群馬県玉村町の町長「石川まさお」のブログです。 「瞬間」と「悠久」は決して対立的な言葉ではなく、「瞬間の中に悠久」が、「悠久の中に瞬間」はあります。何かと対立関係で世の中を見ようとする流れに抗すべく、みんなが集える庵を構えました。 新自由主義政策により社会の格差が広がり、荒んでいくのをくい止めるべく、地域に根ざした活動をします。
みんな寿命を全うしようぜ
2010年7月20日火曜日
14年ぶりの一茶は暑い夏
小林一茶は、その不遇さもありとても気になる存在だ。3度ほど訪ねているが、最後に訪ねたのは、私の父親が闘病中だったが、家族旅行もできた14年程前のこと。家族で妙高高原へ行く途中だった。今のような立派な記念館ではなかった。行く季節はなぜかいつも夏。一茶記念館には、柏原町の一茶にかける強い思いを感じさせる展示品の数々がある。
ナウマン象の模型を見て野尻湖を一周し、信濃町駅近くのそば屋で信州そばを食べ、小布施町でお茶を飲み、連休最終日の渋滞を避けるため、少し早めに高速を降り、吉井町のうまいとんかつの店で下山祝いをし、完璧な一日だった。20年前は、毎週、新潟の海に行き、良寛さんにまつわる地を訪ねていたが、海に行って泳ぐ気力がなくなった。やはり年かねえ。
木々おのおの 名乗り出たる 木の芽かな
(希望も意欲も感じさせる一茶27才の作)
弥太郎(一茶)は父・弥五兵衛の後妻さつとの関係が悪化したため、父により江戸に奉公に出された。江戸で誹諧師として身を立てようとしたが、そう簡単なことではない。
40才近くなって久しぶりに実家へ帰った一茶に、年老いた弥五兵衛は、「財産二つ分け」の遺言状を一茶の弟・仙六、義母さつの反対を押し切って書き「大事にしまっておけ」と一茶に託した。田畑を大きくしたのは父の働きだけでなく、弟や義母に負うところも多いことを知っていた一茶は、遠慮をしていたが、長男である一茶を江戸に出さざるを得なかった父は、まだ独り者で生活も不安定な一茶に対し強い贖罪の気持ちから遺言状を書いたのだった。
父の死後、江戸での生活に見切りをつけた一茶は苦しさもあり実家に帰り、遺言状のとおりの財産分けを主張する。しかし、誰もがそれは無理という。本家の弥市の努力や村役人立ち会いの上での話し合いもつかないなか、名主の嘉右エ門を呼んだがこれでも話がつかない。最後に遺言状を手に一歩も退かない一茶と集まった者達に、「遺言状というものは重いもの、出るところへ出ればこれがものをいう」と嘉右エ門は裁定を下した。
具体的な財産分けでも大もめし、菩提寺明専寺の住職に入ってもらわねばならなかった。
古里やよるも障るも茨の花
(古里に帰り、親戚一同と一悶着して割り込んでいかねばならない状況の時作った歌)
そして一茶52才の時28才の菊と結婚、歌仲間の德左エ門が「江戸帰りの宗匠で、いまにこのあたり一帯に一茶社中をたてる人だ」といって口説いてくれた。
長男・千太郎、長女・さと、二男・石太郎、三男・金三郎と次々子どもが生まれた。
妻を持ち子どもをもっていい句も生まれた。
あの月を とってくれろと 泣く子哉 (作51才)
短夜や くねり盛りの 女郎花 (作51才)
(何とも色っぽい歌だ)
我と来て 遊ぶや 親のない雀 (作52才)
ふしぎ也 生まれた家で 今日の月(作54才)
這へ笑へ 二つになるぞ 今朝からは (作56才)
目出度さも ちう位也 おらが春 (作57才)
雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る (作57才)
あるとき夫婦喧嘩で傷ついた菊はとうとう実家に帰ってしまった。数日後の日暮れ、人恋しくなった一茶は、柏原から野尻に向けて歩いていた。女房の尻を追っかけるようにしてこんなところまで来てしまった自分に腹が立ったが、今夜も帰らない菊にも腹が立った。そんなとき街道をこちらに近づく足音がする。「おとうさん、迎えに来てくれたかね」。菊と分かった一茶は不意に目が潤んだ。「仲ようせんとな」。
その夜、一茶は「お前は菩薩さまじゃ」と言って、ひとつ床の菊を抱いた。「私が観音さまじゃ、なぜ悪口言って泣かせた?ん?」。夜の深まりのなか、54才の男と30才の女がまるで20代の男女のように騒々しく睦み合った。
翌朝、机の句帳を取り出し、昨日8月8日の項を書いた。「晴、夕方一雨。雲竜寺葬。菊女帰」と書いた。しばらく考えた後、「夜五交合」と書き足した。
この4文字を追加したために、一茶は後世で「荒淫」とも「好き者」とも言われる。4回やろうが5回やろうが、それはたいしたもんだとは確かに思うが、一茶と菊にとり、肉体的にも感情的にもそれだけの回数をこなす舞台が整っていたということだろう。それに尽きる。
しかし、足を悪くし、杖を使わずに歩くのに苦労していた一茶に不幸は襲いかかる。
生まれた子どもが、いずれも幼くして亡くなり、菊も37才の若さで亡くなる。
ともかくも あなた任せの 年の暮れ (作57才)
木枯らしや 廿四文の 遊女小屋 (作57才)
春立つや 二軒つなぎの 片住居 (作58才)
やれ打つな はえが手をする 足をする (作59才)
(どの歌もやたらとしんみりさせたり、小さなものを見たりと一茶の置かれた悲観と貧困の状況を現している。)
一茶62才で、雪という女性と再婚するも、酒を飲み過ぎ寝小便をするなどし、ふた月あまりで離縁。
雪が去った1ケ月ほどした頃、一茶は二番中気をわずらい言葉も不自由になった。門人の家から家へ転々と手渡され12月になり柏原の自宅に戻った。面倒を見てくれる人はいない。
寒空の どこでとしよる 旅乞食(作62才)
そして最後の結婚相手は雪が去ってから2年後、自分の身の始末も満足にできない一茶に嫁いだやをは32才。柏原の小升屋に乳母となって雇われていたが、柏原で一番の大地主中村徳左衛門の三男との間にできた2才になる倉吉を連れてきた。一茶はやをの素性に菊を重ね合わせた。
やをは年寄りの一茶に愛情を持ち、家のことも一茶の面倒もみた。一茶はそのやをに身ごもらせ65才で死んだ。(54才での回数よりこの方が驚きだ。)
枕元では、やをは一茶の手を握りながら泣き、義母さつも看取った。翌年生まれた娘・やたは46才まで生きる。
山寺は碁の秋 里は麦の秋 (作63才)
花の影 寝まじ 未来が恐ろしき(作65才)
「わしを誰もほめてはくれなんだ。信濃の百姓の句だという。わしやの、やを、森羅万象みたいな句にしてやった。月だの、花だのと言わん。馬から虱、そこらを走り回っているガキめらまで、みんな句に詠んでやった。ざっと1万、いや2万句じゃぞ。そんなに沢山に句を吐いた人はおるまい」「えらいもんだねえ、じいちゃん」}{一茶・藤沢周平}
映画「川の底からこんにちは」で主人公が「どうせ私は中の下よ」と叫び、「サイタマノラッパー」も「中の下」の世界だ。一茶自身、「中の下」?
なによりその時代はほとんどの人々は貧しかった。一茶に感心があると言うことは、一茶と周辺の人々、その時代を生きた人々に思いを寄せること。そして最後に解ることは、中も上も下もありゃしないということ。
誰もが時間の同じ刻みのなかで、一度の人生をそれぞれ生きているというだけのこと。
「中の下 それがどうした それでどうした」
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