李政美さんのミニコンサート
【ふくしまで暮らすということ】
〈ある福島在住の一女性(吉田麻里香さん)によるノート〉
ふくしまで暮らすということ。
わたしがふくしまで暮らすということ。
わたしにとってふくしまで暮らすということ。
例えば、朝起きて窓を開けて深呼吸する習慣がなくなったこと。
例えば、洗濯物を外に干せないこと。
例えば、庭の畑で採れた野菜を捨てるということ。
例えば、私が何も言わなくても、線量計とマスクを身につけて外 出する娘の姿に胸がチクッと痛むということ。
例えば、この真っ白な雪に触れられないこと。
例えば、「がんばろう福島」のスローガンに時々わずかな苛立ちを感じること。
例えば、いつのまにか呼吸が浅くなっていること。
例えば、福島に住んでいることを誰かに話すとき、「でもうちは線量が低いから・・・」と聞かれてもいないのに説明してしまうこと。
例えば、ふくしまには福島とフクシマがあると、感じること。
例えば、ふくしまに「とどまれ」と言われると、「人の命をなんだと思っているんだ」と言いたくなり、「避難しろ」と言われると「そう簡単に言うな。こっちにも事情があるんだ」と言いたくなること。
例えば、6歳の娘が将来結婚できるかが今から心配になってしまうこと。
例えば、ふくしまに住んでいるという選択の責任を放棄したくなること。
例えば、わたしたちの日常が誰かの犠牲と努力によって保たれている薄氷のような「安全」の上に成り立っているという当たり前の現実を、毎朝腹の底から理解するということ。
例えば、明日にはこの家を遠く離れるかもしれない、と毎晩考えること。
例えば、それでも明日もこの家で暮らせますように、と毎晩祈ること。とにかく、娘の健康と幸せを祈ること。
あの黒煙が脳裏から離れないこと。
それでも、毎日をそれなりに楽しく暮らしていること、誰かにわかってほしいということ。
毎日、怒ること。
毎日、祈ること。
黒田節子さんに紹介された詩だ。
選挙結果など吹き飛ばしてしまうほど重い現実のなかで生きている福島の人たちを思えば、自公政権の反動政策などに屈するはずがない。
その意気の人たちが勝ち取った尊いクリスマスデモと講演会だった。
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