次郎長宅前での大塚先生(右)と玉村八幡宮宮司
「今朝、大塚政義先生が急逝された」と、夕刻、奥さんから連絡があり、玉村八幡宮の宮司梅林さんと富岡の自宅にお見舞いに行った。
心臓が悪かったのは知っていたが、これほど急に亡くなるとは家族も予想していなかったという。
大塚政義さんとはまだ6、7年のつきあいだが、とにかくまめな人で、玉村町でも国定忠治、水戸天狗党の講演会を4回ほど行った。
4回ほどというのは、少なくとも私と梅林宮司主催で4回は行った、しかし、伊勢崎市東村で数回、甘楽町、藤岡市、前橋市で数回の講演を聴いているので、回数は定かでなくなっているのだ。
最初は国政選挙の投票日当日で大雨、会場は玉村八幡宮だった。
「今朝、ここへ来る前に、大戸の関所の忠治の墓に行って、玉村町で忠治親分の話をしてくると、報告したら、みなさんによろしく、とのことでした。」から始まる。
聴く人を飽きさせない話しぶりと、全く人を平らに見る人柄に惹かれた。
しかし、忠治の話、4回も聴くと正直のところ、もういいよ、とも思うのだが、周囲の人から大塚先生の講演会をやって欲しい、という声が上がるから不思議だ。
忠治人脈の広さに驚いたこともたびたびある。
筆まめで毛筆書きの手紙やハガキはすでに分厚くなっている。 しかし、大塚先生はむしろ水戸史学会会員で水戸天狗党がむしろ専門という郷土史家だ。
天狗党が1864年、1000人の隊列で京都を目指し行軍した際の、下仁田町での高崎藩との戦争の実態を解明した功績は大きい。
「水戸天狗党と下仁田戦争150話」に詳しく述べられている。
6年ほど前、下仁田町に行き、大塚先生に半日かけて下仁田での天狗党と高崎藩の戦争のいきさつと現場を案内していただいたことは特に忘れがたい。
水戸は勿論、天狗党が処刑された敦賀まで何度となく足を運んだという。
最後に会ったのは昨年9月に清水市に一緒に行った時だ。
清水次郎長の家に行く企画をした梅林宮司さんらと5人の日帰りの旅だったが、大塚先生がいなければ何のことはない、ただのお墓参りになるところだった。
次郎長の人となりと時代背景、菩提寺の梅陰寺の説明は担当者より明るい。
なぜこんなにヤクザの世界を知ってるのと驚いてしまった。
「山岡鉄舟との出会いが次郎長にとっては大きい。忠治にはそれがなかった。反権力一本槍の忠治、二足のわらじをはかない忠治、いかにも上州人らしいよね」との解説はわかりやすい。
「また玉村でもお話しますから、いつでも呼んでください」が最後の言葉になってしまった。
その後、母親の喪中はがきを年末に出すと、「ご母堂さんのご不幸を知らずに申し訳ありませんでした」と丁寧にお返しのハガキが届いた。恐縮の限りだ。
「桜田門外ノ変」や「生麦事件」などの歴史小説を書いた吉村昭著「史実を歩く」を読んだことがある。
吉村昭はそれらの取材で現地に何度となく足を運び、丁寧に史実と向き合った。そういうとき必ず地元の郷土史研究家の人たちの資料や話が大いに参考になると言っていた。
大塚先生もそういう役割を十分果たすことができる位置にいたことは事実だ。
国定忠治の本を何冊も書いている髙橋敏さんともお会いしたいと話していた。
会えていれば、当時の産業を含めた社会情勢など、より深い分析も可能だったろう。
あのおおらかで親しみやすい大塚政義先生にもう会えないと思うと寂しい限りだが、いつまでも心のなかに生きていることは確かだ。
冥福を心から祈りたい。
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