(ザ・コラム)戦後69年 抑えきれない怒りの行方 大久保真紀
2014年8月16日05時00分
会場で配られた式次第に印刷されている文面を目で追っていると、異変が起きた。
暴挙!? なんと強烈な表現なのだろう。式次第にあった文面は「今、進められている集団的自衛権の行使容認は、武力で国民の平和を作ると言っていませんか」だった。
異変は続く。「日本が戦争ができる国になり、日本の平和を武力で守ろうというのですか。武器製造、武器輸出は戦争への道です。いったん戦争が始まると、戦争は戦争を呼びます。歴史が証明しているではありませんか」。文面にない怒りの言葉が、被爆者代表の女性の口から発せられた。
*
「黙っていられなかったんです」
城臺さんは、とっさの判断だったと打ち明けた。
当日は、式典開始の一時間半以上前に会場に到着。自席で待機しながら、昨年10月に被爆者代表になる打診を受けてからの日々を振り返っていた。特定秘密保護法の制定。原発の再稼働や輸出に突っ走る政府。強調される中国脅威論。集団的自衛権の憲法解釈の変更……。この1年、日本で起きたあまりに多くの異変。その一つひとつを思い浮かべていると、真正面の来賓席に入ってくる政治家たちの姿が見えた。
公明党の山口那津男代表が歩いてきた。「平和の党と言いながら、結局、集団的自衛権の解釈変更に賛成したのよね」。民主党の海江田万里代表も来た。「もう少し国民が民主党政権を我慢しなければいけなかったわね」……。ほかの党の党首、大臣らが続き、最後に入ってきたのが、安倍首相だった。
「ムラムラと怒りがわき上がってきたんです」。用意した文面は市役所職員と詰めて考えたものだったが、ここは、被爆者代表として面と向かって抗議しなくては。そう腹をくくったのだという。
城臺さんは6歳のとき、爆心地から2・4キロの自宅で被爆した。近所の友人たちは成人後にがんなどで次々と亡くなった。38年間小学校の教壇に立ち、16年前から語り部を続ける。孫が7人いる。「孫世代の子どもたちを戦場に送ったり、戦禍に巻き込ませたりすることはあってはならない」
式典後、城臺さんの自宅の電話や携帯電話は鳴りっぱなしだった。「私たちの気持ちをよくぞ言ってくれた」。被爆者仲間や全国から「感動した」との声が相次いだ。
*
ふと、ある詩が思い浮かんだ。
ふたりのこどもを くににあげ
のこりしかぞくは なきぐらし
よそのわかしゅう みるにつけ
うづのわかしゅう いまごろは
さいのかわらで こいしつみ
祖母は「皇国の母」だった。次男が太平洋の孤島で戦死したことが伝えられたときは、「名誉の戦死」として赤飯を炊いて祝った。だが、1946年5月、木村さんの父で、農家の跡取り息子だった長男が、出征先の中国ですでに病死していたことがわかると、一転した。蚕室に三日三晩こもって泣き明かし、その後、ご詠歌の節回しで即興的に歌い始めた。蚕の世話をしながら、祖母は10年、呪うように歌い続けた。
祖母は字が書けなかった。「祖母の思いを受け継ぐのはオレだ」。そう思った木村さんは、死期が迫る祖母の枕元で、怨(うら)み歌を次々と書き取った。
にほんのひのまる
なだてあがい
かえらぬ
おらがむすこの ちであがい
0 件のコメント:
コメントを投稿