裁判を語る下山弁護士
「記憶、反省そして友好」の追悼碑の存続を求める集会が高崎労使会館で行われた。
朝鮮人、韓国人強制連行犠牲者を追悼する思いを戦後70年の今年、改めて確認することは、同じ過ちを繰り返さないためにも重要なことだ。
〈強制連行はなかったという主張があるが、とんでもない話で、朝鮮半島で日本内地への暴力的な労務動員が広く存在していたことは、資料や証言からも否定しがたい事実。
政府は1939年から毎年、日本人を含めた労務動員計画を立て、閣議決定した。朝鮮からの動員数も決め、日本の行政機関が役割を担った。手法は「募集」「官斡旋」「徴用」と変わったが、すべての時期でおおむね暴力を伴う動員が見られ、約70万人の朝鮮人が主に内地に送り出された。
実際、内務省が調査のため1944年に朝鮮に派遣した職員は、動員の実情について「拉致同様な状態」と報告し、厚生省から出張した職員も45年1月、村の労務係の言葉として、「住民から袋だたきにされたり刃物をつきつけられたり命がけ」だと報告を受けている。それほど抵抗が広がっていたのに、大日本帝国は無理を重ね、逆に動員数を増やしていった。
90年代半ばから、資料の発掘が進み、朝鮮人の待遇が日本人よりよかったとか、自ら望んで日本に来た人がいたとか、事実の断面を都合良く強調することにより、別の歴史を作り上げていく動きが強くなり、ついには「強制連行」までもが「なかった」ことにしようとする勢力が出てきた。
この流れは、「こうあって欲しい」という歪んだ願望や妄想に近く、歴史の本流とかけ離れた例外的事実をまるで本流に入れ替えようとする悪意ある試みだ。
戦争に勝つための国家運営や構想、政策とはほど遠かった現実が日本にはある。
英国では労働運動が盛んだったので、労働者の意見を取り入れたほうが生産性も上がると考えたが、日本では、民主主義も労働運動も弱かったので、「とにかく働け」となった。
朝鮮に長く住んだ役人のなかには、創氏改名に反対した人もいた。そういう声は上には届かず、現地の事情に疎い役人が無理な計画を立て、動員数を達成するため、老人や病人まで送り出し、すぐに送り返すようなことまで起きている。
民主主義を欠いた社会が十分な準備も態勢もないまま、目標に突き進めば、結局は、その社会で最も弱い人々が犠牲になる。社会全体も人間らしさを失っていく。そういう歴史として記憶すべきだ。
追悼碑の問題も自治体は明らかに腰が引けている。
地元の人々が強制連行の歴史を掘り起こした地域も少なくない。そういう歴史があったということを自治体トップがキチンと認め、発信する。
歴史の真贋を見抜く力が私達に求められている。
歴史学者・ 外村大 〉
4月17日付朝日新聞記事から。
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