「淳ちゃんに返して」と3冊を渡された。2月頃のことだっただろうか。
藤沢本は私とて好んで読んでいたが、この3冊はまだだったので、そのまま、借り、今日に至っていた。
その「玄鳥」「雪あかり」「はしり雨」の3冊を昨夜読み切った。
寝り込むために本をひろげるようなもので、どうしても時間がかかってしまう。
また、読み切ったなどと偉そうにいっても内容はほとんど覚えていない。
しかし、藤沢周平作品はじっとくる。今は昔の時代に生きた人々が、活き活きと目の前に現れてくるようだ。とても親近感あふれる人たちが登場し、今と変わらない感覚で生活している。
生きている今が大事なんだ、と感じさせてくれる。
雪の季節になったら、同級生に声をかけ、鶴岡市の藤沢周平記念館を訪ねたくなった。
しかし、福島原発事故は底なしだ。第一原発の地上タンクから300トン以上の高濃度汚染水が漏れ出し、極めて危険な状況が起きている。いったいどう対処しようとするのか。
集団的自衛権や憲法改正、誇りある国づくりどころではないだろう。
原発事故にまともに対応できず、誇りある国などといえるのか。
藤沢周平が描いた時代の人々を想いながら生きていきたい。
2013年8月18日日曜日
玉村町町議選の旗揚げ準備と映画ロケ見学
ロケ地は玉村南中プール |
2013年8月16日金曜日
逆さ地図で見る日本と不戦を誓わない安倍首相
2013年8月13日火曜日
激暑のなか8月15日「敗戦記念日」が迫る。
10日の土曜日、10月6日の玉村町議会選挙に向け、たたかう意志表明と支援のお願いのため、地元箱石地区を阿藤栄後援会長、金子修幹事長と3人であいさつ回りをした。
自転車を使いながら、3時間ほど回ったが、暑くて暑くて頭がクラクラしてくるのがわかった。
途中、休憩し、水分補給をしたが、その後も暑さは一層強まり、正午を少し回ったところで、あいさつ回りを何とか無事終了、事務所に帰り、冷たいビールを飲み、軽食を取り、昼休み、ということで何とか命拾い。
熱中症とはこういう症状だろうと実感したが、戦争中、前線に送られ、戦いをになった兵士たち、とくに、中国戦線、南方戦線の暑い地域に送られた兵士たちは、もう生きているだけで精一杯、現実の戦いなど出来なかったのではないか。
この時期になると、「語り継ぐ戦争」特集(朝日新聞)が組まれ、その悲惨を描く。
今朝は、東部ニューギニア第18軍直轄通信隊の通信兵だった吉賀清人さん(92歳)が投稿した「夢にも忘れぬ戦場ニューギニア」。
〈ポートモレスビーを目指し東進するも米豪の制空権下、後退を余儀なくされ、海岸寄りのヤシ林、ジャングルの中を西へ400キロ以上転進を重ねた。この間、食料はない。全員飢えと周期的に発熱するマラリアに侵され、健康な兵士は皆無。
翌1944年4月には西方アイタペに米軍が上陸。我々は完全に退路を断たれ、山間に逃げ込んだ。体力・気力は消耗し、力尽きる者が続出した。倒れた者はウジがわく死体となり、無間地獄だった。
---飢えた日本兵の中に現地住民の食料を強奪した者がおり、他の中隊の10人くらいが報復で白昼殺された。
現地住民に期待した食料の供出は乏しく、我々はヘビ、ネズミ、木についた虫は何でも食べた〉
戦争体験者は多くを語らない人が多い。その余りにむごい体験だけに口を開けないのだそうだ。しかし、数少ない体験者の話から、死体にわくウジを食べたり、すごいものになると人肉まで食べたという話を聞いた。
戦争とは人間を人間でなくすることから始まる。まともな人間ならば、出来ないことを戦争という国策のもとで強制されるのだ。
戦争ははじめから非人間的、非人道的なものだ。
戦争でその意に反し、死んでいった多くの兵士が望むことは、平和であり、後生の人たちを二度とこのような悲惨な目にあわせるな、という強い思いだろう。
彼らの犠牲のもとに手にした、二度と戦争はしない、政府に戦争をさせないと誓う日本国憲法、これを改正しようとする動きが強まっている。
戦争の実態を直視しようとしない右翼連中が政権に入ってしまった。
人の世に仇なし、歴史に仇なし、未来に仇をなそうとする勢力との本格的なたたかいが始まる夏だ。
自転車を使いながら、3時間ほど回ったが、暑くて暑くて頭がクラクラしてくるのがわかった。
途中、休憩し、水分補給をしたが、その後も暑さは一層強まり、正午を少し回ったところで、あいさつ回りを何とか無事終了、事務所に帰り、冷たいビールを飲み、軽食を取り、昼休み、ということで何とか命拾い。
熱中症とはこういう症状だろうと実感したが、戦争中、前線に送られ、戦いをになった兵士たち、とくに、中国戦線、南方戦線の暑い地域に送られた兵士たちは、もう生きているだけで精一杯、現実の戦いなど出来なかったのではないか。
この時期になると、「語り継ぐ戦争」特集(朝日新聞)が組まれ、その悲惨を描く。
今朝は、東部ニューギニア第18軍直轄通信隊の通信兵だった吉賀清人さん(92歳)が投稿した「夢にも忘れぬ戦場ニューギニア」。
〈ポートモレスビーを目指し東進するも米豪の制空権下、後退を余儀なくされ、海岸寄りのヤシ林、ジャングルの中を西へ400キロ以上転進を重ねた。この間、食料はない。全員飢えと周期的に発熱するマラリアに侵され、健康な兵士は皆無。
翌1944年4月には西方アイタペに米軍が上陸。我々は完全に退路を断たれ、山間に逃げ込んだ。体力・気力は消耗し、力尽きる者が続出した。倒れた者はウジがわく死体となり、無間地獄だった。
---飢えた日本兵の中に現地住民の食料を強奪した者がおり、他の中隊の10人くらいが報復で白昼殺された。
現地住民に期待した食料の供出は乏しく、我々はヘビ、ネズミ、木についた虫は何でも食べた〉
戦争体験者は多くを語らない人が多い。その余りにむごい体験だけに口を開けないのだそうだ。しかし、数少ない体験者の話から、死体にわくウジを食べたり、すごいものになると人肉まで食べたという話を聞いた。
戦争とは人間を人間でなくすることから始まる。まともな人間ならば、出来ないことを戦争という国策のもとで強制されるのだ。
戦争ははじめから非人間的、非人道的なものだ。
戦争でその意に反し、死んでいった多くの兵士が望むことは、平和であり、後生の人たちを二度とこのような悲惨な目にあわせるな、という強い思いだろう。
彼らの犠牲のもとに手にした、二度と戦争はしない、政府に戦争をさせないと誓う日本国憲法、これを改正しようとする動きが強まっている。
戦争の実態を直視しようとしない右翼連中が政権に入ってしまった。
人の世に仇なし、歴史に仇なし、未来に仇をなそうとする勢力との本格的なたたかいが始まる夏だ。
2013年8月8日木曜日
松井田町でブルーベリー狩り
ブルーベリーの分配、向こう側には線路 |
帰り際に全員集合 |
2013年8月6日火曜日
「かがや富士子を励ます会」と映画「漂泊」撮影終了後の打上げ
真っ直ぐ語るかがや富士子 |
選挙戦を支えた伊勢崎選対事務局 |
食事をしながらの歓談にもキャストの成長がうかがわれる。 |
藤橋監督と主演キャスト |
2013年8月5日月曜日
いよいよ「漂泊」撮影も5日に終了予定
藤橋監督と撮影の打ち合わせ |
2013年8月4日日曜日
荻村伊智朗と「南北統一コリアチーム」を描いた映画・「ハナ 奇跡の46日間」
《ハナ 奇跡の46日間》 |
1991年世界卓球選手権(開催地・千葉県幕張市)で結成された南北「統一コリア」チームを描いた映画だが、当時は韓国の軍事独裁政権の延長線上の時代なので南北間の緊張はものすごく厳しかった。
87年、盧泰愚大統領が民主化宣言をしたが、まだまだ在日はよく捕まっていた頃、なぜ統一チームができたのか。
荻村伊智朗が国際卓球連盟の会長になり、彼の努力により実現したのだが、その道は険しかった。
荻村は選手時代を通じて、長い時間をかけてできた友人が南北にいた。そして中国の周恩来から絶大な信頼を得ていた。
あの時代に韓国や北朝鮮に行って交渉しようなどという気持ちになること自体が希有な状況の時、彼は韓国に20回、北朝鮮に15回行って交渉した。あきらめないということ。
しかし映画には統一チームになる経緯が描かれていない。
1980年生まれのムン・ヒョンソン監督がなぜ統一コリアチームができたかという経緯を全く知らなかったのだ。
単純なエンターテイメントとして、シナリオを作っていた感じだったが、日本に来て卓球関係者に会う度に「なぜ荻村さんが描かれていないの?」と言われ、最終的にパンフレットを作るときに荻村の名前を入れた。
今年の5月、パリでの世界選手権で史上初めてミックスダブルスで男女の北朝鮮と韓国が決勝で対決し、北朝鮮が勝った。
「今、北と南は大変でしょうけど、それに関してはどう考えているか」という記者の質問に対し、韓国卓球協会副会長は「スポーツをやりに来たので、そのような質問に対しては、今は答えられない。ただし韓国の代表として、北朝鮮の兄弟が優勝したことに対して祝福します」と述べ、優勝カップを北と南の人が持って一緒に記念撮影に収まっていた。
北朝鮮は当時の選手が今は選手団の団長になり、韓国でもヒョン・ジョンファという選手がこの間のオリンピックまで専務理事だった。
幕張の世界選手権「統一コリアチーム」の感動は息づいている。
国境を越えた「おせっかい」がいることが大事、「第二の荻村伊智朗よ、出でよ」と対談は結ぶ。
映画「ハナ」にはハ・ジウオン、ぺ・ドウナが主演する。
日本の浅はかな政治により日韓、日中関係が不安定になっている時だけに、是非、観て欲しい映画作品だ。
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