滋賀県大津市内中学校での男子児童の自殺を巡り、またしても「いじめ論議」が活発化している。
学校等への警察の強制捜査ということもあり、学校が悪い、家庭にも問題が、などとさまざまなことを主張したいのだろうが、その警察だって3回に及ぶ家族の相談に対して当初は動かなかった。
いじめはあった。しかしなぜ彼を自殺にまで追い込んでしまったのかその原因を究明すべきだ。
私は教育者ではないので、細かいことはわからないが、教育の現場が子供のために正しく機能していないことは想像できる。
特に教育基本法が改悪されて以来、何かと、学校評価、教員評価、数値目標など管理と競争が一段と強化され寛容さが教育から失われているのではないだろうか。
教師の日常は行政側から学校側へ下ろされてくる数値目標(学力テストの点数、有名校への進学者数、センター試験の得点率、生徒や保護者の授業評価や学校満足度調査)に翻弄され、それらの達成に貢献できなければ、その教師は勤務評価で高く評価されない。
いじめなどへの地道な取り組みは数字に表せないので、教師にとり見栄えのしない仕事になってくる。
教育は全人教育なのだから、いろんなタイプの教師が必要なのだが、数値で評価されるとなると、どうしても偏ってくる。
教師集団が補完作用を働かすことのできる機能を再生する必要がある。職員組合の再生強化こそが急務だろう。
うわべの道徳教育や武道選択、武道選択に至っては「何を今更武道?」とあきれてしまうが、保守派の考え方は至って単純、「形だけ整えればそれでいい」のだ。
また武道の選択といっても子供たちが選択できるのではない。学校が武道を選択するのだ。それは子供にとり、「その意に反する苦役」になりかねないことだ。
我が日本古来の国技たる相撲を選択した学校はほとんどない。中学生男女がマワシをつけてガチンコ相撲とる姿を想像すると、選択しづらいことは理解できる。選択したら親が文句を言うだろう。「なんでよりによってスモウ何ですか」って。
結果、費用等の関係もあり柔道の選択が多いようだ。
しかし、今度は、事故やケガへの配慮から、投げは禁止で受け身の練習のみ。教える教師も不足。深みも何もないのが現状。
「あいさつができるようになればいい。それが日本の心だ」
全く質は問わずうわべだけで、伝統と文化が理解できようはずもない。
新自由主義的国家経済至上主義に基づく国策としての人材育成教育体制(国家目標を設定し、市場原理で競わせ、成果に応じて評価・分配・序列化し、効率よく国に役立つ人材を養成する制度)そのものがいじめを生み出し、恒常化させている。
国連「子どもの権利委員会」が子どもの権利条約に基づいて以前から日本政府に勧告している。
「日本の高度に競争的な教育制度そのものが子どもたちに過度のストレスを醸成し、子どもたちの発達のゆがみを生み出している。」とし、「知的な人材教育に偏重するのではなく、子どもが人間として成長発達できるような制度にバランスを回復せよ」と。
いじめはどこにでもある、自衛隊にも。
海上自衛隊の護衛艦「たちかぜ」の男性乗組員(当時21歳)が
2004年に自殺した事件で、自殺の前日に「いじめにより自殺する決心をした。」と同僚の1人に告白し、自殺直後、この同僚からその内容を聞き取り文書化したものを開示せず、「いじめが自殺の原因ではない」と自衛隊側は主張していた。
自衛隊というと別の世界と考えがちだが、昨今の自衛隊の動きを見ると、やはり、本質として「軍隊」だということを見ておくべきだ。そこに供給される人間は我々の側、99㌫の側の仲間だ。
旧軍がどのようなやり方で軍を統制してきたか、おだてと暴力、脅しによる統制・規律だ。
天皇制の権威をもとに強烈な愛国心を叩き込み、国のための自己犠牲=死すら強要され、戦死すれば靖国神社へ英霊として祭られる。
悲しみが喜びに転換する装置としての靖国神社まで用意されている。「死の錬金術」(高橋哲哉著・靖国問題参照)だ。
その体質は基本的には変わっていないだろう。
自衛隊内のいじめは表に出るのは氷山の一角、閉鎖社会だからこそ、まだ若い隊員の人権や自由の保障を周囲が支援する必要がある。
その意に反する理不尽な命令を拒否するためにも。
これらの裁判にも注目していきたい。
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