みんな寿命を全うしようぜ

みんな寿命を全うしようぜ
西表島で会った昼の蝶

2010年8月29日日曜日

袴田事件をもとに創られた「BOX」 髙橋伴明監督

政権交代の成果が見られないとよく言われる。そうはいってもまだ1年だから長い目で見ようよ、と言う人もいる。
しかし、えん罪に関して言えば、その再審は喫緊の課題だし、代用監獄に象徴される明治時代の遺物になにも手をつけられない新政権ていかがなものでしょう。弾圧を欲しいままにしていた権力側が青くなるような改革をすることを政権交代の中にに求めている人はたくさんいるのに、自民党政権と全く変わらないのではどうにもならない。

袴田事件で描かれているものは、代用監獄での過酷な拷問ともいえる取り調べの中で、「とにかく自供しろ、裁判で争えばいいんだから」と強制された自白でさえ、いざ裁判になれば、その自白の任意性を裁判所が否定することはほとんどない。1年後に不自然に発見された下着類を事件の証拠にさえして、当初の検察側の主張との齟齬すら見逃し死刑判決を下す。裁判を人生の出世の道具にしている裁判官が多くいる中で、良心と正義を貫こうとしている裁判官を描いた作品。

裁判員裁判で死刑判決さえ予想される今日、改めて裁判員制度の是非を考えるためにも必見の作品。
シネマテーク高崎で9月3日まで。

2010年8月25日水曜日

死んどるヒマはない 益永スミコ 86才

平和のためなら、憲法を守るためなら、党派なんていう小さな世界など縦横無尽に飛び越えて、今も闘い続ける益永さんのドキュメンタリー映画ができた。今年3月ビデオプレスで制作されたもので、今日初めて観た。とにかく反戦平和のためには「死んどるヒマはない」という女性だ。知り合ってから10年以上だが、その動きの良さには頭が下がる一方だ。私の後援会ニュースにも記事を書いていただいたこともある。
今年の暑い夏も署名活動等をしているという。群馬でこの秋にでも元気な益永さんに会えることを楽しみにしている。とにかくまっすぐ、正しい事をひたすらまっすぐ、明るく貫徹する人はそうはいない。

この作品を井筒和幸監督が観たいと言っていたので、土田君を通じて明日にでも送るつもりだ。5年ほど前、パッチギ上映会を玉村町で行い、その打ち上げの席上に、益永スミコさんは来ていて、「片岡死刑囚と養子縁組をした人」ということ知り、監督は特に強い印象を持っていた。井筒監督の直感として益永さんのことを「信じられる人」と思えたのだと思う。

2010年8月24日火曜日

群馬朝鮮学校の生徒のブルーベリー摘み


かねてから計画していた群馬朝鮮学校の生徒たちのブルーベリー摘みが23日に安中市内のブルーベリー畑で猛暑の中行われた。11時頃からの1時間半程度だったが、地元の人々の協力も得て、子ども達は甘さも増したブルーベリーを摘みながら食べていた。子ども達は暑さを吹き飛ばすほどみんな元気だ。この数年間、いちご狩り、ミカン狩りをしてきたが今年はブルーベリー、在日の子ども達が日本の人々と交流し元気に育ってくれることを期待する。子育ては社会の責任だ。

ドキュメンタリー映画「弁護士・布施辰治」の上映会の知らせが届いた。
1.10月2日(土)午後6時半から高崎市総合福祉会館2階 たまごホール、
2.10月9日(土)午後2時から群馬県総合公社ビル(前橋市大渡町)
「生きべくんば民衆と共に、死すべくんば民衆のために」と題し、朝鮮を植民地にした時代、差別、抑圧された朝鮮人民のために弁護活動を行った布施辰治の人生を描いた映画だ。韓国併合から100年目の今年、政府が情けない「韓国に向けた談話」しか発表できない状況下、渾身の力を込めて世に問える作品だ。是非必見の事。

2010年8月22日日曜日

吉井町・星空の上映会

 昨夜、吉井町鏑川ほとりでの「星空上映会」に行き、山田洋次監督「おとうと」を観た。吉永小百合と鶴瓶のコンビはいいね。どこにもある家族の姿を社会の有り様の中で描いている作品で、視点もいいと思うけど、国際映画祭だと、なかなかなんだよね。若松監督のキャタピラーは強烈に訴えているところが国際映画祭では受けるのだろうか。映画評論は難しい。観る人の感性もそれぞれ違うのだから、それぞれが勝手に評論すればいい。

 野外上映なので、どんな感じかと思ったが、鏑川の川原にトラックを持ち込み大きなスクリーンを張り、土手上から映写するという方法。300人程の観客は土手に座って、本当に星空の中での映画鑑賞、栗原君の虫よけ対策の効もあり無傷ですんだ。時々の涼風が気持ちよかった。
 この鏑川は太平洋戦争のとき、吉井町で唯一、米軍機の銃撃を受けたところ、川で遊ぶ子ども達が機銃掃射を受けた場所を選んでの上映会場。「戦争は破壊と悲惨をつくるだけで何も生み出さない。平和の大切さを伝えたい」との思いで1995年から上映運動を行っている「よしい星空の映画祭」。こだわっている人達の運動は強い。

2010年8月19日木曜日

興味深い玉村八幡宮の絵馬展  会場 玉村町文化センター

玉村町文化センターで8月28日まで開催されている玉村八幡宮の絵馬展へ行った。2度目だ。時間をとりゆっくり鑑賞した。特に「張良図」はいい。説明文を読み進むと、絵の内容が理解できる。張良は漢の三傑といわれる政治家で、周の軍師黄石公との出会いを画いた絵馬だ。
他に興味をそそったのは2枚の神功皇后と幼い応神天皇を抱く武内宿禰図。神功皇后は第14代仲哀天皇の皇后で、新羅遠征を行い、その途中で懐妊、帰国後、応神天皇を産んだとされている。その遠征のなかで仲哀天皇は死んだ。仲哀の死が2月6日で、応神の誕生が12月14日だから、ぎりぎり[10月10日]のなかに収まるから仲哀天皇の子だという言い分らしいが、父親はもっぱら武内宿禰と言うのが通説という。絵馬を奉じた江戸の時代もそうだったことがうかがえる絵馬なので大変興味深かった。
これでは万世一系はとぎれてしまう。武烈天皇のときもその代で実はとぎれた。次の継体天皇は明らかに一系の人ではない。その辺に感心を持ち、関裕二著「継体天皇の謎」を読み進めている。
また、「韓信股くぐり図」もいい。中国の名将韓信が若いとき、町の乱暴者に自分を刺すか、できなければ股をくぐれと挑発されたとき、黙ってその者の股をくぐる辱めをあえて受けた。後に大成したことから、大志を抱く者は目の前の苦労や屈辱に耐えなければならないという教えだという。
 当時も中国からの様々な教えを日本の大衆文化は受け入れていたことを示すものだ。この他にも「羅生門図」「義経弓流し図」田口7兄弟から奉納された「流鏑馬図」などたくさんの絵馬が展示されている。

2010年8月17日火曜日

突然の井筒監督の訪問にも的確に対応する


盆送りも済ませた頃、五料産業の土田社長から「これから井筒監督が来るので時間があったら顔を出して」という電話があった。猛暑でバテ気味だったのでビールを飲んで寝ようかと思っていたが、監督が来るなら話し相手も必要だろうと、夜道を自転車でホルモン屋に行くと、すでに土田夫妻、シネマテークの志尾支配人、小林さん、新婚の田中島さんの娘さん夫妻もいて、監督のひとり語りで盛り上がっていた。
 都会にいると、玉村町がのどかでいいのだそうだ。気楽な関係の土田文月もいるし、焼き肉を食べながら気楽な仲間でさまざまな語りをするのが清涼剤なのだろう。
 政治的臭覚は鋭く権威に対しては「そんなものなんぼのものよ」と反発力は相当なもの。次の映画は部落差別を描くことにより日本社会を暴き出したいとのこと。
まあ、とかく映画監督は個性的というか強烈のキャラの人が多い。物事の本質を暴こうとすると一般受けしないことを恐れず映像化する。若松孝二監督にしてもそうだ。閉塞感一杯の時代、何を言われても自己主張を貫徹する人が必要だ。井筒和幸監督もその一人だろう。
「連帯を求めて孤立を恐れず,力及ばずして倒れることを辞さないが、力尽くさずして挫けることを拒否する。」

2010年8月16日月曜日

本当に戦争に反対するってどういうこと

8月15日になると、マスコミは戦争の特集を組み、戦争の悲惨さを訴え、誰もが「二度と戦争は嫌だ」というが、国内の米軍基地は強化される一方で、危険な普天間基地撤去も進まない。それどころか民主党政権までが辺野古移設を飲んでしまった。「平和のための軍備、核の傘に基づく平和」ということだが、これは本当のところで戦争を前提にしている話だ。一歩間違えば戦争になることを前提としている。情緒的な戦争に対する嫌悪感だけでは戦争に反対しきれないだろう。
 戦争は何故起きる、誰が起こす。その辺を押さえておく必要がある。
1929年の大恐慌に際し、アメリカを救ったのは、ニューデイール政策ではなく、戦争だということが本当のところ。需要を無視した莫大な過剰生産が大恐慌の原因で、戦争により過剰の生産物を破壊し、荒野の大地で再生産を始める。朝鮮戦争の特需で日本は戦後復興に弾みをつけた。自国での戦争は困るけど、他国の戦争なら儲かるのだ。資本主義社会において、戦争を起こしてくるのは大資本、財界で、政治家ですらその使い走りにすぎない。ブルジョワジーにとり問題なのは、人間の命ではなく、いかに資本主義システムを維持するかなのだ。この辺から戦争を考えていけば新たな展開が考えられるだろう。

2010年8月14日土曜日

平居宅へ新盆見舞い


5月に亡くなった平居先生宅へ新盆見舞いに行った。同行の84才の小林悟さんは「これからは間違いなくトロツキーの理論が再評価される。」と強調する。その勉強会をしないかと呼びかけられたが、これは疲れるねえ。
若松孝二監督といい小林悟先生といい、やたらと思いの強い高齢者が目立つ。「人生の残り時間が少ないから叫ぶんだ」という「あきらめのわるさ、往生際のわるさ」は絶対必要と思うけどね。
岩城さんは早速、シネマテーク高崎で「キャタピラー」を観たそうだ。客入りは満席、寺島しのぶはすごい女優だと絶賛していた。
そんな話を平居宅でしながら、9月11日に「平居照朗先生をしのぶ会」を開くことを決めた。


同級生の掛川からは、12日に御巣鷹山へ慰霊登山したというメールが届くなど、それぞれの夏を過ごしている。

そうこうしているうち、自宅に帰った小林先生から「車の中に俺の携帯なかったかい」という電話がある。完璧な人はいないよ。お持ちします。ということで、結構、騒々しい半日だった。

今年の早滝は滝壺に何本も木の枝が落ちていて中に入れる状態ではないが、とにかく空気が冷たくしまっていて心地よかった。どんなときでも一人の時間は確保します。

2010年8月12日木曜日

忘れるな、これが戦争だ。この夏必見 「キャタピラー」


14日から公開される予定の「キャタピラー」の先行上映がシネマテーク高崎で若松孝二監督と俳優の大西信満さんを招き行われた。土田君と観たが満席の状況、さすがベルリン映画祭銀熊賞受賞作品の人気は高い。

国を挙げての戦争は社会を戦争一色にする。またそうしなければ戦争は遂行できない。徴兵があれば、お国のため、と喜んで出て行かなければならない。この映画で両手両足を失って送り返されてきた夫は「軍神」と持ち上げられ、しかし、妻は言ってみればその後の介護が銃後の尊い仕事となる。腹をくくった寺島しのぶはやはりすごい。並の女優じゃない。
若松監督の反戦への強い思いがこの映画となった。国際社会で高く評価されるこの映画が日本でどれだけ支持を得られるか大いに感心がある。

 舞台あいさつでも、私が「重信メイの「秘密」という本の中で成田空港まで迎えに来たのは若松監督とあったが」と話し出したら、「いやレバノンまで迎えに行ったよ」といきなり話はパレスチナに飛んでしまうし、「菅政権の韓国併合に関する談話は不十分」と言い出せば、北朝鮮国内のよど号事件の赤軍派の話になるし、とにかく帝国主義と戦争への怒りは並大抵なものじゃない。「普天間基地は閉鎖しかない。どうしても造るなら東京湾、国会も皇居もあるし、人も多いから基地で守ってもらえばいい」と明快発言。
「この映画、若い人にも観て欲しい。」15才未満への規制など気にもしないところはさすが若松監督、フトイ。
サイン会場で大西さんに「連合赤軍」では誰の役をやっていたのか聞くと、板東国男という。「坂東さんはどうしてますかね」「パレスチナへ探しに行ったけど見つからないんだよ」と若松監督、すでにパレスチナには17回ほど行っているという。
いつまでも燃えている若松孝二監督に乾杯。

 話は変わるが、こちらは我欲で燃え尽きた81才浜田幸一先生、とうとうお縄ちょうだい。ラスベガスへ何度行ったか知らないが、絶対パレスチナへは行かない。モンゴルでの金の採掘には、他人をだましてもカネをつぎ込むが、朝鮮は見下し見向きもしない。彼が国会議員当時、自民党の内紛に際し国会内でバリケードをつくり、イスを振り上げ、カメラに向かってヒーローよろしくまくし立てた。「子ども達の未来のために自民党があることを忘れるな」。勘弁してよハマコーさん、聞いてる方がひっくり返る。
あのとき「愛国心はならず者の最後の拠り所」という言葉を思い出したが、こんな手合いがこの娑婆には大勢さんいるからたまらない。声だけは大きいのが特徴で周囲を威嚇しながら生息している。
それから森元首相の息子さん、酒が切れたらキャタピラー観て立派に更生してください。
 断然、鎖国派より国際派だよ。

2010年8月11日水曜日

韓国併合から100年の今年の政府談話

菅直人首相は韓国に対し、韓国併合から100目の今年、談話を発表した。政府の公式見解を述べることは、当然のことではあるが、内容に関しては相当腰の引けたものになっていた。武力により朝鮮政府を組み伏せ併合し、その後、内鮮一体として太平洋戦争まで過酷な強制と動員を繰り返していった事実はそう単純なものではない。
日本国内に今何故50万人に及ぶ在日コリアンが存在するのか。原点は日韓併合にある。その在日コリアンへの対応はまるで、朝鮮侵略を反省しているとは思えない。未来志向というなら在日コリアンへの正当な待遇をしたらどうなのか。ここから始めるべきだ。彼らとの信頼関係を築けずして日韓、日朝関係の未来はない。談話を韓国だけに発するという対応も情けない。朝鮮半島を植民地支配したのだから当然、現在国交がなかろうが北朝鮮へも向けて発するのが筋であり、それこそ未来志向だろう。
 当時、朝鮮から奪い、くすめてきた多量の文物を小出しに「返す」、それも返すという言葉を使わず「渡す」などといって大衆の目をごまかそうという政治はいけません。そのことに反発しない韓国政府もかなりどうかしている。

2010年8月9日月曜日

第16回アジア映画祭を観る

藤岡市で毎年この時期に開かれているアジア映画祭で全作品「長江に生きる」「ムクシン」「シルク」を観た。地元箱石の夏祭りも7日に終わり、じっくり過ごせた一日だった。どの作品も優れていて、世界のさまざまな地域での人の営みや苦悩を表現している。新井藤岡市長や小林日出幸さん、同級生とも顔を合わせた。こういう映画だけの一日があってもいいかな。

2010年8月5日木曜日

それぞれの思いと形でこの真夏に学ぶ

とにかく暑すぎる毎日だ。そんななか議会運営委員会は5日、6日と滋賀県大津市へ議会運営の研修視察に出かけた。自立した町の本格的議会運営の深化のため大いに勉強して欲しい。宇津木議長、嶋田議員と昨日、「にしきの園納涼祭」で一緒したとき、この研修への意欲を語っていた。
 
10日は経済委員会、総務委員会が所管事務調査を予定している。それぞれの委員会、それぞれの議員の活動は暑い夏も続いている。

玉村町は平和教育の一環として、昨年(インフルエンザのため中止)から各小・中学校2名の生徒計14人が6日に行われる広島での平和記念式典に参加することなどを制度化した。2人の教員が付きそう形での実質今年が初めての企画だが、今頃は現地に到着し、くつろいでいるだろうか、緊張しているだろうか。
何しろ、今年は世界から、特にアメリカからも代表が参加する。「核廃絶を言うなら、ヒロシマに来い」ということ。秋葉広島市長も「非核三原則の法制化」を明日のあいさつでは訴えるそうだし、若い生徒達には、大きな平和への夢と希望を抱くきっかけになればと思っている。

2010年7月29日木曜日

連合群馬議員墾談会の勉強会


毎年恒例の連合群馬議員墾談会の学習会が昨日伊香保で開催された。参院選も終わって間もないこともあり、さまざまな表情の見慣れた議員が集合した。隣は山田高崎市議、その隣は角倉県議ときたら、話は弾んでしまう。来年の選挙に向けての戦略づくりで忙しそうだ。

講演は「公契約」に関し、神奈川県地方自治研究センター事務局長の勝島行正さん、「個を大切にする介護について」社会福祉法人新生会理事長の原慶子さんが話した。

公契約は、自治体が関係して外部の人(法人)と契約を結ぶ際、その契約の先で仕事をする人のこと(待遇)を考えての内容にしなさい、というもの。新自由主義政策の広がりのなかで、労働者の待遇が極めて劣悪な状況に置かれていることに着目したもので、今後このような姿勢の条例をつくる自治体が増えることが望まれる。単なる競争入札で「安かろう・悪かろう」の公共仕事が増えているようにも聞く。社会全般が安売り競争をしているようでは、みんな疲れるだけで、社会の本来の力が衰退してしまう。新自由主義の過ちを意識している内容の深い講演だった。
 そして、原慶子さん、旧榛名町にある新生会理事長だが、私はこれまで知らなかった。介護、福祉だけでなく、思想、哲学、政治等に関しても信念を持った人だ。困難な状況を正面突破する力は相当な自信と経験がなければできない。弱者に対する姿勢がいい。後藤かつみ県議の声掛けもあり、「福祉実践と平和の思想」という原さんの書いた本を買い込み早速読みはじめた。例えば、いわゆる拉致問題に関しての考え方にも同調できる。こういう人が地域で福祉の実践をしていることは力強い限りだ。

2010年7月25日日曜日

企画「ブルーベリー摘み」



群馬朝鮮学校の生徒さんにブルーベリー摘み体験をしてもらう企画の一環として、安中市内にあるブルーベリー畑を訪ねた。李和雨さんと学校側から金先生が参加し、前日この話を聞いた土田、栗原両君が友情参加。
この時期、どこへ行っても暑いことこのうえない。手入れのされた畑に入って、その場で食べながらのブルーベリー摘みは、格別のものがある。お盆までがピークだそうなので、子ども達の夏休みとの兼ね合いはどうかと思うが、実現することを楽しみにしたい。
 ここでは月に一度、参加者によるマーケットもしていて、昨日は、「南京玉すだれ」の実演もあり、なかなか盛況だった。地元の若い主婦層が主体のようで、地力を感じさせた。

 5時からは「玉村ふるさと祭り」初日のパレード、猛暑の仲、総勢19名、甲冑武者の出で立ちで参加、その後、小泉地区の夏祭りに顔を出し、地域の人たちとビールを飲みながらの四方山話。夕立の気配を敏感に感じ取り、自転車で家に着くと同時に大雨と雷の襲来、間一髪で間に合ったが、祭りは後の祭りになったろう。

 それにしても極端な猛暑の連続と何日かごとの夕立と大雨、どちらもこれまでの気候バランスとは明らかに違う。猛暑の連続で一方に振れきった時、雷と大雨で振れきった振り子を元に戻すような際だった天候バランスになってしまったのか。
 極端な過剰生産状況を大恐慌と戦争により調整、平準化させる資本主義社会のようになっては困る。

2010年7月23日金曜日

元死刑囚金賢姫を国賓級で遇し家族会を慰めるお気楽な政府

 あきれた話はいくつもあるが、これまたマンガのような事をする政府には、絶句しかない。
金賢姫はすでに終わった人で、彼女が拉致事件に関し、何も知らない事は周知の事実、その彼女を国賓級で招いて、「めぐみさんはきっと生きていますよ」と言わせ、家族会の人を慰める為だけに、膨大な税金を使い、果ては、遊覧飛行までプレゼントする中井と政府はどこまで腐り果てているのかと思わざるを得ない。
こんな猿芝居にも劣るイベントにはさすがの家族会も辟易だろう。全く国際社会の笑いものだ。

 北朝鮮に経済制裁ばかりしているので、外交関係は途絶した結果、こんな茶番にもならないことになってしまった。民主党政府も自民党政府と駄目さ加減の競争している場合じゃないだろう。
 特に、北朝鮮に関しては、多くの人が感情的になることに注目する必要がある。突き詰めると、言われなき差別ではなく、むしろ、「意識したくない自覚」のようなものがあることに気づく。その後ろめたさが逆に「果てしない差別」となり群集心理の中でいっそう増幅され、政治もその流れをあおるように運動していく。

 何回でも言うが、この問題を本気で解決しようと思えば、今の環境を変えなければならない。今年は「日韓併合から100年」という節目の年だ。少なくともその前後からの日本と朝鮮の歴史を少しぐらい知っておかないと対応は出来ない。植民地政策で朝鮮人をどのように扱ったのか。内鮮一体とし、言葉、名前、宗教(神道)まで強制していった。日本兵として、太平洋戦争に動員されていった。日本兵として特攻隊員になり死んでいった朝鮮人もいる。
日本人は加害者と言うことをまず一次的に自覚すべきだ。
1923年の関東大震災に際し、「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」とデマを流され数千人の朝鮮人が日本人により虐殺されたことに関し、日本政府はどれほどの真相解明をし、責任を取ったというのか。

 数年前、家族会の横田さんが韓国へ行き、拉致問題の解決の協力を求めたとき、当時ウリ党の国会議員の一人は返事を書いた。「朝鮮半島のたくさんのめぐみさんを返して」という内容だった。植民地支配の中、どれほどの朝鮮人が日本に拉致・連行されたか想像する力を持って欲しい。相手の立場になれなくて交渉などできるわけがない。

 悪意としか思えない対応ばかりしている今の状況で、事態が解決に向くはずがない。歴史に学べ。それしかない。秀吉の朝鮮侵略の後、江戸幕府は戦後処理使節として朝鮮通信使を受け入れた。江戸時代には12回の通信使が日本と朝鮮の文化、学問そして人間同士の交流に大きく寄与した歴史的事実をもっと知るべきだ。100年前は険悪な関係だったが、150年前は本当の信頼関係と国交を持っていた二つの国だ。

懸案事項を解決するための本気さが問われている。問われているのは、我々日本人とその政府だ。高校授業料の無料化に際し、朝鮮学校だけ排除するなどという姑息な事は即やめるべきだ。

2010年7月20日火曜日

14年ぶりの一茶は暑い夏




 小林一茶は、その不遇さもありとても気になる存在だ。3度ほど訪ねているが、最後に訪ねたのは、私の父親が闘病中だったが、家族旅行もできた14年程前のこと。家族で妙高高原へ行く途中だった。今のような立派な記念館ではなかった。行く季節はなぜかいつも夏。一茶記念館には、柏原町の一茶にかける強い思いを感じさせる展示品の数々がある。
 ナウマン象の模型を見て野尻湖を一周し、信濃町駅近くのそば屋で信州そばを食べ、小布施町でお茶を飲み、連休最終日の渋滞を避けるため、少し早めに高速を降り、吉井町のうまいとんかつの店で下山祝いをし、完璧な一日だった。20年前は、毎週、新潟の海に行き、良寛さんにまつわる地を訪ねていたが、海に行って泳ぐ気力がなくなった。やはり年かねえ。
 
 
   木々おのおの 名乗り出たる 木の芽かな
         (希望も意欲も感じさせる一茶27才の作)

 弥太郎(一茶)は父・弥五兵衛の後妻さつとの関係が悪化したため、父により江戸に奉公に出された。江戸で誹諧師として身を立てようとしたが、そう簡単なことではない。
40才近くなって久しぶりに実家へ帰った一茶に、年老いた弥五兵衛は、「財産二つ分け」の遺言状を一茶の弟・仙六、義母さつの反対を押し切って書き「大事にしまっておけ」と一茶に託した。田畑を大きくしたのは父の働きだけでなく、弟や義母に負うところも多いことを知っていた一茶は、遠慮をしていたが、長男である一茶を江戸に出さざるを得なかった父は、まだ独り者で生活も不安定な一茶に対し強い贖罪の気持ちから遺言状を書いたのだった。
父の死後、江戸での生活に見切りをつけた一茶は苦しさもあり実家に帰り、遺言状のとおりの財産分けを主張する。しかし、誰もがそれは無理という。本家の弥市の努力や村役人立ち会いの上での話し合いもつかないなか、名主の嘉右エ門を呼んだがこれでも話がつかない。最後に遺言状を手に一歩も退かない一茶と集まった者達に、「遺言状というものは重いもの、出るところへ出ればこれがものをいう」と嘉右エ門は裁定を下した。
具体的な財産分けでも大もめし、菩提寺明専寺の住職に入ってもらわねばならなかった。

古里やよるも障るも茨の花
(古里に帰り、親戚一同と一悶着して割り込んでいかねばならない状況の時作った歌)

そして一茶52才の時28才の菊と結婚、歌仲間の德左エ門が「江戸帰りの宗匠で、いまにこのあたり一帯に一茶社中をたてる人だ」といって口説いてくれた。
長男・千太郎、長女・さと、二男・石太郎、三男・金三郎と次々子どもが生まれた。
妻を持ち子どもをもっていい句も生まれた。

あの月を とってくれろと 泣く子哉 (作51才)

短夜や くねり盛りの 女郎花 (作51才)
(何とも色っぽい歌だ)

我と来て 遊ぶや 親のない雀 (作52才)

ふしぎ也 生まれた家で 今日の月(作54才)

這へ笑へ 二つになるぞ 今朝からは (作56才)

目出度さも ちう位也 おらが春 (作57才)

雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る (作57才)

あるとき夫婦喧嘩で傷ついた菊はとうとう実家に帰ってしまった。数日後の日暮れ、人恋しくなった一茶は、柏原から野尻に向けて歩いていた。女房の尻を追っかけるようにしてこんなところまで来てしまった自分に腹が立ったが、今夜も帰らない菊にも腹が立った。そんなとき街道をこちらに近づく足音がする。「おとうさん、迎えに来てくれたかね」。菊と分かった一茶は不意に目が潤んだ。「仲ようせんとな」。
その夜、一茶は「お前は菩薩さまじゃ」と言って、ひとつ床の菊を抱いた。「私が観音さまじゃ、なぜ悪口言って泣かせた?ん?」。夜の深まりのなか、54才の男と30才の女がまるで20代の男女のように騒々しく睦み合った。
翌朝、机の句帳を取り出し、昨日8月8日の項を書いた。「晴、夕方一雨。雲竜寺葬。菊女帰」と書いた。しばらく考えた後、「夜五交合」と書き足した。
この4文字を追加したために、一茶は後世で「荒淫」とも「好き者」とも言われる。4回やろうが5回やろうが、それはたいしたもんだとは確かに思うが、一茶と菊にとり、肉体的にも感情的にもそれだけの回数をこなす舞台が整っていたということだろう。それに尽きる。
しかし、足を悪くし、杖を使わずに歩くのに苦労していた一茶に不幸は襲いかかる。
生まれた子どもが、いずれも幼くして亡くなり、菊も37才の若さで亡くなる。

ともかくも あなた任せの 年の暮れ (作57才)

木枯らしや 廿四文の 遊女小屋 (作57才)

春立つや 二軒つなぎの 片住居 (作58才)

やれ打つな はえが手をする 足をする (作59才)

(どの歌もやたらとしんみりさせたり、小さなものを見たりと一茶の置かれた悲観と貧困の状況を現している。)

一茶62才で、雪という女性と再婚するも、酒を飲み過ぎ寝小便をするなどし、ふた月あまりで離縁。
雪が去った1ケ月ほどした頃、一茶は二番中気をわずらい言葉も不自由になった。門人の家から家へ転々と手渡され12月になり柏原の自宅に戻った。面倒を見てくれる人はいない。

寒空の どこでとしよる 旅乞食(作62才)

そして最後の結婚相手は雪が去ってから2年後、自分の身の始末も満足にできない一茶に嫁いだやをは32才。柏原の小升屋に乳母となって雇われていたが、柏原で一番の大地主中村徳左衛門の三男との間にできた2才になる倉吉を連れてきた。一茶はやをの素性に菊を重ね合わせた。
やをは年寄りの一茶に愛情を持ち、家のことも一茶の面倒もみた。一茶はそのやをに身ごもらせ65才で死んだ。(54才での回数よりこの方が驚きだ。)
枕元では、やをは一茶の手を握りながら泣き、義母さつも看取った。翌年生まれた娘・やたは46才まで生きる。


山寺は碁の秋 里は麦の秋 (作63才)

花の影 寝まじ 未来が恐ろしき(作65才)

「わしを誰もほめてはくれなんだ。信濃の百姓の句だという。わしやの、やを、森羅万象みたいな句にしてやった。月だの、花だのと言わん。馬から虱、そこらを走り回っているガキめらまで、みんな句に詠んでやった。ざっと1万、いや2万句じゃぞ。そんなに沢山に句を吐いた人はおるまい」「えらいもんだねえ、じいちゃん」}{一茶・藤沢周平}

映画「川の底からこんにちは」で主人公が「どうせ私は中の下よ」と叫び、「サイタマノラッパー」も「中の下」の世界だ。一茶自身、「中の下」?
なによりその時代はほとんどの人々は貧しかった。一茶に感心があると言うことは、一茶と周辺の人々、その時代を生きた人々に思いを寄せること。そして最後に解ることは、中も上も下もありゃしないということ。
誰もが時間の同じ刻みのなかで、一度の人生をそれぞれ生きているというだけのこと。
「中の下 それがどうした それでどうした」

2010年7月17日土曜日

芝根地区区長と議員の懇親会



芝根地区の区長と議員の懇親会が川井の天狗で開かれた。区長8人、議員4人の12人で年に一度のペースで開かれている。酒も入っているので、かえって深い話ができる。区長は1年代わりのところが多いので継続性という点では弱い感じがする。地区の代表ということを考えると、現在の町との役割分担を見直す時期に来ているように思う。しかし、地域主権の時代に対応できる区と区長の役割を考える場合、そういう意識転換ができる区になっているかということが一番大事なところ。まだまだ先のことだろう。政府だって混乱しているのに、小規模自治体の区にそのことを求める方が無理な話だ。
 途中、雷で停電したり、大雨になったりしたが有意義な懇親会だった。
 17日は花火大会、山ノ内町からもお客さんが来る。果たして天候はと心配したが、花火には最高の夜となり、どれほどの人が参加したのかは分からない。山ノ内町のみなさんはご満悦の様子で帰途についた。

2010年7月15日木曜日

玉村町の戦争遺跡調査報告書について

3ケ月ぶりの玉村町九条の会の会議に参加した。
参議院選の結果やら町政の問題を話ながら、本題に入っていった。
 2007年11月から2010年春にかけて玉村町の戦争遺跡調査をしていた九条の会調査小委員会がまとめている戦争遺跡調査記録の現状報告を受けながら、今後の展開を話し合った。今は荒削りだが、完成するとなかなか本格的歴史書にでもなるのではないかと思える程の内容だ。町中を歩き回り戦跡調査をした足跡がよく出ている。文章は大墳先生、地図図面は金子修さんの力作だ。まだまだ途中の段階だが、参加者の意気込みは並々ならぬものがある。
 いずれ本として出版されたら、戦争がこの町にもどれほどの被害をもたらしていたかと言うことがよく理解されると思う。改憲に向けて動き出そうとしている政治の動きを止めるためにも大事な事業だ。

2010年7月12日月曜日

「命を大事にする政治」をやってみろ

昨日の選挙結果はボロボロだ。群馬県1議席は断然自民党と言うことがよーく分かった。理由はともあれ自民党に投票する人が55万人もいるとは驚きと言うほかない。自民党はその歴史的使命をすでに終えていると考えているが、民主党があまりに力なく頼りないため、自民党に戻らざるを得ない、と思っている人が多いと言うことだろう。小寺さんも落選、一方、選挙戦間近に「みんなの党」から出馬した上野が当選とは、神のいたずらにしても、度を越している。また、社民2議席、共産3議席ではどうにもならない。保坂も次点。夢も希望もない結果だけど、そこから希望を見いだすとすれば、この混乱は政界再編の機会到来と言うことだろう。しかし、期待できる政党がないというのが、頭の痛い所。大きなため息をつきながらも、それでも歴史は進んでいく。あきらめたら終わりだと言うことを歴史は教えている。

柔ちゃんをはじめとする国会議員連中に観せたいものだ、「二十四の瞳」。久しぶりにシネマまえばしに行き、はじめて観た坪井榮原作「二十四の瞳」だが、泣けてきた。大石先生と生徒達の20年以上にわたるふれあいを戦争という時代背景の中で描いている名作だ。
民主党政権は命を大事にする政治を本気でしてみろ。普天間基地の辺野古移設は出ないはずだ。

2010年7月11日日曜日

小政党にとり比例区しか議席獲得の機会はない

投票日、1時間ほど利根川サイクリングロードを散歩した後、箱石の投票所で投票をした。選挙区はどうしても大政党の議席争いとなり、小政党が入り込めない。民主党の議員の中にも結構、光っている議員は全国的にはたくさんいるが、普天間基地問題で明らかなように、全体としての声にならない。大政党のなかで埋没してしまっている感がある。
 私は、それでよし、とはしない。国民の本当の声を国政に、と考えたらこれまた大変だけど、比例代表のなかで全国からの声を結集し、議席獲得するしかない。小政党に議席を与えてこそ参院の存在価値がある。新自由主義に反対する政党の議席を一つでも多く積み上げること、これが今回の選挙の課題だ。

今日は、午後から、映画「クロッシング」をシネマテーク高崎で観た後、シテイーギャラリーで14日まで開催されている「獄中35年・星野文昭絵画展」に足を運び、夜は富岡ゆきお事務所で多くの仲間と開票を待ちたい。とにかくぶ厚い自民党の壁と果敢に闘い抜いた富岡本人と選対、その仲間達を讃えたい。